篤姫ゆかりの地4――維新の志士を育てた郷中教育の実際2008年09月24日

 篤姫ツアーで鹿児島に行った際、何度か耳にした気になる言葉、それが郷中教育(ごじゅうきょういく)である。薩摩藩から明治維新を担う人材を多く輩出したという郷中教育(ごじゅうきょういく)とはどのようなものだったのだろうか。

 「郷中教育」は、薩摩藩独特の藩士子弟の地域・郷中(ごじゅう)単位の教育法、いわば、先輩が後輩を教えるという形で、学問と武芸を学ぶ仕組みである。小稚児(こちご)、長稚児(おさちご)と二才(にせ)に分けられ、長稚児が小稚児を指導し、二才が長稚児を指導した。稚児とは元服前の6、7歳から13、4歳の少年達であり、二才は14、5歳から23、4歳の元服を終えた青年たちである。

 稚児は早朝から行動を共にし、稚児頭の命に従って、相撲、大将防ぎなどをしたり、示現流剣術の稽古を行ったり、日時を決めて、二才の監督のもと、四書五経や『太平記』『忠臣蔵』などを学んだという。

 大河ドラマ「篤姫」では、西郷さんや大久保さんとその他の仲間が寺の境内のようなところに集まって稽古し、時に議論したりしていたが、あれは「郷中教育」を念頭に撮影したシーンなのだろう。郷中の仲間は、長幼の序・先輩後輩の関係が厳格である一方で、兄弟のように親密な関係であったらしい。

 孫引きだが…『郷中教育』の著者・村野守治氏によれば「郷中教育」は、4つの特徴があるという。第一に島津忠良(日新)の『いろは歌』の「古えの道を聞いても唱えてもわが行ないにせずば甲斐なし」にあるような、学んだことを実践する教育であり、第二に地域社会が自発的に実施した集団教育であり、第三に年齢集団的な段階的教育であり、第四に「山坂達者」を志向した鍛錬教育である、という。元々、16世紀末の朝鮮出兵に際し、留守をあずかった新納忠元が忠良の故事にならい、子弟達に話し合い仲間(咄相中)を結成させ、みずから士道を錬磨させたことに始まると伝えられる。

 ところで…『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、
郷中(ごじゅう)教育は
・武士道の義を実践せよ
・心身を鍛錬せよ
・嘘を言うな
・負けるな
・弱いものいじめをするな
・質実剛健たれ
・たとえ僅かでも女に接することも、これを口上にのぼらせることも一切許さない
・金銭利欲にかんする観念をもっとも卑しむこと
などからなる、そうだ。この規則からは、郷中教育が、思想教育的な面も担っていたことが分かる。

 それにしても、女性とは接することはもちろん口にすることさえ許されないのだから…男尊女卑の根強い薩摩のことでもあり…篤姫が男装したり、肝付尚五郎と友人になったり、ましてや西郷や大久保と話したり…ということは、やはりドラマの中だけの話なのである。

参考:
中村明蔵『薩摩民衆支配の構造』(南方新社、2000)
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』