中国・清末、聖約翰大学(St. John's University)誕生の経緯22009年06月30日

 6月22日の記事「中国・清末、聖約翰大学(St. John's University)誕生の経緯1」に続き、今度は聖約翰書院(St. John's College、セント・ジョージ学院)時代について書こうと思う。聖約翰書院は、1879年4月の復活祭に定礎式を行い、同年9月には正式に開学した。入学者39名は、いずれもアメリカ聖公会の学校である培雅書院、度恩書院および聖公会神学校からの生徒である。

 開講当時、校舎は二階建てであった。一階は教室と食堂、図書館、礼拝堂、二階は80名収容できる学生宿舎になっていた。他に教員宿舎が併設されていた。開学直後の学校の生徒の大多数は信者の家庭の出身であり、衣服や食事、教科書や文房具に至るまで、教会から無償で配られたという。

 書院時代におかれたのは、国文部、神学部、医学部、英文部の4学部であった。国文部は、1891年に大学部が設立された際「予科」となった。神学部は系統的に神学を学び、牧師を養成するコースであり、医学部は1880年に中国伝道教区初代主教・ブーンの長男H.W.Boonによって同仁医院内に開設されたという。なお、英文部は、上海居住の広東商人のリクエストで1881年に設立され、またの名を広東部ともいった。上記の経緯で設立されたことから他学部と異なり、学費が8元と定められていた。(英文部は1884年で閉鎖)

 開学初期の主要スタッフは、Samuel Isaac Joseph Scherschewsky(シェルシェウスキー、監督=学長と国文部主任を兼任)、ブーンの次男Wiliam.J.Boone,Jr.(ウィリアム・J・ブーンJr.、英文文学と倫理学教授を兼任)、顔永京(学監と数学、自然、哲学教授を兼任)、Daniel M. Bates(ダニエル・M・ベイツ、歴史、宗教学教授を兼任)であり、それぞれの学部では中国人講師、欧米人(主にアメリカ人)講師による授業が行われてた。

 この本によれば、聖約翰書院時代、特に自然科学における教学水準はそれほど高くなかったらしい。しかし、1883年から1890年に高学年向けの英語を担当したE.A.Spencer(スペンサー女史)により、セント・ジョーンズの英語教育の水準が飛躍的に向上したという。中華民国時代に国内大学トップレベルと言われた英語教育の基礎はこの時期に築かれた。

参考:『海上梵王渡――聖約翰大学(教会大学在中国)』(河北教育出版社、2003)

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アン・サリバン先生を考える2009年06月30日

 ヘレン・ケラー関連の本はどれも、アン・サリバン先生を「希に見る素晴らしい教育者」「天才教育者」と絶賛している。もちろん、私もそう思う。ヘレンを育て上げた献身の物語は誰もが感動せずにはいられない。でも、一方で彼女がなぜそれほどに素晴らしい教育者になることができたのか、ということを不思議にも思う。なぜなら、アン・サリバン先生は、その経歴を見る限り、教育者として特別の訓練を受けたわけでもなく、家庭の温かささえ知らずに育ったと思われるからである。ウィキペディア(Wikipedia)と『奇跡の人 ヘレン・ケラー自伝』の解説から、アン・サリバンのヘレンと会うまでの経歴を追ってみよう。
 
 アン・サリバンは、1866年4月14日にマサチューセッツ州ヒルで、アイルランド移民の娘として生まれる。3歳の時に目の病気トラコーマになり、5歳の時にはほとんど目が見えなくなったと言われる。9歳の時に母親が亡くなり、父親がアルコール依存症で家族を養う能力がなかったことから、結核によって体が不自由になった弟ジミーとともに親戚の間を転々とし、10歳になる前に救貧院に送られる。弟はこの救貧院で亡くなり、アン自身も目の病気が悪化して盲目となる。鬱状態になって、食事を拒み、死を願ったアン・サリバンだったが、病院の看護婦にキリスト教の教えを説かれて、徐々に心を開いていったという。1876年には緊張型精神分裂病で精神病棟に入ったというから、弟の死と完全に盲目となったことは、彼女にとって相当の心の打撃だったのだろう。
 
 アン・サリバンは14歳の時にパーキンス盲学校に入学し、「救貧院」からの脱出を果たす。盲学校にいる間に訓練と数度の手術の結果、ある程度視力を回復した。ただし、光に弱く常時サングラスをかけていたという。在学中には、視覚・聴覚障害を克服したローラ・ブリッジマンと友人になったことも、後のヘレンの教育に生かされたといわれる。1886年、20歳のとき、最優秀の成績で盲学校を卒業するが、就職先が見つからなかった。そのアン・サリバンに「目と耳が不自由な子供の家庭教師」の声がかかったのである。この子供こそ、ヘレン・ケラーだった。
 
 上記の経歴を見てもわかるように、アン・サリバンの少女時代は、家庭の温かみを味わうどころか、貧困、家族の死と家庭の崩壊、失明、鬱、精神分裂症…これほどにも幸せとは縁遠いものであったのだ。
 
 そんな彼女がなぜヘレンを救うことが出来たのだろう。温かい家庭生活を知らない彼女にとって、裕福で温かなケラー家の人々との生活は、初めて知った家庭の味だったに違いない。サリバン先生は手紙の中でこう言っている。「自分が世の中の役に立っているとか、誰かに必要とされていると感じることは大変なことです。ヘレンはほとんどすべての点で私を頼りにしてくれますが、このことが私を強くし喜ばせてくれます。」人は誰かに必要とされるということを必要としている。アン・サリバンにとってヘレンは、弟を失って以来はじめての、本当に彼女を必要としている存在だったのではないか。
 
 それにしても、サリバン先生が着任したばかりのころは、非常に厳しかったことが知られている。もしかしたら、アン・サリバンがヘレンの家庭教師になった当初は、まだ人間的には大きな問題を沢山抱えた状態だったのかもしれない。ヘレンを闇からすくい上げるその過程は、彼女自身をも救う過程であったのかもしれない。そして、ヘレンと共に多くのことを学ぶ中で、彼女自身も高い教養を身につけ、豊かな人間性を獲得し、教育者として磨かれていったのかもしれない、と私は想像するのである。
 
参考:ウィキペディア(Wikipedia)「アン・サリバン」
ヘレン・ケラー・著/小倉慶郎・訳『奇跡の人 ヘレン・ケラー自伝』(新潮文庫)
アン・サリバン・著、槇恭子・訳『ヘレン・ケラーはどう教育されたか ――サリバン先生の記録――』(明治図書出版、1973)。 
 
読んだ本:ヘレン・ケラー・著/小倉慶郎・訳『奇跡の人 ヘレン・ケラー自伝』(新潮文庫)
 
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