南洋公学訳書院と初代院長・張元済 ― 2008年12月21日
南洋公学訳書院が発行した翻訳書で、最も売れ、そして当時の中国に大きな影響があった本といえば、厳復が翻訳したアダム・スミスの『富国論』(中国語の書名は『元富』)であろう。南洋公学の授業に使用するテキストとしてはもちろん、一般にも発売され、大変な人気を呼んだ。訳書院院長・張元済(1867-1959)の名声もあって、厳復をはじめ、呉文聡、王鴻章、山根虎之助等の名翻訳家が原稿を寄せたと言われる。
張元済は清末の進士で、維新派であり、戊戌の政変失敗後に免職となった人物である。張元済は訳書院院長に、とのオファーを受けたとき、天津にいた名翻訳家・厳復(進化論の翻訳で知られる)に手紙を書き、翻訳という仕事、具体的には翻訳をする本(政治、法律経済等)の選定、翻訳の報酬の決め方等について教えを請うたらしい。その上で、張元済が南洋公学訳書院の院長に就任したのは1899年3月のことであった。
訳書院の歴史は1898年から1902年までのたった4年間、その短い間に多くの書籍を出版している。実は、南洋公学訳書院の仕事の大部分は日本語書籍の翻訳であった。それというのも、訳書院は当初、当時の駐上海領事であった小田切万寿之助(おだぎりますのすけ)の推薦で、1898年6月22日に細田謙蔵、1898年11月5日に稲村新六(陸軍大尉)という二人の日本人を顧問として迎え、立ち上げられた。
設立にあたって日本人を招いたこともあって、南洋公学訳書院で訳された書籍の多くは日本のものであった。敢えて軍人を招いたのは、日本の明治維新以降の近代化の成功に習って、自国の軍隊の近代化と増強を図りたい清国の意図に依るものである。だから、その多くは軍事関連の書籍、例えば『日本軍政要略』『戦術学』『軍隊内務』…等であった。もちろん翻訳書には他にも教育や経済、国政、税法なども含まれていたが、軍事関係が圧倒的に多かった。南洋公学訳書院における翻訳事業は、「興学の要は訳書にあり」、という理念のもと、当代超一流の知識人がその仕事に関わっていた。
参考:「張元済與南洋公学訳書院」(光明網)http://www.gmw.cn/03pindao/renwu/2004-05/29/content_35837.htm (中国語)
「張元済與近代第一家大学出版機構」(光明網)http://www.gmw.cn/CONTENT/2004-11/16/content_124488.htm (中国語)
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張元済は清末の進士で、維新派であり、戊戌の政変失敗後に免職となった人物である。張元済は訳書院院長に、とのオファーを受けたとき、天津にいた名翻訳家・厳復(進化論の翻訳で知られる)に手紙を書き、翻訳という仕事、具体的には翻訳をする本(政治、法律経済等)の選定、翻訳の報酬の決め方等について教えを請うたらしい。その上で、張元済が南洋公学訳書院の院長に就任したのは1899年3月のことであった。
訳書院の歴史は1898年から1902年までのたった4年間、その短い間に多くの書籍を出版している。実は、南洋公学訳書院の仕事の大部分は日本語書籍の翻訳であった。それというのも、訳書院は当初、当時の駐上海領事であった小田切万寿之助(おだぎりますのすけ)の推薦で、1898年6月22日に細田謙蔵、1898年11月5日に稲村新六(陸軍大尉)という二人の日本人を顧問として迎え、立ち上げられた。
設立にあたって日本人を招いたこともあって、南洋公学訳書院で訳された書籍の多くは日本のものであった。敢えて軍人を招いたのは、日本の明治維新以降の近代化の成功に習って、自国の軍隊の近代化と増強を図りたい清国の意図に依るものである。だから、その多くは軍事関連の書籍、例えば『日本軍政要略』『戦術学』『軍隊内務』…等であった。もちろん翻訳書には他にも教育や経済、国政、税法なども含まれていたが、軍事関係が圧倒的に多かった。南洋公学訳書院における翻訳事業は、「興学の要は訳書にあり」、という理念のもと、当代超一流の知識人がその仕事に関わっていた。
参考:「張元済與南洋公学訳書院」(光明網)http://www.gmw.cn/03pindao/renwu/2004-05/29/content_35837.htm (中国語)
「張元済與近代第一家大学出版機構」(光明網)http://www.gmw.cn/CONTENT/2004-11/16/content_124488.htm (中国語)
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