李叔同と弘一法師――映画「一輪明月――弘一法師の生涯」2008年07月26日

一輪明月
 映画「一輪明月――弘一法師の生涯」をDVDで見た。弘一法師の名を私は映画の説明を見るまで寡聞にして知らなかった。でも、彼が出家する前の李叔同という名前の方は、有名な「送別歌」の作詞者として、西洋音楽を中国に紹介した人物の一人として聞いたことがあった。李叔同が弘一法師と同一人物と知って、李叔同が出家して名僧になっていたと知ってびっくり。早速映画をレンタルした。

 李叔同(1880-1942)は、近代中国において音楽教育、芸術教育に深く関わった人物である。映画で見る彼は…中国・天津の名門の出身で、詩、書、画、音楽、篆刻に優れ、演劇を愛し、中国で初めて中国独自の教科書を編纂した上海の南洋公学に学び、日本の上野美術学校に留学して西洋画を学び、革命活動に関わり、芸術団体「春柳社」では「椿姫」「アンクルトムの小屋」等を上演して喝采を得た。帰国後は美術教員として教鞭をとり、当時の一流の有名人と交流があり、西洋の音楽に中国語の歌詞をつけるなど中国音楽界に新風を吹き込んだ。とても華やかな経歴の持ち主である。出家というイメージからはかけ離れた人物なのだ。

 その李叔同はやがて中国社会の保守性、教学上のさまざまな矛盾に悩み仏教に傾倒していく。1918年、出家して弘一法師になって後は、戒律を守り、修行に励み、多くの信奉者を得、仏教徒には「重興南山律宗第十一代祖師」と崇められたという。前半生における様々な経験は、後進を育てる為に教壇にたったり、またその音楽の才能が「三宝歌」に曲をつけたりの形で発揮されたこともあったようだ。

 それにしても、李叔同が仏教に傾倒していった経緯は分からないではないのだが、出家して弘一法師となり、特に戒律の厳しい宗派に属して自らを修行に駆り立てたほどの苦悩、というのは映画からは見いだせなかった。
 ただ、李叔同が科挙に惨敗したときは、幼い頃から好きだった音楽、美術といった芸術が彼にはあり、これを自らの道と見定めて突き進んだものの、芸術では超えられないものに行き当たり、苦悩の上、出家の道を選ぶにいたったのであろう、と想像するばかりだ。

 一個の人間としては尊敬できる部分も大いにあるのだが…ただ一点、彼には養うべき家族がいたにもかかわらず、あの混沌とした時代に、妻子を捨てて出家の道を選んだ、という事実には戸惑いを感じずにはいられない。映画でも少し出てくるが、日本に出国する前に李叔同は母の命令で17歳のときに茶商の娘・兪氏と結婚し子供も3人(一人は夭折)いて、更に日本留学中には日本女性・葉子(映画では雪子)と恋に落ちて結婚し彼女を伴って帰国している。1918年に出家したとき、彼が養うべき家族が少なくとも4人はいたはずなのである。この時代の中国で、社会的弱者である女性と子供がもっとも頼れるはずの庇護者である夫・父を、出家という行為によって失うのは大変なことであった筈だ。彼の家族を、中国社会と日本社会は、彼の友人は、温かく見守ってくれたのだろうか?映画のテーマとは違う部分でいろいろ考えてしまう作品だった。

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