日本最初の学制1872年・明治5年8月「学制」――日本の教育法令の歴史12008年11月07日

 中国の清朝末期及び中華民国時代の学制は日本の教育法令に範を取っている。だから、この時期の中国の学制について知る為には、日本の教育史に対する理解が欠かせない。そのようなわけで、以前勉強した『教育の歴史』『近現代日本の教育』等を見ながら日本の主な教育法令の歴史をおさらいしている。最初は「学制」から見ているのだが、その内容は江戸時代が終わって新国家が樹立したばかりとは思えないほど、近代的で理想的である。

 日本の学校制度は1872年・明治5年8月3日の太政官布告「学制」に始まる。オランダ・フランス・アメリカなど欧米諸国の学校制度を参考に、起案された学校制度法令、これが「学制」である。「学制」は全国を大・中・小の「学区」に区分し、各学区にそれぞれ大学・中学・小学各1校を設置するという、今の日本の教育体制の基礎を築いた法令となった。ちなみに「学制」は、当初本文109章、翌年7月にかけて様々な条文を追加規定した結果、総体で全213章に及ぶ膨大な法令となった。これに「太政官布告214号」が前文として添えられている。

 「太政官布告214号」は公布前日に公布された。これは「自今以後一般の人民 華士族卒農工商及婦女子、必ず邑(むら)に不学の戸なく、家に不学の人なからしめんことを期す」いう名文句で知られる。「学制」は身分や階級、職業、男女の別にかかわらず、全ての人が学校に入学して学ぶことを定めた、近代的な教育宣言文的法令であったのである。

 「学制」は公布翌年の1873年頃から全国に施行された。三年後の1875年には約2万4千校、ほぼ現在並みの数の小学校が全国に設置されたという。ちなみに教科書は自由だった。

 ただし、「学制」は順調に定着したわけではなかった。学校の設置は村負担で、授業料は個人負担で高額だった。一般庶民には学費の負担が重く、また日常生活に有用と感じられなかったこともあって、1870年代後半には新しい学校制度に対する社会的批判と不満が広まり、農民一揆の際に学校が標的になり打ち壊しや焼き討ちの対象に選ばれることもみられた。また自由民権運動の中からも民衆の学校費負担軽減の要求などがなされたこともあった。そのため、近代的なすぐれた法令「学制」は、実施後の経験を踏まえて、大きく修正されることになるのである。

参考:海後宗臣/著 仲新/著 寺崎昌男/著『教科書でみる 近現代日本の教育』(東京書籍、1999)
佐藤秀夫『新訂 教育の歴史』(放送大学教材、放送大学教育振興会、2000)

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