中国・清末、予教女学堂の初年度の教育内容とその後2009年03月12日

 先に述べた予教女学堂について、陳[女正]湲『東アジアの「良妻賢母論」』から教育内容を補足しておこう。

 同校は「尋常科」「高等科」の二つの課程を設ける計画であったが、開校当初は「尋常科」のみが設置された。また、同校の学則によれば、「尋常科」「高等科」の修業年限はいずれも4年であり、科目としては、尋常科に「修身」「国語」「算術」「歴史」「地理」「図書」「声歌」「裁縫および手芸」「遊戯および体操」を、高等科に「修身」「国文」「算術」「歴史」「格致」「家事」「図画」「声歌」「裁縫および手芸」「体操及び遊芸」「外国文」を設けていた。

 もっとも、実際のところ「国語」という科目のもとでは、中国語と日本語の両方が教えられ、また学則では「英文、フランス文、東文(日本語)および漢文を担当する女性教師を招聘するが、みな中国語に精通するものにする」と定めていたが、中国語以外の授業ではすべて日本語を用いていたという記録があるそうである。また、開校一周年の記念式典(「補記予教女学堂開紀年会事」『順天時報』、光緒32年10月17日、19日による)では授業成果発表会も行われ、学生達が体操や唱歌、日本式にお客をもてなす作法が実演された。このような学則の内容や開校直後の状況、開校一周年の記念式典の様子から判断すれば、予教女学堂の教育内容は、服部の思惑どおり日本の影響下にあったと、著者は述べる。

 ところが、一年後、事態は服部の思惑とは異なる方向に進展する。共同経営者であった沈釣は、開校一周年の式典の演説で(正確には沈釣の名義で代読)「賢母良妻」養成の方針は維持しつつも、当初学則にも盛り込まれた「高等科」ではなく「職業科」の附設を宣言、同校の教育方針が職業教育へと転換されることを示唆したのである。

 著者によれば、開校一周年の式典を最後に予教女学堂に関連する新聞報道から服部の名前が登場することはなくなったという。恐らく、服部はこのあたりで手を引いたと思われる。何が原因だったのかは分からない。資金を提供した沈釣の本来の目的は職業教育にあったのかもしれないし、服部としても本務とは別の仕事を抱えるのが重荷だったのかもしれない。少なくとも服部が華族学校のようなものを意図していたとしたら、沈釣が述べる職業教育とは相容れなかったに違いない。経営方針の違いは明らかだろう。

 もっとも服部は、この時すでに、当初の目的である西太后説得に成功していたから、手の引き時だと考えたのかもしれない。当時は西太后自らによって女子学校が設立されるという報道が巷に広がっていた。服部は、西太后より「清国の女子教育は一切を下田の指導にゆだねること、自分の宮殿を女学校として提供し、またその資金もすべて負担するから、ぜひ渡清して力を貸して貰いたい」との色よい返事まで得ていたという。著者は「中国女子教育事業に対する服部の青写真に照らしてみる限り、より肝心なことは、下田の中国招聘という次の段階を実践させることだったのである」と述べている。結果的には1908年11月に西太后が急逝したために、下田の中国招聘は実現しなかった。そして、服部自身も1909年1月に帰国して、東大に復帰、その後は女子教育に関わることはなかったのである。

 その後、予教女学堂は1907年に「尋常科」を閉鎖、「速成科」と「実業科」に改められ、さらに「織業科」を新設するなど、純粋な教育機関から、「女工廠」へと変質、経済的にも立ちゆかなくなり、カラチン王府から校舎として借用していた敷地の返還を求められたのを機に閉鎖に至ったという。
 
参考:陳[女正]湲『東アジアの「良妻賢母論」』(勁草書房、2006)

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