中国・清末、清政府が日本の学制を新学制のモデルにした理由2008年12月03日

 中国の清末、1904年公布の壬寅学制(欽定学堂章程)と明治33年・1900年の日本の学校系統図を並べると、非常に似通っている。清政府が近代教育導入を図るに当たり、主としてモデルにしたのは日本の学制であった。

 元来、学制制定にあたった管学大臣の張百熙や張之洞等は、欧米や日本の教育システムから優れている部分を取り入れようと努力したらしい。留学生や使節派遣により、広く欧米諸国、日本の教育システム等を研究させたのだが、結果として日本の学制を主にモデルにしたのである。

 この理由を『民国教育史』は4つ挙げている。①政体の問題-欧米国家の政体と民主主義は清政府には受け入れがたいものであったが、日本は立憲君主制で和魂洋才を主張しており受け入れやすかった。②外国語教育の観点-欧米諸国では英語等の言葉は母国語として学ぶ体制であったが、日本はすでに英語等の欧米諸国の言葉を外国語として学ぶカリキュラムが作られていた。③文字-中国と日本が漢字を使う「同文」の国であった。④導入の簡便性-欧米からの近代教育導入に成功した日本を通して、多くのものを中国に導入、消化、改造するのが簡単で早く、更に新たに欧米から近代教育を導入するよりも多くの力が節約出来る、という考え方があった。

 清末、王朝政治に綻びが生じるなかで、近代教育導入は諸処に改善を図ろうとする重要な政策の一つであった。中華思想的には日本から教育システムを導入することなど考えられないと思われるので、この決断は決して安易なものではなく、それほどに近代教育導入が焦眉の急と考えられていたともいえるだろう。

参考:李華興主編『民国教育史』(上海教育出版社、1997年)

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