下田歌子の女子教育理念と「東亜の幸せ」2009年03月13日

 予教女学堂は、教育目標が「賢母良妻の養成」という実践女学校のそれに似せられるなど、下田歌子の女子教育理念を中国の地で実践していこうとした努力の延長線上で設立された。少なくとも、服部宇之吉と繁子夫人が予教女学堂設立に携わった時点では、そのような色彩が濃厚であった。

 ここで下田歌子が異国である中国の女子教育に、そこまで強い関心を持っていた理由を『東アジアの「良妻賢母論」』に基づいてはっきりさせておこう。

 皇室など上流出身の女子教育にかかわってきた下田を変えたのは欧州視察であったと著者は述べる。「一生を女子教育のために捧げた下田だが、その教育活動を通して実現しようとした教育理念は、明治20年代中盤を境に一つの転換点を迎えることとなる。その契機となったのが、1893年から1895年の2年間、渡欧して、イギリスなどヨーロッパ諸国の王室教育について学ぶために赴いた欧州視察であった。」「欧州諸国の資本主義の発展ぶりや女性達の活動を目の当たりにした下田も、富国強兵の基本は女性にあると認識し、中村(正直→引用者註)と同じように女子教育の必要性を身をもって痛感したのである。 」(89頁)

 このイギリス視察を通して、下田が獲得した女子教育理念は次の二つであった。一つは、産業化の途上にいた国家の要請に応えられるように、上質な産業労働力としての資質を女性に獲得させる必要性、もう一つは東漸する西欧文明に対応するために「東洋女徳の美」という精神性を、日本だけではなく、東アジア全体と連帯して守っていく必要性である。繰り返すが、後者の論理は、「朝鮮と中国を問わず」「東亜の幸せ」という東アジア全体の視野から意義づけられたものであった。ここに、下田が中国の女子教育を重視し、関与しようとした理由を見出すことが出来よう。

 ところで、東洋を連帯することを目指す下田の女子教育の実践は、自身が設立した実践女学校で開校間もなくの1901年から中国人留学生を受け入れることで、早くから始められていた。1902年にはすでに10名を超えた留学生を抱えていたといい、1905年7月に正式に「附属中国女子留学生師範工芸速成科」を立ち上げ独立させている。そればかりではない。1900年から日本に滞在していた中国人等と親交を深めていくかたわら、中国語講習に自ら参加したり、1902年7月に京師大学堂の総教習として日本視察に訪れた呉汝綸と面会したりしている。(98頁)服部を通じて中国女子教育事業に関わろうとした以前から、中国の地で自らの理念に沿う女子教育を実施する構想を彼女なりに進めていたのである。

 この時期が複雑で且つ重要なのは、下田も服部も一個の傑出した有能な教育者として、、中国の教育実権を握ろうと日本政府が画策していたなかで動いていた、ということである。だから、一連の動きを下田或いは服部夫妻の個人的な思惑による行動として見るのは、早計であろう。彼等は、当時の日本教育界を或る意味代表する立場にあったのだ。ようやく、当時の日本の教育者の中国への関わり方が見えてきたように思う。

参考:陳[女正]湲『東アジアの「良妻賢母論」』(勁草書房、2006)

にほんブログ村 教育ブログへ