「改正教育令」(1880年・明治13年)12月――日本の教育法令の歴史32008年11月14日

 政治、経済、社会、教育各方面において現実的対策だったはずの「教育令」公布は、予想外の結果を引き起こした。民衆の自主的欲求に基盤を持たない小学校への国家的規制の緩和によって、小学校制度自体が解体の危機に追い込まれたのである。就学者が減り、学校設立や就学の督励に苦心を重ねてきた地方の学事関係者を窮地に追い込むことになった。

 かくして激しい非難を浴びた「教育令」は、公布から一年で改正されることとなる。地方官の教育行政権限が再び強化され、小学校の教則は、文部卿の頒布するところに基づき、府知県令が地方の情況を量って編制することになり、教科書や就学の督促、教員の資格、学校の管理なども詳細な規定が設けられた。国家的な観点からの標準化と規制が強められた。

 更に翌年、1881年・明治14年5月「小学校教則綱領」により、小学校の制度も、学制による下等(4年)・上等(4年)の二段階から、初等科(3年)・中等科(3年)・高等科(2年)の三段階の編制に改められた。その際、初等科3年は国民一般が就学すべき段階とされた。また、先の「教育令」で一旦16ヵ月にされた最低就学期間は、「改正教育令」では3年の課程修了に延長された。「教育令」と比較すると「改正教育令」の方が32週日増加している。年間授業は32週以上で、休暇を除きほぼ常時授業が行われることになった。この改正教育令施行により、ようやく日本の近代学校の創設は軌道に乗った。

 明治10年代には就学の情況は一時停滞したが、国民の就学の水準は上昇を続け、中等科への進学者は増え、学年段階別の教科書も編纂されるようになり、近代小学校としての形態が徐々に整えられていった。そして、このあたりからが、中国の学制の見本になっていくのだと思う。

 それにしても日本の教育行政はこの頃からもしかしたらあまり変わっていないのかも、とふと思い当たった。大きな改革をするときに、なぜ実験を十分にしないのだろう。実験区を設け一定期間十分に実験し、内容と結果を検討し、問題を解決した上で全国に施行すればいいのに、と思う。試行錯誤段階の内容で上手くいかなければ、それは子ども達に降りかかって来るのだから。

参考:海後宗臣/著 仲新/著 寺崎昌男/著『教科書でみる 近現代日本の教育』(東京書籍、1999)
佐藤秀夫『新訂 教育の歴史』(放送大学教材、放送大学教育振興会、2000)

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