書き換えられたイソップ寓話――求められる徹底的な無欲(『九年義務教育五年制小学教科書 語文』第2冊より)2008年03月02日

やっと風邪をひかない週末を迎えている(^o^)今日は以前HPにも載せていた原稿から。

 小学校一年生向けの教材に「斧の物語」というのがある。こんな話である。
 昔、貧しい子供がいた。ある日、芝を刈りに山へ行き、丸太の一本橋で斧を川に落としてしまった。子供が泣いていると、老人が出てきて「なんで泣いているのだ?」と訊ね、子供が訳を話すと、老人は水中に潜って斧を拾ってくれる。老人はまず金の斧を拾って見せて「この斧がお前のか?」と聞くと子供は「それはおいらのじゃないです」と答える。次に老人は銀の斧を拾って見せる。子供はまた「違う」と答え、三度目にやっと老人は子供の落とした鉄の斧を拾って見せた。子供は喜んで「それがおいらのです。ありがとうございます。」と礼を言う。老人は微笑んで「お前はとても正直だな。この二本の斧もお前にやろう。」という。しかし子供は「お爺さん、おいらの物じゃない物は、いりません。」と言い、自分の斧を持って去って行った。老人は満足そうに子供の後ろ姿を見ながら、微笑んで頷きと消えてしまった。

 このどこかで聞いたことのある物語、元になっているのは、イソップの「樵夫とヘルメス」、日本では「金の斧、銀の斧」としても知られている寓話である。オリジナルの話では、子供は樵、老人(仙人?)は神様で、欲張りの樵が登場し嘘をついた為に自分の斧を失ってしまう。多少異なる点はあるが、大半は同じ内容である。しかし、結末が大きく異なる。そう、樵は正直者ゆえに神様に金と銀の斧ももらう。樵は神様の好意を断ったりはしない。それでこそ、この寓話に含まれている教訓「正直であればいいことがある」「正直者が得をする」が完成するのである。ところが、「斧の物語」の方は、本来の寓意が失われ、子供は正直者ゆえに与えられるはずの幸福を得られないまま終わっている。

 なぜ子供は金と銀の斧をもらわないのだろうか。子供が金と銀の斧をもらってしまうと、中国人には子供が「正直」とは認められなくなるから、と考えられる。中国では「正直」も「善行」も徹底的に無欲であってこそ、その価値が認められるのである。そこには極めて中国的な思想、厳格な無欲を理想とする儒教的な美徳が底辺に流れている。国語や愛国教育教材には、このテーマの寓話、逸話が沢山収録されている。

「恩怨分明」であること――「東郭先生と狼」にみる中国人の価値観2008年03月03日

 「恩怨分明」は現代中国人の大切な価値観の一つである。

 これを中国人は小学校の教科書でも学ぶ。まずは経典的な教材「東郭先生と狼」(『高級小学語文課本』第一冊(1952年)、『全日制十年制小学課本』第六冊、1982年)、義務教育六年制小学教科書(実験本)第七冊(1994年)等、歴代の教科書に収録されてきた経典的な教材、出典は『東田伝』馬中錫・13世紀明代)のあらすじを紹介しよう。
書生の東郭先生が、追われている狼を猟師から救ってやった。しかし狼は恩を感じるどころか、この機会に乗じて東郭先生を喰おうとする。そこに通りがかりの農民が狼を見事に騙して袋に誘い込み、口を縛って、農民は東郭先生に「狼相手に仁慈を説いたりしてはいけないよ。この教訓をよく覚えておくんだ。」と教訓をたれ、スキでたたき殺す。

 確かに狼はずる賢く悪い。しかし、この寓話が伝える教訓は何なのだろうか。窮地に陥った者を救った東郭先生は正しい行動をしたように見える。「窮鳥懐に入らば猟師も殺さず」、大抵の日本人は、慈悲の心を裏切るオオカミや蛇に怒りは覚えても、助けた側が愚かである、とは思わないだろう。

 しかしここでは東郭先生が狼をかばったことが、明らかに世間知らずの愚かな行為としてとらえられている。すなわち、この話の要点は、「狼は自分の命さえ助かれば、恩人さえも食い殺すような輩」であり、このような邪悪な性質を持った者を「信じてはいけない、助けてはいけない」ということなのである。他にも「狼」が出てくる同様のテーマの教材に、『聊斎志異』から肉売りがずるい二匹の狼に追いかけられて撃退する話「狼三則」、イソップ寓話からは百姓が凍えた蛇を助けてかみ殺される「百姓と蛇」、狼がか弱い子羊に向かって言いがかりをつけて食い殺そうとする「狼と子羊」などがある。

『雍正帝』2008年03月06日

 大阪府の新知事橋下氏が同和問題に言及した記事を先日毎日新聞で読んで、しばらく前に読んだ宮崎市定氏の『雍正帝』を思い出して読み返した。

 1722年に即位した雍正帝は中国の清朝の皇帝である。雍正帝は、女真族を統一して「大金」を名乗った太祖ヌルハチから数えれば5代目、入関を果たし北京に都を移して中原の主となった世祖順治帝から数えれば3代目、国家安定の重要な時期の皇帝の一人である。時代は日本でいえば江戸時代中期徳川吉宗の治世にあたる。

 父親の康煕帝と息子の乾隆帝という「名君」に挟まれ、三祖一宗にも数えられていないため、あまり目立たない存在だが、その治世において、賎民の大解放を行った皇帝である。

 宮崎市定氏の『雍正帝』によれば、この皇帝こそ、数千年の中国歴代王朝の皇帝の中で、中国的な独裁君主の理想像を追求しくした皇帝、であるらしい。在位中の13年間は常に勤勉に政務に没頭し、皇帝職を全うした。賎民の解放もこの独裁君主ならではの思想に基づいて行われたという。

 「雍正帝にとっては特権階級などの存在はそもそも不合理なので、特権とはただ天子一人が持っている独裁権のことで、天子以外の万民は全く平等の価値しかもたない。だから彼は地方の賎民の解放を行った。山西省の楽戸(がくこ)、浙江省の惰民(だみん)、九姓漁戸(きゅうせいぎょこ)、安徽省の世僕(せいぼく)などの賎民階級は以後良民と差別無く待遇されるようになった。」(177頁)

 その政治方法は、臣下から天子の元に直接届く奏摺を頻繁に交換することにより中国全土に目を行き渡らせるという奏摺政治であり、前代未聞の方法であった。これは同時に地方へ密偵を縦横に放って監視の目を張り巡らしたため、恐怖政治の一面もあった。しかし、それゆえに治世中の13年間は戦争で親征するというような派手派手しいことは一度もなく、朝早くから働き、夜は遅くまで皇宮内に造った安普請の事務所のようなところでひたすら数十通に及ぶ奏摺に返事を書き続けた。また贅沢を固く戒めつつも、天災の際には歳出を惜しまなかったと言われる。皇帝個人の贅沢が当然であったこの時代に、雍正帝はまったく贅沢をしようとはせず、国のお金を国の為に使ったおかげで国庫は潤ったのである。雍正帝の治世の蓄えがあってこそ、次代皇帝乾隆帝の盛世があった。

 時代は民主主義に変わっても、雍正帝の指導者としての資質、国と人民の為に尽くす精勤ぶりや賎民の解放等の善政、節制ぶりは、後の世の指導者にも参考になるところであるように思われる。

僻地農村の学校の厳しい現実(張芸謀監督「あの子を探して」より)2008年03月06日

 中国映画には貧しい農村の学校を描いた作品がある。例えば、張芸謀監督の「あの子を探して」である。この作品に登場するのは全員が素人で、真っ赤な頬の農村の子供達がそのまま出ており、本当の農村の小学校の雰囲気を知るのにいい作品である。あらすじを紹介しよう。

 農村の小学校の教師が家庭の事情で一ヶ月帰省することになったため、代わりの教師を村長に頼んで捜したところ、若干13才の女の子しか見つからなかった。小学校しか卒業していないこの女の子は50元で農村の小学校住み込みの代用教員を引き受ける。授業だけではない、学校に住んでいる子供達の面倒も見なくてはならない。13才の先生は貴重なチョークで教科書のテキストを写し、これを子供達に写させる。教科書は彼女が教師から預かった、使い込んでボロボロの一冊しかない。歌(しかも毛沢東を讃える歌「東方紅」)を教えるが、これも13才の先生が知っている歌を振り付きで教えるというもので、教本もないし、ましてや音楽を流すカセットレコーダーもない。帰省した教師は13才の先生に生徒を一人も減らしてはいけない、と固く約束させたため、13才の先生はその言いつけを守って、家庭の借金と母親の病気のために小学校をやめて都市へ働きに行かされた生徒を探しに行く。

 これは映画であるが或る意味作り物ではない。その貧しさは今の日本人には想像するのが難しいほどである。学校側も校舎がボロボロで、教師の給料も半年も払われず、教師のなり手もなく、チョークなどの教学の必需品さえ不足している。生徒は教科書や学用品を揃えるお金もない。実際に家庭が貧しい為、学校を辞めて働きにでる子供も少なくない。

 現在、中国にも日本にも、小学校の寄付や学用品、学費の援助など、中国の僻地の初等教育の現場に手をさしのべる活動がある。このような活動が日中双方で注目され、もっと大きい善意と友好の輪となって、中国の初等教育を支える活動へと結びついて欲しいと願う。

義務教育普及のボトルネック2008年03月06日

 1986年の義務教育法施行により中国は国家目標の一つに「両基」(「九年義務教育を基本的に普及し、青壮年の文盲を基本的に一掃する」ことを表す略語)を掲げた。当初20世紀末までの義務教育普及を目標としていたが、いくつかの問題で躓かざるを得なかった。

 中でも中西部地区の農村の貧困は深刻で教育環境の整備も著しく遅れていた。今にも潰れそうな危険校舎は、時々本当に潰れて多くの子ども達が犠牲になって新聞を賑わしていたし、勉強机や椅子はボロボロで、教科書は不足し、教材機器も最低限の図書資料もないという状態であった。教師についても、待遇が悪く給料もまともにもらえないため、絶対数が不足しており、教学水準も低い。貧困地区では、教科書も文房具もまともに買えず、雑費さえも払うのが困難な家庭が多く、子供を工場等へ童工として送り出す例も少なくなかった。こうした貧困の連鎖が、義務教育の普及を阻んでいた。

 また西部地区は遊牧で生計をたてる少数民族が居住する地域であり、土地が広大で険しく、人が密集して居住していない。人口密度が異常に低い過疎状態のため、子供の通学が著しく困難であり、小学生で50%、中学校で80%が寄宿舎を必要とする状況であったという。しかも一校一教師の学校が9万校という状況があり、教学水準にも問題があった。それ故に西部地区の過疎は「義務教育普及のボトルネック(原文:瓶頸)」とされてきた。    広大な国土と多くの民族、膨大な低所得層を抱える中国ならではの特殊な状況が、義務教育普及を妨げる大きな要因となったのである。

憩いの時間-絵本『カバンうりのガラゴ』2008年03月08日

ガラゴのリース(樹脂粘土)

 島田ゆかさんの「バムとケロ」シリーズやガラゴのシリーズ、一度だけでなく何度も繰り返し読んで楽しませてもらった。読むたびに新しい発見があり、またシリーズで読むとバムとケロの絵本にガラゴがさりげなく登場していたりするのがまた面白くて、絵の隅から隅まで、娘と二人なめるように探したものだ。いまでも時々心の安らぎを求めて、ふと頁をめくることがある。  友人の誕生日プレゼントに、粘土でガラゴのリースを作ってみた。ほぼ同年齢のお子さんがいるので知っていると思うのだけれど…喜んでくれますように。

義務教育普及の為の国家プロジェクト2008年03月09日

 「両基」(「九年義務教育を基本的に普及し、青壮年の文盲を基本的に一掃する」ことを表す略語)達成のためには、中西部地区の貧困、西部地区の過疎に立ち向かわなくてはならない。そこで、この地域の貧困県を対象に、義務教育普及と教育環境整備のための大型プロジェクト、貧困や過疎対策に目的を特化したプロジェクトが次々に立ち上げられ、大規模な国家・地方予算が投じられた。

 例えば「国家貧困地区義務教育工程」である。第一期は1995-2000年に中央から39億元、地方から87億元、合計126億元が投じられ、852貧困県を対象に「両基」基準達成を目指し、並びに危険校舎の解体と新築(3842カ所)か増改築(28478カ所)、及び新しい学習机と椅子653万セット、教材機器40万セット・図書資料1億余冊を補充、教師と校長の再教育による教学レベル向上を目指した。第二期は2001-2005年の計画で、第一期に達成できなかった522県を対象に中央から50億元、地方から23.6億元、合計73.6億元が投じられ、引き続き「両基」基準達成を目指し、危険校舎対策(新校舎4062カ所、増改築6601カ所)、学習環境の整備(新しい学習机と椅子205万セット、教材機器が1.6万セット、図書資料が2300万冊を補充)、及び教師の再教育に力を入れた。更に、第二期では、貧困家庭の110万人の小中学生に無償教科書を提供し、農村の小学校14770カ所と中学校4940カ所に情報技術設備と遠隔教育設備が置かれる等、各地域の現状に即した対策を施した。上記の数字を見ても、プロジェクトが行われる前の教育環境の不備が相当深刻であったことが分かる。

 同時期に義務教育普及の為に行われたプロジェクトは他にも、小中学校の危険校舎1300万平方メートルの改造に目的を特化した「全国中小学校危房改造工程」(第一期2001-2002年、第二期2003-2005年)、通学が困難な過疎の西部辺境地区に寄宿制学校を建設する「西部地区農村寄宿制学校建設工程」(2004-、5年間)、衛生視聴覚設備教材等の整備「農村中小学現代遠程教育工程」(2003年-)等がある。  国家レベルのプロジェクト以外にも地方レベルで取り組んでいるプロジェクトも多い。山地では義務教育が未だ普及していないことをはじめ問題は多いが、中国はいま国家、地方をあげて、九年制義務教育普及に本腰をいれて取り組んでいる。

中国の教科書と対日感情2008年03月13日

 日本では中国の歴史教科書がよく話題にのぼる。中国では歴史を学び始めるのは小学校高学年からで、本格的な歴史学習は中学校からである。教科書は5冊、第一、二、三冊は古代史、第四冊は近代史、第五冊が現代史であり、近現代史の占める割合が非常に多く、その中における日中戦争についての記述は日本の教科書とは比べものにならないほど詳細で分量も多い。抗日の歴史を学ぶための課外学習も大いに推奨されている。従って、中国の歴史教育が中国人の日本観に影響しているのは事実である。しかしながら、中国人の対日感情ともいうべき基礎の部分は、実は歴史教育が始まる以前、小学校一年生から徐々に醸成されたものである。  従って、中国人の対日感情の源泉を教科書から推し量ろうとするなら、歴史教科書のみの検証では役不足である。中国の教育を知るために…少々古いデータだが…1994年の小中学校の1週間あたりの教科毎の授業時間数を確認すると、特に小学校では国語(中国語では「語文」)が圧倒的に多く10時間~7時間、「数学」が4~5時間、中学校になると「語文」と「数学」がほぼ同じ時間数になる。他にも理科にあたる「自然」があり、数学、社会、歴史、体育や音楽、美術といった学科もある。「思想品徳」「思想政治」「労働」「労働技術」といった見慣れない学科があることに気が付く。「思想品徳」「思想政治」は道徳科的な要素の他に、思想教育的要素を強くもった教科である。「労働」「労働技術」は技術の授業に近いもので、いまは「信息技術」(情報技術)というコンピューターを学ぶ教科になった。更に1993年からは全国の一部の実験小学校で「英語」の授業も始まっている。  このなかでは 「思想品徳」「思想政治」だけが思想教育を担っていて、他は日本とあまり変わらないようにみえるが、実際には中国の教育には全ての教科に思想教育の役割が科されて、浸透している。特に文系の学科である小学校の国語を中心に多くの思想教育教材が盛り込まれている。

 小学校において最も授業数の多い国語(語文)の影響力は大きい。例えば「蘆溝橋の獅子」という教材がある。蘆溝橋は日中戦争の端緒となった蘆溝橋事件(中国では1937年7月7日に起きたことからこれを七七事変とよぶ)が勃発した場所である。現在の中国では「抗戦」開始の地として、小学校四年生の国語教科書で蘆溝橋事件について詳細に学ぶ。更に北京の小学生は課外学習でこの蘆溝橋と中国人民抗日戦争記念館に行く。私が蘆溝橋を訪ねたときも小学生の団体が来ていて、記念館内に展示してある写真を見て「わー」とか「おーっ」とか言いながらも、感想文を書かなくてはならないらしく、説明を熱心に読んでノートに一所懸命書き込んでいた。この課外学習を通して蘆溝橋は彼らの心に深く刻まれたに違いない。

 いまの20-30代の若い世代は小学校の低学年から愛国主義的な単語で読み書きを覚え、共産党の指導者や模範的共産党員、日中戦争の英雄の逸話などを教材に言葉の運用能力を養ってきた世代である。そしてその前の世代は教科書があったにせよ、実際には毛沢東語録が教科書代わりだった世代である。検定制になった1985年以降、教科書には多くの古典教材や新しい時代を反映した教材が増え、以前と比べれば政治色は薄れつつある。

救国の英雄2008年03月17日

 昨日は大学院時代の友人が自宅に来てくれて歓談した。北京旅行から帰ってきた友人から旅行話を聞いたり、日本とドイツ、中国の育児の違いを話したり…楽しい時間を過ごした。明日は娘の卒園式である。 なかなか研究を進める時間がないので、今日は手元の原稿から。

 中国の教科書には救国の英雄の詩、叙事詩、逸話が多く紹介されている。  例えば、南北朝時代(6世紀頃)の著名な長編叙事詩「木蘭辞」がある。体の不自由な父親に代わって男装し従軍したことで著名な伝説の英雄花木蘭を伝えたもので、ディズニーのアニメ映画「ムーラン」の原作にもなった。他にも、南宋の将軍・岳飛の詩「満江紅」がある。南宋時代(12世紀頃)の名将岳飛が大挙して南下してきた金軍を破ったが、その主戦論は宰相の秦桧と相いれず、無実の罪で殺されたことは有名である。

 他に救国の英雄として著名なのは、明朝時代では、土木の変で活躍し北京を死守した于謙、清軍を撃退した袁祟煥(但し清の皇帝ホンタイジの反間計で明の皇帝に裏切り者として殺され、清の乾隆帝により名誉回復される)、北虜南倭の防御に活躍した戚継光などがいる。救国の英雄には、北方の異民族の侵入を防ぎ、国土の保全に力を尽くし、漢民族の自尊心を守った人物という特徴があるようだ。但し、ここに紹介した救国の英雄は、実在が危うい花木蘭を除けば、功績を充分に評価されず、不幸な最後を遂げている。文人の力が強かったかつての中国で、軍人で一国の総司令となったのは岳飛と蒋介石だけだという。

 これらの逸話や詩が「語文」「国文」「歴史」教科書等に掲載されることを通して救国の英雄は時代を越えて中国人の敬愛の対象となっているのである。

「あの子を探して」後日談2008年03月22日

 3月6日の「僻地農村の学校の厳しい現実(張芸謀監督「あの子を探して」より)を読んでくれた友人が、この映画には後日談があることを教えてくれた。教師役を演じた少女・魏敏芝は映画監督を夢見て大学へ入り、またこの映画のおかげで辺鄙な地域の学校に寄付が増えた、という。もう少し詳しく知りたくなって、ネットで調べてみた。

 まず…寄付関係…「あの子を探して」の原題は「一個都不能少」(一人も減らしてはならない)であるが、このタイトルは、政府レベルで貧困学生への援助を募ったり、有名大学が奨学金を新設したりする中で常に使われており、貧困学生支援の一種のスローガンのようになっている。

 そして教師役の魏敏芝と「あの子」役の張慧科のその後…魏敏芝は映画の後、私立高校(石家荘・精英中学)に特待生として迎えられた。魏敏芝は後に、大学受験して西安外国語学院の「編導系編導専業」(脚色と演出を学ぶ専攻)に入学(大学受験の経緯は「夜の童話」という魏敏芝主演のテレビドラマにもなった。)更に大学入学後はコネではなく実力で…必死で英語を勉強して試験を受け、大学間の交流があるアメリカの大学(ブリッグハム・ヤング・ユニバーシティBrigham Young University)への二年の留学を勝ち取った。現在は留学中である。今や張芸謀の映画に主役として出演し有名になった鞏俐、章子怡、董潔と並んでモウガール(原文は「謀女郎」007の映画のボンドガールをもじってこう呼んでいる。)の一人に数えられ、常にマスコミの注目を集めている。一方、張慧科も後に、貧しくて中学校に行けないことを訴える「打抱不平」の新聞記事をきっかけに魏敏芝の母校である精英中学に特待生として迎えられ、2006年には大学受験した。北京電影学院を受験したが不合格、三年後にもう一度同校を受験するという志を立て、現在は河北影視学院の撮影専攻で学んでいる。「あの子を探して」撮影当時の身長は145センチ、現在は174センチもあるそうだ。

 ところで、映画の後も張芸謀は魏敏芝と張慧科に度々電話を入れて様子を聞いたり…時には映画の子役に推薦したり…励まし応援してきたという。超多忙の映画監督が映画に出演した子役に関心を持ち続ける…なかなか出来ないことである。そういえば、映画のメイキングでも、張芸謀は魏敏芝と張慧科に「映画に出てちやほやされたからといって天狗になるな」と言い、「映画に出ても君たちの運命は変わらない。変えたければ勉強しろ。」と語りかけ、特に張慧科には「お前は勉強が出来ない…高校に入らなければお前には二度と会わないぞ」と厳しく言い渡していたのが印象的であった。魏敏芝と張慧科の運命を変えたのは映画にでたことそのものではなく、張芸謀と身近に接して壮大な夢を抱き運命を変える術を知ったことによるのかもしれない。