科挙の歴史と名称の由来-宮崎市定『科挙-中国の試験地獄』より2009年05月05日

 清末部分にはとりあえず目途が着いたつもりだったが、先に進む前に、宮崎市定『科挙-中国の試験地獄』から科挙について簡単に紹介しておこうと思う。それというのも、科挙は廃止後も清国と中華民国の社会と教育に少なからぬ影響を与えていたからである。これを科挙の「遺毒」(後遺症)という言い方をするが、科挙の歴史や仕組みを理解してこそ、その毒たる由縁も分かるというものだ。

 天子の統治を補助する人物を、万人のなかから公平に採用する試験制度、それが本来の科挙のアイデアである。しかもこの科挙制度が成立したのが、今から1400年以上前の587年であることは、驚くべき事実といっていいだろう。なにしろ、ヨーロッパではゲルマン民族大移動の混乱がおさまりかけ、日本は飛鳥時代で蘇我馬子が丁未の乱で物部氏を滅ぼし実権を得た年にあたるのだから。

 この画期的なアイデアを実行に移した人物、それが隋の文帝である。彼は、貴族の専横にがまんしきれなくなり、頭をひねった末、地方政府に対する世襲的な貴族の優先権をいっさい認めず、地方官衙の高等官をすべて中央政府が任命派遣することに改めた。この官吏有資格者を製造する為に成立したのが科挙制度である。つまり、科挙は天子が貴族と戦うための武器として案出されたものであったのだ。その任務は、次の唐三百年ほどのあいだに果たされ、宋代に入ると、天子に刃向かうほど有力な貴族はいなくなって、科挙の全盛時代になるのである。

 宋を滅ぼしたモンゴル人の元王朝も中国化に伴い、小規模な科挙を行った。そしてモンゴル人を北へ追い払った明の太祖は、学校と科挙とを併用する政策をたてた。全国に学校をたて教官を任命し、十分教育して、生徒のなかから優秀な者を科挙の試験によって抜擢しようというものだったが、やがて金のかかる学校の方は有名無実となり、学校に於ける試験も科挙の試験の踏み台と化してしまう。そして清はこの明代の科挙制度をそのまま踏襲したのである。

 科挙制度は当初、種々の科目があるので「科目による選挙」(官吏登用のことを中国では選挙という)を略して「科挙」という言葉が唐代に成立したものらしい。宋に入ってから科目は進士のみに絞られたが、この名称は科挙が廃止される清末まで続いた。1904年、これが科挙最後の年である。

参考:宮崎市定『科挙-中国の試験地獄』(中公新書、1963初版) 

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