航天英雄の誕生とこれからの英雄像2008年02月01日

 近年、中国の教科書における英雄像に変化が見られる。従来は先に紹介した救国英雄や模範英雄、烈士が英雄として讃えられてきたが、現在の教科書では模範英雄や烈士の逸話は減少傾向にあり、一方で科学技術の分野で国家に貢献した科学者等の逸話が増加傾向にある。

 新しい英雄のあり方を予感させるのが、「航天英雄」(宇宙英雄)の誕生である。2003年10月15日、空軍の楊利偉中佐を乗せた神舟5号は、甘粛省の酒泉衛星発射センターより打ち上げられ、翌日無事帰還し、中国は有人宇宙飛行に成功した。ノーベル賞学者の楊振寧は「国家は名誉を得、国民は自信を得た」と賛辞を贈り、中国はアメリカ、ロシアと並び宇宙飛行の三強、になったとして国家を挙げてのお祭り騒ぎになった。この有人宇宙飛行を成功させた神舟5号の宇宙飛行士の楊利偉には江沢民中央軍事委員会主席より「航天英雄」の称号とメダルが贈られた。ちなみに神舟五号は、中3で学ぶ課程標凖教科書「歴史と社会」の表紙になっている。

 一方で新しい形の模範英雄も登場している。例えば、2007年2月に溺れた少年を救助して犠牲になった劉旭に対し、同年5月に教育部から「全国舍己救人優秀大学生」の栄誉称号が追贈された。このように人命救助等「見義勇為」(正義感のある勇敢な行為)を積極的に顕彰し、大学受験においても加点の対象にして、推奨しているのである。

 中国の経済発展と平和が続けば、今後もこのような英雄が次々と登場するであろう。

中国人ならだれもが知っている英雄ベチューン(1)2008年02月02日

 中国の第一級の英雄に外国人がいるのは意外なことかもしれない。カナダ人の外科医師「白求恩」、ヘンリー・ノーマン・ベチューン(Henry Norman Bethune)は、中国人なら誰でも知っている大英雄である。

 毛沢東は1939年12月21日、ベチューンが活動先で逝去した事実を知って、有名な論文「ベチューンを記念する」を書き、ベチューンの不眠不休の医療活動と貧しい人々への無私の奉仕、その国際主義と共産主義の精神とを讃えた。この論文「ベチューンを記念する」は、1949年中華人民共和国建国後、中学校の国語教科書に収録され、特に文化大革命中の「三大必読文献(老三篇)」となって誰もが暗唱させられ、更に小学校の国語教科書にはベチューンの逸話が収録されたことから、ベチューンは中国で最も有名な人物の一人となった。

 小学教科書の逸話が描いているのは、抗日戦争の最前線「斉会戦」前線そばの移動野戦病院での医療活動の様子である。ベチューンが、爆弾が付近に落とされている中で、頑として避難を拒み、次々に運ばれてくる重傷の兵士達の手術を休むことなく続け、ついに三日三晩、69時間手術台から離れなかったというエピソードである。  このエピソードを含め、中国で知られるベチューンの生涯は周而復が小説「ドクター・ベチューン(白求恩大夫)」で書いたような様々な伝説で彩られている。ただし、課程標凖の教科書になってからはベチューンの名を見かけなくなった。

参考:R・スチュワートの『医師ベチューンの一生(BETHUNE)』(1970年代の調査に基づく内容であることを念頭に読むことをおすすめします)

中国人ならだれもが知っている英雄ベチューン(2)2008年02月03日

 カナダにいたころのベチューンは、医学界で胸部外科の分野で高い評価を得た医者であり、トロント大学で教鞭を執っていたこともある教育者であり、外科手術用の器具を発明して成功をおさめた発明者でもあった。しかし、その複雑な性格と過激な言動ゆえに個人的な生活は不幸だった。

 ベチューンはやがて、共産主義に共鳴し、カナダ共産党に入党、1936年スペインの内乱が起こるとスペインに赴き独自の発想で「カナダ輸血班」を組織してスペイン全土の反ファシスト組織に血液を供給する活動を立ち上げ大成功を収めた。しかしながら、人間関係で躓き、大きな問題となったので、カナダ共産党は彼を資金集めの講演旅行を理由にカナダに連れ戻した。この時、ベチューンは歓呼の声で民衆に迎えられた。

 その後カナダとアメリカを講演旅行して回っていたベチューンは、1937年に日中戦争が勃発したことを知ると、すぐさま医療チームを探し、自ら結成に関わり、資金を募って、アメリカ人医師チャールズ・H・パーソンズ(到着後ベチューンと衝突して間もなく帰国)とカナダ人看護婦ジーン・イーウェンと共に中国に入った。ベチューンは延安を経由して抗日戦争の最前線「晋察冀(山西・チャハール・河北)」軍区の病院、或いは戦場のそばへ積極的に移動して、傷病者の治療に従事、医師や看護者の教育、医療設備の整備等に尽力した。帰国して資金を募る計画を立てていた矢先、手術中の感染で敗血症となり、1939年逝去した。ベチューンが中国にいたのは2年足らず、その間毛沢東と一度会い、手紙を何回も送っていた(毛沢東によれば一度返事をした)ことから、毛沢東はベチューンの逝去に際し、哀悼の意を表した文章「記念白求恩」(ベチューンを記念する)を発表した。そして中華人民共和国成立後、ベチューンは中国革命の第一級の英雄の列に名を連ねたのである。

 一方、故国カナダではベチューン評価は長い間行われなかった。テレビのドキュメンタリーや映画が作られて一定の評価を得たことがあったが、共産主義を警戒するアメリカの抗議によって、すぐさま放送や放映ができなくなった。ベチューン評価がカナダで公に行われるようになったのは中国とカナダの国交が回復した1973年秋以降のことである。カナダのトゥルードー首相が国交回復の為に訪中した際、その日程にはノーマン・ベチューン博士の墓へ詣でる為の石家荘市への旅が含まれていた。更にカナダ政府は帰国後まもなく中部カナダの小都市グレーヴンハーストにあるベチューンの生家を買い入れ、専門家チームが資料収集の為にスペイン・イギリス・アメリカ・中国へ赴いて三年後にはベチューン記念館をオープンさせた。ベチューンの顕彰は、当時のカナダが中国との国交を回復するにあたり、欠かせない政治的配慮であった。

日本統治時代の漢文読本(台湾・日本統治期の教科書)2008年02月04日

 日本の植民地となった台湾であったが、昭和一桁までは台湾人の通う公学校で漢文の授業があった。そして、台湾人のインテリ家庭では私塾等で中国語を子弟に学習させていた。そのためのテキストとして、中国の国語教科書を輸入し、再編集して出版するということが行われていたようである。

 台湾で本島人児童用に出版された『漢文読本』を見たことがある。奥付を見ると年号も「昭和」、嘉義で発行されており、編集、校正も台南州嘉義で行われているが、印刷所は上海・中正書局である。挿絵の服装や内容をみると、原本は明らかに中国の国語教科書である。恐らく、原本は中正書局の国語教科書、それを台南州の「蘭記図書部」が再編集し、政治的な部分等(三民主義等の記述)を削るなどの修正を加えた上で、本島人児童用の『漢文讀本』として発行したものであろう。なお、中正書局は現在も台北にあり海外の華僑の子弟向けの本を出版している。

革命のために命を捧げた人「烈士」2008年02月05日

 最近は減少傾向にあるようであるが、中国の「語文」教科書には多くの烈士の逸話が紹介されている。烈士とは「正義の事業(特に革命)のために命を捧げた人」である。特徴的なのは党からその犠牲的行動に相応しい特別の称号や題辞が贈られている。

 例えば、解放戦争で敵方に捕らえられ買収しようとする国民党にあくまでも刃向かい1947年1月に公開処刑された女性劉胡蘭には毛沢東から「生的偉大、死的光栄」という題辞が送られ、同じく解放戦争で相手の砦を後略する為に自らを犠牲にして血路を開いた董存瑞は「戦闘英雄、模範共産党員」という称号が、朝鮮戦争で戦闘中大怪我をしていたにもかかわらず、掃射中の機関銃の銃口を身を以て塞ぎ1952年10月に壮烈な死を遂げた黄継光には「中国人民志願軍特級英雄」「朝鮮民主主義共和国英雄」の称号が、1979年のベトナム侵攻作戦(中越戦争)でダイナマイトを持って突撃し自分を犠牲にして敵の砦を焼き払った陶紹文には「董存瑞式的戦闘英雄」の称号が送られている。

 逸話の舞台は中国国内、朝鮮半島、ベトナム等で、年代も1937年から79年まで幅があるが、内容には共通性がある。烈士の行動には、全く自分を顧みない凄まじいまでの集団主義が貫かれ、善悪、敵味方の構図もはっきりしている。それらを見ると烈士の逸話の教科書に於ける役割は歴然としているようである。

2006年施行の義務教育法について2008年02月06日

 近年、中国の教育界は変化が激しい。中でも2006年9月に施行された新しい義務教育法の制定には様々な紆余曲折があった。経緯を追ってみたい。

 1986年の義務教育法と1992年の実施細則には不備があることが、施行直後から指摘されていた。根本的問題として、義務教育経費投入経費総量の不足と財政制度の不備があり、更に県や郷などの財力の低い部分に重い管理と財政責任を負わせたために、経費投入における地域間、都市と農村間の不均衡が生じ、義務教育そのものが深刻な不均衡状態となっていた。様々な国家プロジェクト等を通じて、不均衡の是正を図ったが、これにも自ずと限界があった。

 そのような状況下、2003年の第十期全国人民代表大会第一回会議では、2977名の代表中600名近くの代表が義務教育法修訂を強く求めた。このときを境に国は本格的に義務教育法修訂に向けて動き出す。2003年6月には義務教育法修訂が第十期人民代表大会常務委員会の立法計画の一部に組み入れられ、2004年6月に国務院に提出された教育部の原案をもとに国務院・教育部・財政部が協議した結果、全8章95条の修訂案が準備された。更に修訂実現に拍車をかけたのは、2005年に提出された22件の議案は義務教育法修訂に関連するもので、740名の代表がこの議案提出に署名したことである。全国人民代表大会の歴史上、全体の五から四分の一の代表が三年連続で特定の法律の改正を求めるのは極めて異例なことであった。2005年8月には、議案を提出した人民代表のリーダー21名と国務院・教育部・財政部の関係者、専門の学者を交えた座談会が行われ、2006年1月には国務院総理温家宝の司会で開かれた国務院常務委員会で原則として修訂案が通り、2月から6月にかけて第十期全国人民代表大会常務委員会の審議にかけられ、ついに6月29日の第22回会議で改正案が採択された。

 そして2006年9月1日、大幅に修訂された「中華人民共和国義務教育法」が施行される運びとなったのである。

 2006年9月1日に施行された「中華人民共和国義務教育法」(以下改正法という)は全8章63条で構成され、1986年の「中華人民共和国義務教育法」(全18条)・1992年の「中華人民共和国義務教育実施細則」(全8章46条)(以下旧法という)を大きく改善した内容となっている。 例えば旧法では実現できなかった義務教育の完全無償化、旧法でフォローできなかった都市に出稼ぎに来ている家庭(流動人口)の子女の居住地における教育実施等、過去20年間実施した義務教育法の経験と教訓を踏まえ、現実的な解決方法を盛り込んでいる。

 更に改正法は、重点学校や重点クラスの禁止など義務教育における教育資源の不均衡や不公平を抑制した「均衡発展」を目指し、「素質教育」という理念を盛り込んでより高い資質を備えた人材育成をうたい、貧困地域や貧困家庭への支援強化と法律責任の明確化と罰則強化により法の執行力を高めることで義務教育実施のための「保障機制」を整えた。 改正法の高い理想は今後の中国教育界の道標であることは確かだが、現状は厳しいといわざるをえない。教育行政の場で、教育現場で、この理想と現実の間のギャップを如何に埋めていくのか、注目していきたい。

清朝末期、近代教育の始まり(清末~民国初期の教科書)2008年02月07日

 中国で欧米式の教育が取り入れられたのは、清朝末期、アヘン戦争後のことである。アヘン戦争における敗戦の衝撃は大きく、欧米の科学技術、学問を見直すきっかけになった。短期間に、欧米や日本の教育課程を導入した官立の学校が各地に造られた。

 教科書については、ミッション系の学校で欧米の教科書を翻訳した教科書が作られたのが最初で、それが各地の官立の学校でも使われるようになった。翻訳教科書の他に、宣教師等によって編まれた教科書もあった。中国の風俗習慣を盛り込みつつ、各所にキリスト教的教義をちりばめたものであったという。

 中国初の国産の国語教科書は、1897年(光緒23年)に南洋公学から発行された『蒙学課本』(上中下)であると言われている。「蒙学」とは啓蒙という意味である。この教科書には社会科学、自然科学、国語などが織り込まれた。現在、北京図書館に保存されている。次に確認されているのは1898年の『蒙学読本』(全7冊)で無錫三等学堂の教師により教学の実践に基づいて編まれた教科書である。内容としては社会科学や自然科学、歴史、故事成語、修辞法等が織り込まれた。文語体であり、儒教思想教育を引き継いではいたが、体裁としては近代の教科書に近い。

 国家が教科書に関わるようになったのは、1903年(光緒29年)の癸卯学制公布以降であり、中国初の教科書検定は清朝政府が1905年設立した「学部」に1906年「編訳図書局」が設置されたことに始まる。これが中国で最初の教科書検定機関になった。

戦争の犠牲になる子ども達2008年02月08日

 日中戦争のことを中国では「抗日戦争」と呼ぶ。1930年代から40年代を舞台にした中国の小説やドラマには、抗日戦争時代、抵抗して犠牲になったり、戦禍に巻き込まれたり、戦禍や日本の支配を避けて逃亡したり、家族がバラバラになっていく人々の姿が描かれる。

 例えば、趙薇(ヴィッキー・チャオ)主演の『京華煙雲』、北伐戦争から日中戦争までの三つの大家族の盛衰を描いた林語堂の小説をドラマ化した中国版大河ドラマもそうだ。ドラマは主人公の木蘭が幼い頃に家族で戦禍を逃れる旅の途中に人さらいに遭い小屋に閉じこめられるところから始まり、最後は木蘭の家族が戦禍を逃れて北京を脱出し、一方で日本軍に屋敷を取り囲まれ、甲骨文を渡すように強制された木蘭の父親が甲骨文を保管した蔵に火を放り日本軍人を道連れに壮絶な死を遂げて終わる。

 台湾の作家・瓊瑤の『我的故事』には、彼女が幼い頃体験した北京から重慶への逃亡の旅が綴られる。途中、弟達とはぐれるエピソードもある。(運良く再会できる)この旅は彼女と家族にとって、相当に辛く厳しいものであったようだ。

 また、茅盾の「大鼻の話(大鼻子的故事)」は、第一次上海事変で両親と家を失った子どもを主人公にした小説である。彼は7,8歳の時に第一次上海事変でその両親と家を失ってしまった。孤児を集める場所に一旦は収容されたものの、間もなく街頭へ放り出され、以来、「大上海」の片隅で、野良犬と共にゴミ箱をあさり、物乞いをしたり、人力車を牽く手伝いをしたりして、食べ物を手に入れ、瓦礫の下などを住処にして生き抜いている。そんな彼がある日抗日デモに出会い、抗日に目覚める姿をこの小説は描いている。

 日中戦争がなければ、逃亡する必要もなく、はぐれることも、誘拐されることもなく、まして両親を亡くすことも、家を失うこともなかったはずで、野良犬のような生活をすることもなかったはずなのだ。戦争は目に見える犠牲以外にも、生き残った中国人の心と人生に深い傷を残したのである。日中戦争に限らず、戦争とは実に悲惨なものである。私たちは子ども達がそのような悲しい心の傷をつくらないですむよう、いまから出来ることをしよう。

日本の学制に範を取った「欽定学堂章程(壬寅学制)」2008年02月11日

週末は風邪で寝込んでしまいました(@_@)毎日続けるのはなかなか大変ですね~。今日は中国最初の近代教育を導入した学制が、実は日本とふかーい関係にあることを書こうと思います。

 中国で初めての近代教育を導入した学制は、1902年公布の「欽定学堂章程」で通称は「壬寅学制」である。管学大臣の張百煕は中国最初の学制「壬寅学制」を起草するにあたり、12名の考察団を欧米の教育システムをいち早く導入した日本に派遣して教育の視察を行っている。そのため、中国初めての学制「欽定学堂章程」は日本の学制と学校制度を全面的に模倣した内容となった。

 初等教育を例に両者を比べてみよう。「欽定学堂章程」は教育段階に合わせて、「京師大学堂章程」「大学堂考選入学章程」「高等学堂章程」「中学堂章程」「小学堂章程」「蒙学堂章程」に分かれている。この内、初等教育について定めているのは「蒙学堂章程」「小学堂章程」である。 蒙学堂4年、小学堂は尋常と高等の二段階に分けて、小学堂3年、高等小学堂3年、合計10年を修業年限とし、中でも蒙学堂と尋常小学堂の6歳から13歳までの7年間を義務教育と定めている。学習課目は、蒙学堂では「修身、字課、習字、読経、史学、輿地、算学、体操」、尋常小学堂では「修身、読経、作文、習字、史学、輿地、算学、体操」である。(「輿地」は「大地、地球、全世界」を意味する言葉で、地理にあたる教科)

 一方、日本で1881年公布された「小学校教則綱領」では、小学校は初等、中等、高等の三段階になっているが、義務教育の始まりは1886年施行された「小学校令」である。ちなみに「小学校令」では小学校を尋常と高等に分け、6歳から14歳までの8年間を義務教育と定めている。「小学校教則綱領」の学習課目は小学初等科では「修身、読書、修辞、算術の初歩、唱歌、体育」小学中等科では「修身、読書、習字、算術の初歩、唱歌、体操、地理、歴史、図画、博物、物理の初歩」(女子生徒には裁縫も)である。以上のように、学制も学習課目も若干の違いはあるものの、「蒙学堂章程」「小学堂章程」は、日本の「小学校教則綱領」「小学校令」に細部にわたり非常に似通っている。

 但し、この「欽定学堂章程(壬寅学制)」、公布はされたが、は1903年11月に廃止され、施行されなかった。

日中戦争時代の教科書2008年02月13日

 最近抗戦期の教科書を見ている。後の中国における抗日教育の原点は恐らくこの時期にあることを強く感じる。

 例えば、1940年(民国29年)正中書局から発行された高級小学向けの『社会』の中味は正に抗戦一色である。「公民」「歴史」「地理」の部があり、例えば「公民之部」は「一、抗戦の意義」「二、抗戦建国綱領」「三、我々の領袖」「四、我々の軍隊」「五、全国総動員」「六、兵役法」…この時期、東北地方を解放するのが大きな課題であったから、各所で東北地方についての解説や日本に占領された経緯が紹介されている。

更に1942年に正中書局から発行された『国語常識混合編制 抗建読本』は、最初の頁は「鳴 鳴 鳴 警報 警報」(筆者注:「鳴」は警報音)一年生はじめての新出漢字は「鳴」「警」「報」の三文字である。続くページも「警報、警報、敵機が飛んできた」「火 火 火 敵機が焼夷弾を落として、多くの家に火が着いた」…他にも中国軍と日本軍の飛行機の形や記号の違いを教えるなど、見ていると心が痛くなる教材ばかりだ。

 警報が鳴り響き、飛行機が飛んできて焼夷弾を落とす危険が日常であり…日本軍と中国軍の飛行機の記号の違いを判断できなければ生命の危険がある、という切実さがある。