中国・清末、聖約翰大学(St. John's University)誕生の経緯12009年06月22日

 しばらく間があいたが、清末から民国にかけての名門、聖約翰大学(St. John's University、略称は「約大」)について、まだ本を読んでいる。日本のミッション系の大学を調べるのと違い、格段に骨が折れる。キリスト教、帝国主義、財界との強いつながり…これらは社会主義国家においては、マイナス要素である。だから、研究書の記述もそれを踏まえたものになる。この大学の真の姿を見極めるのは難しい。

 アメリカ聖公会の中国伝道教区初代主教であったブーン(William Jones Boone 中国名:文恵廉)のもと設立された培雅書院(1865年)と度恩書院(1866年)が、聖約翰書院(1879年設立)に発展するには、第三代中国伝道教区主教となったシェルシェウスキー(Samuel Isaac Joseph Scherschewsky 中国名:施約瑟、1831-1906)が大学設立を提唱したことが大きかった。このシェルシェウスキーはリトアニア系アメリカ人、ユダヤ系の家庭に育ちながら、キリスト教に帰依し、聖公会の上海司教となった人物である。シェルシェウスキーによる大学設立提唱は、聖公会上層部の支持を得て、ついに1877年8月、大学建設の許可を得るに至る。

 シェルシェウスキーは許可が下りると早速アメリカで大学設立の募金活動を行った。しかし、目標の半分しか集めることができなかった。聖公会の伝道部は六千ドルを設立資金として供与したが、設立資金は足りないままであった。幸いなことに、聖公会が上海・虹口に以前購入した三カ所の土地の地代が上がったことから、この土地を高額で貸す契約を結び、さらに教会学校の同窓生や上海居住の外国人に借金をして、どうにか資金を作った。学校の建設地選びにあたって、シェルシェウスキーは北京や山東省煙台を視察している。結局、同会の二カ所の学校、培雅書院と度恩書院を統合し、これを核に新しい学校を始めることができる上海に落ち着いた。

 以上のような経緯を経て、聖約翰書院(St. John's College)は、上海・西郊の梵王渡の13ヤードの土地に誕生した。

参考:『海上梵王渡――聖約翰大学(教会大学在中国)』(河北教育出版社、2003)

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