修身科の始まり『教学聖旨』(明治11年・1878年)――日本の教育法令の歴史42008年11月17日

 近代学校における道徳教育「修身」科のはじまりは、『教育聖旨』に遡る。洋風尊重と文明開化の思潮が批判され、皇国思想への転換が図られるようになったのは、明治10年代はじめのことで、この転機となり方向付けをしたのが、『教学聖旨』であった。明治11年・1878年秋に明治天皇は各地を回って教育の実情を視察、その後国民教育の根本方針として、『教育聖旨』が元田永孚(もとだながざね・儒学者)によって書きあらわされた。

 『教育聖旨』は「教学大旨」と「小学条目二件」からなる。「教学大旨」は仁義忠孝を明らかにするのが本旨であるとし、維新以来の洋風尊重を否定し、儒教の教えを道徳教育の基本とすべきであると述べている。また、「小学条目二件」は小学校で幼少のはじめに仁義忠孝の道徳観を教え込むことが大切であるとしている。1880年・明治13年の改正教育令で小学校の教科のはじめに「修身」をおいたのは、この教学聖旨の精神に基づいたものである。1881年・明治14年の小学校教則綱領は原案を上奏し、聖旨に基づいて一部修正した上で公布されたものと言われる。同じ年、中学校と師範学校の教則大綱も定められたが、学科のはじめにはやはり修身がおかれている。文部省は「小学校教員心得」を定めて、教員に対し「尊皇愛国ノ志気」を振起すべきことを説き、道徳教育の必要を強調、「学校教員品行検定規則」を定めて、同じ方策の徹底をはかった。

 更に教科書についても1880年・明治13年3月省内に編輯局をおいて新しい教科書の編集に取りかかるとともに、教科書取調掛を設けて教科書の調査をはじめ、調査の結果不適当と認めたものは府県に通達して使用を禁止したのである。禁止された教科書は、修身教科書、法律政治関係、生理関係の教科書などに多かったらしい。

 この『教学聖旨』は政府部内の人間関係の軋轢に絡んで、論争を引き起こした。これらの動きが後の教育勅語へと繋がっていく。

 中国の初期の学制は日本の明治時代の学制の影響を強く受けている。愛国教育の教科である修身科が清末、中華民国の学校のカリキュラムに組み込まれたのも、元はと言えば日本の影響を受けたものなのである。

参考:海後宗臣/著 仲新/著 寺崎昌男/著『教科書でみる 近現代日本の教育』(東京書籍、1999)
佐藤秀夫『新訂 教育の歴史』(放送大学教材、放送大学教育振興会、2000)

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