ゲームの翻訳と思索の時間2009年05月02日

 4月に入ってから、しばらく過去のブログ記事の整理とゲームの翻訳をしていて、ブログへの書き込みが滞ってしまった。でも、その間、友人のおかげで翻訳についていろいろ勉強させてもらったこと、思索の時間を持てたことは有り難かった。

 今回の翻訳を通じて、訳が正しいことだけが大切なのではなく、中国語と日本語の違いをきちんと認識しつつ、くどい部分を削り、平易で分かりやすく、難しい漢字や言葉を避け、リズミカルに、変化をつけるなど、いろいろ心がけることがあることがわかった。自分でも意外な発見は、それらを考えながら、いろいろなシーンを思い浮かべて訳すのが楽しかったことだ。また機会があればチャレンジしてみたいものである。そうそう、今回のゲームもオンラインゲームらしいので、公開されたら、ぜひ自分でもやってみたい(^^)

 一方、思索の時間の方もなかなか貴重だった。その間ずっと考えていたのは…清末、学制や教科書、他のあらゆる面で日本教育の影響を受けていた状態から、五四運動後、アメリカ式に大きく転換する経緯である。私が知っている範囲では、五四運動によって、旧来の学校教育への批判が高まり、それが学制改革の気運を醸成したこと、さらに北京大学の招きで訪中したアメリカの教育学者ジョン・デューイの影響があったこと、くらいである。

 でも、気になっているのは、一度日本を模倣した教育がハード、ソフトの両面で固まった後に、そんなにも急激に教育全体をアメリカ式に転換しえたか、ということである。先日ブログの記事にも書いたとおり、五四新文化運動期の女子教育思想の転換などは偶然の要素もありつつも、実際に急激に転換した例である。でも一方で、これも前に述べたが、嫌日の雰囲気が強まる中で教科書の出版社が日本を隠蔽せざるを得ない状況が生まれ、またそうでありながらも日本の影響を受けた教材そのものは使い続けられた状況もあった。このあたり、時代的な様々な事情が絡んでいて、興味深い。新しい研究成果をもっと探してみようと思っている。 

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リモコンカーの製作――連休の過ごし方2009年05月02日

夫&娘製作のリモコンカー
 今日は夫と娘の工作デーだった。夫が娘に休日のリクエストを聞くと、大抵「工作したい」と答える。「何を作りたい?」と聞くと、迷路だったり、ガラガラ(抽選機)だったり、占いだったり…思いがけない提案をすることが多い。それを父娘で、真面目に考え、調べ、設計して、二人で作る。今回は、元々はロボットを作りたいと言ったのだが、よく聞くと、リモコンカーであったらしい。

 夫と娘二人、家電店の玩具売り場で「タミヤの楽しい工作シリーズ」の部品を調達してきた。ラインナップは「フロードタイヤセット」「ツインモーターギアボックス」「2チャンネルリモコンボックス」「ユニバーサルプレートセット」「ボールキャスター」そして可愛いハート型(娘が顔を描いた)のプラスチックケースであった。

 娘が出来そうなところは任せながら、組み立てること二時間、やっと完成。とても素敵なリモコンカーができた。私にも操縦させてくれた。動きはシンプルだけれど、思い通りに動かすのは難しくて、そして楽しかった。娘も大満足だった。それはそうだろう。自分のアイデアが形になる、というのはとても高水準な喜びだと思う。これがそのうち、自分の力で出来るようになったら、その喜びは何倍にも何十倍にもなることだろう。

 今日は娘を夫に任せ、私は、友人と久しぶりに会って、リフレッシュさせてもらった一日だった。 

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堀江オルゴール博物館に行きました2009年05月04日

手回しオルゴール
 久しぶりに堀江オルゴール博物館へ行きました。ここは、私のお気に入りの博物館の一つです。ゴールデンウィークなので、難しいかもと思いつつ、今朝電話したら、幸い予約に空きがありました。(完全予約制です)おかげで、春の庭園を楽しみ、そしてオルゴールの演奏を満喫出来てとても幸せな時間を過ごすことが出来ました。

 普段は見ることが出来ない庭園ですが、いま5/31までの期間限定で公開しています。今回初めて庭園を散策しました。このお庭、なかなか贅沢な造りです。上の方はオルゴール博物館に相応しく洋風で芝生になっています。嬉しいことに、博物館の方が、お茶とお菓子を用意して、庭園の見どころを教えてくれました。この芝生でガーデンパーティも十分できそうです。石段を下りていくと、そこは和風庭園…もとは全体が和風のしつらえだったものを、一部オルゴール博物館に合わせて変えたのでしょう。大きな鯉が泳いでいたり、創立者のモニュメントがあったり…他にもハーブの花壇があったり、お野菜が植えられていたり、とても変化に富んだ楽しいお庭でした。娘はこのお庭が気に入って走り回り、ポーズをとっては写真を撮って、嬉しそうでした。

 そして、オルゴール博物館。こちらは自由に観覧するタイプではなく、約一時間のガイドツアーで回るタイプの博物館です。ロビーで手回しのオルゴールを演奏させて貰う他は基本的には、オルゴールに触ることは出来ません。詳しい解説をしてもらいながら、珍しいオルゴールの音色に耳を傾ける贅沢な時間です。シリンダー型からディスク型へ移り変わっていった歴史、音楽を奏でる仕組みなども教えてくれます。

 5月のプログラムにはカラクリ人形が多く含まれており、子供も楽しめる内容でした。度々肩を動かしながらノートに絵を描く人形、はしごの上で逆立ちを披露してくれるサーカス人形、シャボン玉をするクマの人形、居眠りをする大道芸人の人形他…表情や小さな仕草など、ゼンマイや空気を動力にしたとは思えない、とても微妙な動きにびっくりです。中には短いミュージカルを見ているようなストーリー性やユーモアがあるものもあります。一つ一つの人形に、職人さんの細かな工夫が隠されているのです。他にも、ピアノやバイオリン、バンジョー等の楽器の演奏を自動で行うものは、いずれも見上げるほど大きく…これを見ると、蓄音機以前の自動演奏楽器という解説に納得です。ちなみに、蓄音機も、レコードもあります。今回はフランク・シナトラの甘い歌声をとってもふるーいレコードで楽しみました。

 この博物館には300台のオルゴールがあるそうです。オルゴールといっても、私達が普段から馴染みのある宝石箱のような小さなものではなく、大型のオルゴールが主で、しかも多くが貴重なアンティークです。世界でも数台しかないようなものもあります。今回は見ることしかできませんでしたが、ニコライ二世所有だったオルゴールも所蔵しています。期間限定で本物を聞くことが出来ます。

 秋の紅葉もそれは美しいそうです。機会があれば、また訪れてみたいものです。

参考:堀江オルゴール博物館(予約) http://www.orgel-horie.or.jp/ 

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科挙の歴史と名称の由来-宮崎市定『科挙-中国の試験地獄』より2009年05月05日

 清末部分にはとりあえず目途が着いたつもりだったが、先に進む前に、宮崎市定『科挙-中国の試験地獄』から科挙について簡単に紹介しておこうと思う。それというのも、科挙は廃止後も清国と中華民国の社会と教育に少なからぬ影響を与えていたからである。これを科挙の「遺毒」(後遺症)という言い方をするが、科挙の歴史や仕組みを理解してこそ、その毒たる由縁も分かるというものだ。

 天子の統治を補助する人物を、万人のなかから公平に採用する試験制度、それが本来の科挙のアイデアである。しかもこの科挙制度が成立したのが、今から1400年以上前の587年であることは、驚くべき事実といっていいだろう。なにしろ、ヨーロッパではゲルマン民族大移動の混乱がおさまりかけ、日本は飛鳥時代で蘇我馬子が丁未の乱で物部氏を滅ぼし実権を得た年にあたるのだから。

 この画期的なアイデアを実行に移した人物、それが隋の文帝である。彼は、貴族の専横にがまんしきれなくなり、頭をひねった末、地方政府に対する世襲的な貴族の優先権をいっさい認めず、地方官衙の高等官をすべて中央政府が任命派遣することに改めた。この官吏有資格者を製造する為に成立したのが科挙制度である。つまり、科挙は天子が貴族と戦うための武器として案出されたものであったのだ。その任務は、次の唐三百年ほどのあいだに果たされ、宋代に入ると、天子に刃向かうほど有力な貴族はいなくなって、科挙の全盛時代になるのである。

 宋を滅ぼしたモンゴル人の元王朝も中国化に伴い、小規模な科挙を行った。そしてモンゴル人を北へ追い払った明の太祖は、学校と科挙とを併用する政策をたてた。全国に学校をたて教官を任命し、十分教育して、生徒のなかから優秀な者を科挙の試験によって抜擢しようというものだったが、やがて金のかかる学校の方は有名無実となり、学校に於ける試験も科挙の試験の踏み台と化してしまう。そして清はこの明代の科挙制度をそのまま踏襲したのである。

 科挙制度は当初、種々の科目があるので「科目による選挙」(官吏登用のことを中国では選挙という)を略して「科挙」という言葉が唐代に成立したものらしい。宋に入ってから科目は進士のみに絞られたが、この名称は科挙が廃止される清末まで続いた。1904年、これが科挙最後の年である。

参考:宮崎市定『科挙-中国の試験地獄』(中公新書、1963初版) 

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科挙の応募資格2009年05月07日

 一口に科挙といっても千年以上の歴史がある制度だけに、幾多の変遷を重ねている。ここでは宮崎市定『科挙-中国の試験地獄』が紹介する、科挙制度が形式上もっとも完備した清朝末期の状態を基準として、何回かに分けてその構造を見てみようと思う。

 まずは応募の資格についてである。言うまでもないが、女性には応募の資格はなかった。男性については…科挙とその予備試験ともいえる学校試の応募資格には多少の制限があった。それは父祖三代の間に賤しい職業、例えば娼館、妓楼などの経営に従事したものでないことを要する。そのために出願書には保証人を立てて、三代の身分が清白であることを証明しなければならないというものであった。また、本人が父母、祖父母の死後一年ないし三年間の服喪中でないことを要する規定もあった。これは儒教的な親に対する孝行をつくす心を重んずるところから出ており、服喪中に公の場に出ることは全て遠慮せねばならなかった。

 しかし、その他の点ではどんな身分であっても受験でき、また父祖が、官吏であったとしても特典はなかった。

参考:宮崎市定『科挙-中国の試験地獄』(中公新書、1963初版) 

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あおとかいちの詩「おがわの はる」を暗唱する2009年05月07日

 娘は、ゴールデンウィークが終わって、久しぶりの学校だった。朝から雨の中、元気よく学校に出かけていった。帰宅した娘の手には葉っぱが一枚。「ばんそうこうあげる。」これが今日のお土産。
 連絡帳を見ると、宿題は算数と国語だった。算数は100~1000の数を勉強するプリント、国語は授業ではまだ一度もやっていない詩の暗唱であった。
 どうやら、暗唱は後回しにしているので、様子をみていると、寝る前にようやく練習を始めた。聞いていると、「あかさたなはまやらわ」と頭の中で考えながら、やっているらしい。だから後の方になるほど、間が空いてしまう。なかなか難しいものだ。

「おがわの はる」
          あおとかいち
あいうえおがわに はるがきた
かきくけこおりも  もうとけて
さしすせそろった  つくしんぼ
たちつてとんでる  もんしろちょう
なにぬねのはらの ひばりの こ
はひふへほんとに うれしいな
まみむめものかげ めだかの こ
やいゆえよしのめ  よけて いく
らりるれろんろん  うたう みず
わいうえおがわに  はるが きた

(『新編新しい国語』二年上、東京書籍) 
 
 いまはもう五月、「はるがきた」というには季節はずれの気もするが…春を知らせる、つくしんぼやらひばりの子、メダカの子が蘆の芽をよけながら小川を泳いでいる様子などを想像するだけで楽しくなる。
 娘の方は何度か読んでいる内に暗唱出来て、こちらもごきげんだった。
 
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科挙の予備試験・学校試とは?2009年05月08日

 科挙は、予備試験のような性格をもつ学校試に始まる。実を言えば学校試は科挙の中には入らないのだが、明代以降、科挙を受ける資格を得る為には、必ずどこかの国立学校の生徒「生員」でなければならなくなった。

 本来、学校は生徒を教育する機関であり、そのために教官が配属され、学校に長い期間在学し、何度も学力試験を受けると、その優秀な者は学校を出てそのまま官吏になる途も開かれていた。科挙は学校で養成された人材を登用する為に、特別な試験を行って官吏の資格を与える制度だった。しかしながら、後世、両者が混同され、科挙を受ける方が早道であり、科挙を受ける為には生員でならねばならぬから、科挙の前段階として学校に入る入学試験を受けるようになった。学校試は科挙の一段階として認識され、科挙の踏み台的試験と化してしまったのである。

 国立学校の代表的なものとしては、中央に「太学」があり、地方に「府学」「州学」「県学」(地方の学校については学校そのものには上下関係はないらしい)がある。定員は大きい学校で40人を超えず、小さな学校では15人と定められていた。後に世論の定員増加の希望にかんがみ、若干名の学費を必要としない生員の入学を許すことになった。それでも驚くほど少ない定員である。科挙を受ける資格がある「生員」になるだけでも、激烈な競争に勝ち残らなくてはならない。

 学校試はふつう童試と呼ばれた。それは元々14歳以下のものを対象にした試験だったからである。童試に応ずる受験生は年齢に関係なくすべて童生と呼ばれる。 

 この学校試、三年に二回の割で行われていた。この学校試は三つの段階に分かれていて、第一が県で行われる「県試」、第二が府で行われる「府試」、第三が本試験ともいうべき「院試」である。 

参考:宮崎市定『科挙-中国の試験地獄』(中公新書、1963初版) 

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シロツメクサとタンポポで編む花輪2009年05月09日

シロツメクサとタンポポで編んだ花輪
 青い空に、ぽっかり浮かぶ白い雲、久しぶりの温かな陽気に誘われて、娘と二人、外に出た。一輪車に自転車、縄跳び…身体を思いっきり動かした。

 周りを見れば沢山のシロツメクサとタンポポが咲いている。ふと思い立って、シロツメクサとタンポポを両手いっぱいに摘んだ。外にシートを広げて、二人で花輪編み。シロツメクサの白にタンポポの黄色が映えて、可愛らしい冠と腕輪ができた。娘も上手に編めて嬉しそうだった。

 家に帰って、「トルソーが作りたい」という娘のリクエストで、粘土でトルソー作りをした。トルソーというのは、洋服を着せる「ボディ」のこと。娘お気に入りのシリーズ「なんでも魔女商会」に出てくる。任せれば良かったのだが…外遊びで疲れていたので、つい自分でやってしまった…ちょっと後悔。娘も疲れたようで、気がついたら眠っていました。今晩がこわい… 

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何が起きたのでしょう!?2009年05月09日

 近所で生まれたばかりの小さなネコが死んでいました。見付けたのは娘の友だちの男の子。恐ろしいことに、そのネコにはクビがなかったそうなのです。見付けた男の子が慌てて自宅に駆け込み、両親を呼んできたところに、偶然居合わせました。

 場所は私達がほんの10分前通ったところです。そのときは全く気がつきませんでした。たぶん、なかったと思うのです。私だけなら見逃すことは十分あり得ますが、娘も一緒でしたから。それに…そこから10メートルも離れていないところに30分以上もいて花輪を編んでいたのに、騒いでいる人も見かけませんでした。

 ほんの10分の間に…カラスがやったのか、車に轢かれたのか…それとも誰かが嫌がらせに持ってきたのか…なにが起きたのでしょう?可哀想な子猫…。見付けた男の子もショックを受けていたようです。これが犯罪行為の前触れでないといいのですが。 

母の日のお祝いのセレモニー2009年05月11日

タンポポの綿毛が入った花かご
 昨日は母の日だった。昼間、娘が夫と二人で外に出かけていき、そして、キレイにお花や葉っぱをカゴにアレンジして、プレゼントしてくれた。そこになぜかタンポポの綿毛が意味ありげにさしてある。聞くと、「これをロウソク代わりにふーって吹いて、飛ばすんだよ。」と嬉しそうな返事が返ってきた。 

 もらった花かごをテーブルに飾って、しばらくすると、娘に「まだ綿毛ふーってしないの?」と催促された。それでもすぐにせず置いておいたところ…夜もう一度「外で星を見て綿毛ふーってしよう!」と誘われて、外に出たのだった。 

 空は曇っていて星は見えなかった。「星、見えないね」と言うと、「いいの。はやくやって」と言われて、私はタンポポの綿毛を手に取り、息を吹きかけた。暗闇の中で綿毛が風に運ばれていくのがわずかに見えた。そのとき、「ははのひ、おめでとう」という娘の小さな声が聞こえた。「ありがとう。」と私も小さい声で答えた。 

 このタンポポの綿毛をふっーっと吹くのは、どうやら娘の考えた母の日のお祝いのセレモニーであったことに、そのときようやく気がついたのだった。 

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