服部宇之吉が中国の女子教育振興に関わった背景2009年03月10日

 清国末期の中国教育界に、日本の教育者が多大な影響を与えたものの一つとして、女子教育がある。日本が中国教育界に最も影響力があったとされる1902年からの約10年間は、中国の女子教育が制度的に整備されていく時期に重なる。

 ちょうどこの時期に、中国の京師大学堂に教習として派遣されていた服部宇之吉と同行した夫人・繁子は、中国に女子教育に関心を寄せ、女子教育振興のため積極的に活動を行っていた。このあたりの事情に詳しい本を探していたところ『東アジアの「良妻賢母論」』を見つけた。

 これを読んでびっくり。服部宇之吉や夫人・繁子が中国の女子教育振興の活動を行ったのは下田歌子の構想を踏まえたものであったというのである。下田歌子と師弟関係にあった繁子のみならず、服部宇之吉自身も、下田の意向に添って、西太后に女子教育の必要性を説く役割を積極的に果たした。そして西太后を説得する為に、教会学校を除けば実質的に北京地域初の近代的女子学校となる予教女学堂を設立したというのだ。

 下田歌子が中国進出を目指した理由は、著者・陳[女正]湲さんによれば、「日本の女子教育を通して[良妻賢母主義]という理念を堅持してきた下田歌子は、イギリスで日清戦争のニュースに接しては、[兄弟の国たる日清]の開戦に危機感を感じるなど、かねてから東アジアが連帯する必要性を認識していた。」ところにあるらしい。だから「服部夫妻の中国赴任が決定した際には、教育実務者と高位官僚夫人として中国に滞在することになる二人が、中国進出に多くの契機を提供してくれることと期待していた。」のである。

 果たして服部夫妻は西太后説得に成功した。「清国の女子教育は一切を下田の指導にゆだねること、自分の宮殿を女学校として提供し、またその資金もすべて負担するから、ぜひ渡清して力を貸して貰いたい」との色よい返事まで得られた。しかし結果的には服部が画策した下田歌子の西太后への謁見は実現しなかった。1908年に西太后が急逝して水泡に帰したのであった。
 
参考:陳[女正]湲『東アジアの「良妻賢母論」』(勁草書房、2006)

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