自分へのクリスマスプレゼント2008年12月24日

源氏物語の中国語訳三種
 中国の書店に注文していた本が届いた。源氏物語の中国語訳を4種類注文したのだが(もちろん他にも)、今回届いたのは3種類。先日紹介した豊子愷訳『源氏物語』上中下冊(人民文学出版社)、姚継中訳『源氏物語』(アジア文学十大理想蔵書のシリーズ、731頁、深?報業集団出版社)、彭飛他訳『新源氏物語』(上海訳文出版社)も取り寄せてみた。

 本当は鄭民欽訳『源氏物語』上下冊(北京燕山出版社)も注文したのだが、何かの手違いで今回の小包には入っていなかったので、現在中国の書店に問い合わせ中である。冒頭の「桐壷」だけをちらっと比べたが、訳し方に個性がある。こういう体験は初めてでとても面白い。もう一種類来るのを待って、更にこれに銭稲孫の訳を加えて、きちんと比較したら、いろいろと勉強になりそうだ。

 ところで、届いた分をパラパラッとみただけだが、京都外大の彭飛教授等が千年紀を記念して発刊した『新源氏物語』は田辺聖子さんの現代訳の中国語訳だけは趣が違うことに、やっと気が付いた。豊子愷、姚継中の翻訳は、いろいろな現代語訳を参考にしているにせよ、基本的に源氏物語の原文に忠実な翻訳に見える。だが、『新源氏物語』は田辺聖子さんが現代語訳にした時点で相当に手が入っている。だから、これだけは単純には訳文を比較することができない。これをどう扱うべきか…少し考えてみる必要がありそうだ。

 この本達は自分へのクリスマスプレゼント。ゆっくり楽しむつもりである。

届いた本:豊子愷訳『源氏物語』上中下冊(人民文学出版社)
姚継中訳『源氏物語』(アジア文学十大理想蔵書のシリーズ、731頁、深?報業集団出版社)
彭飛他訳『新源氏物語』(上海訳文出版社)

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「友達のような」ではだめ?――阿久悠『凛とした女の子におなりなさい』2008年12月24日

阿久悠『凛とした女の子におなりなさい』
 母から絵本のような詩集、阿久悠『凛とした女の子におなりなさい』を贈られた。母から私へのクリスマスプレゼントである。母が熱心に勧めてくれたので、早速読んでみた。
 中にドキッとする文章と詩があった。「“友だちのような”が失敗だった」という文章と「コピーライターの失敗」という詩だ。引用してみる。阿久悠夫人もこの本を「他の方に見せてくださいますようお願い致します」と書いてくださっているから、きっと許してくれるだろう。こんな詩だ。

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「コピーライターの失敗」 阿久悠

コピーライターの最大の失敗は
“友だちのような”を使ったこと
その時は 何となく 心やさしく
平和で 自由で
美しい関係に思えた。
 
 人間と人間をつなぐのに
 何と便利な言葉なんだ
 友達のような夫婦
 友達のような親子
 明るく 新鮮で
 みずみずしいとさえ感じたが
 思えば これが失敗だった
 思えば これが失敗だった

コピーライターの最大の後悔は
“友だちのような”を使ったこと
その時は 人間が 壁を外して
素直に 楽しく
わかり合う関係と信じた

 このような結末になるなんて
 誰が予想を立てただろう
 友だちのような先生
 友だちのような社長
 親しく フランクで
 微笑ましいとさえ見えてたが
 思えば これが失敗だった
 思えば これが失敗だった
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阿久悠氏は『暮らしの手帖』に寄せた「“友だちのような”が失敗だった」という文章でこの詩に込められた思いをこんな風に説明している。「友達のような夫婦・親子・先生が美しい関係に思えたのが、叱れなくなった最大の要因だと思っている。幸福な状態が死ぬまで続けばよいが、何かを超えなければならない場面になったとき、友だちのような関係ではどうしようもないのである。」

 この詩に出会って驚いた。思えば私も娘と友だちのような関係になれたら、と思っていたし、それを楽しんできた。でも、最近その関係に限界を感じている。友だちのような部分はあってもいいけれど、一線はひいておく必要があるようだ。そこをいま試行錯誤している最中である。

読んだ本:阿久悠『凛とした女の子におなりなさい』(暮らしの手帖社、2008年9月)

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