小学館版学習まんがスペシャル『ヘレン・ケラー』を読む ― 2009年07月01日

自分が感動した話を娘にも知ってほしい、と小学館版学習まんがスペシャル『ヘレン・ケラー』を購入した。先に私が読んで、その後、見せようと思ってテーブルに置いておいたのだが、気がつくと娘が夢中で読んでいた。同じ本を読んで母娘で語り合う日を待ち望んでいた私としては、嬉しい誤算だった。娘に感想を聞くのが今からとても楽しみである。
さて、この『ヘレン・ケラー』、有名な少女時代を中心にしつつも、簡単にではあるが、それ以降のヘレンとサリバン先生の人生も追っているところは好感がもてる。もっとも、ヘレンの人生全体を書いているにしては、彼女の福祉活動にのみ焦点が当てられ、彼女が男女同権論者だったこと、社会主義を信奉していたこと、人種差別反対論者だったことなど、政治活動については一切言及がないのが気になった。このことは、ヘレン・ケラーという人物とこの時代をより深く知るきっかけになりうる部分だと思われるだけに、残念だ。また、アン・サリバンの結婚のことは書いているが、ヘレンには結婚を考えた男性がいたにもかかわらず母親の反対で断念したことは書かれていない。結婚につながらなかった恋愛は書かないのは、シリーズ全体の方針なのだろうか?
読んだ本:『ヘレン・ケラー』(小学館版学習まんがスペシャル、1996)
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さて、この『ヘレン・ケラー』、有名な少女時代を中心にしつつも、簡単にではあるが、それ以降のヘレンとサリバン先生の人生も追っているところは好感がもてる。もっとも、ヘレンの人生全体を書いているにしては、彼女の福祉活動にのみ焦点が当てられ、彼女が男女同権論者だったこと、社会主義を信奉していたこと、人種差別反対論者だったことなど、政治活動については一切言及がないのが気になった。このことは、ヘレン・ケラーという人物とこの時代をより深く知るきっかけになりうる部分だと思われるだけに、残念だ。また、アン・サリバンの結婚のことは書いているが、ヘレンには結婚を考えた男性がいたにもかかわらず母親の反対で断念したことは書かれていない。結婚につながらなかった恋愛は書かないのは、シリーズ全体の方針なのだろうか?
読んだ本:『ヘレン・ケラー』(小学館版学習まんがスペシャル、1996)
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中国・清末から中華民国の名門女子校・聖マリア女学校(聖瑪利亜女校、St. Mary’s Hall) ― 2009年07月03日
1881年、聖約翰書院(St. John's College、セント・ジョーンズ学院)の構内北側に、女子校・聖瑪利亜書院(St. Mary’s Hall、聖マリア女学校)が併設された。これは上海にアメリカ聖公会の二つの女子校、文紀女学(Emma Jones School、1851年)と裨文女学(Bridgman Girl School、1861年)を合併して設立された寄宿制の女子校である。聖マリア女学校は「聖校」「SMH」と呼ばれていた。
初代の校長は黄素娥女史(在任:1881-1890)、アメリカ聖公会で初めて洗礼を受け牧師となった中国人・黄光彩の長女である。詳しくはわからないが、彼女の母親もまたアメリカ聖公会で初めて洗礼を受けた中国女性であるらしい。黄素娥女史は、後に聖約翰書院の第二代学長フランシス・L・H・ポット(Francis Lister Hawks Pott、中国名:卜舫済)と結婚している。
聖校の創設期、学費は無償であったが、入学者が信者の子女のみに限られていたこともあって、学生は28名であった。学習内容は、中文、聖書、英語、女紅(家庭科のようなもの。家事、裁縫等)といった簡単なものであったらしい。1900年に初めての卒業式が行われたとき、卒業生は朱静貞、一人だけであった。
1900年以降、聖校は大きく発展する。校舎を拡充、外部学生の募集および学費徴収を開始した。毎学期80元、一年分の学費は普通の労働者(といってもおそらくホワイトワーカーだろう)の10ヶ月分だったというから、高額である。
また、英文部、中文部、音楽部を設立し、特に英文部に重点をおいて特色を出し、人気を博すようになる。1908年には師範科、1924年には実習小学を設立している。(師範科と実習小学は1937年の日中戦争の勃発で閉鎖)学生は全員寄宿生活を送り、一か月一回しか帰宅を許されなかった。一ヶ月一回の帰宅日には迎えの車が門前に列をなしたという。校則は厳しく、例えば一ヶ月に一回の帰宅も、決められた時間を5分過ぎただけで、次回の帰宅は許可されなかった、という話もある。学習面では、英語とピアノの教育に重点が置かれた。両親にとっては娘を安心して預けることが出来る、中上流階級の花嫁教育に理想的な学校とみなされていたらしい。
聖瑪利亜書院から、後に聖瑪利亜女校、聖瑪利亜女中と改称したこの学校は、同じくミッション系の「中西女中」と並んで、中華民国期においては、富豪や名門の子女も通う当時の中上流階級憧れの名門女子校となった。そして徐々に上流階級の子女教育にふさわしいカリキュラムへと変わっていった。1952年、中西女中と聖瑪利亜女中は合併、ミッション系女学校としての歴史はここに幕を閉じる。学校としては、上海市第三女子中学として、現在に至っている。
参考:聖マリア女学校卒業生による紹介(上海市第三女子中学教育科研網)
凌励立「聖瑪利亜女中校史」 http://www.ssnz.sh.cn/girleducationstudy/7/smly/1lll.htm 他
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初代の校長は黄素娥女史(在任:1881-1890)、アメリカ聖公会で初めて洗礼を受け牧師となった中国人・黄光彩の長女である。詳しくはわからないが、彼女の母親もまたアメリカ聖公会で初めて洗礼を受けた中国女性であるらしい。黄素娥女史は、後に聖約翰書院の第二代学長フランシス・L・H・ポット(Francis Lister Hawks Pott、中国名:卜舫済)と結婚している。
聖校の創設期、学費は無償であったが、入学者が信者の子女のみに限られていたこともあって、学生は28名であった。学習内容は、中文、聖書、英語、女紅(家庭科のようなもの。家事、裁縫等)といった簡単なものであったらしい。1900年に初めての卒業式が行われたとき、卒業生は朱静貞、一人だけであった。
1900年以降、聖校は大きく発展する。校舎を拡充、外部学生の募集および学費徴収を開始した。毎学期80元、一年分の学費は普通の労働者(といってもおそらくホワイトワーカーだろう)の10ヶ月分だったというから、高額である。
また、英文部、中文部、音楽部を設立し、特に英文部に重点をおいて特色を出し、人気を博すようになる。1908年には師範科、1924年には実習小学を設立している。(師範科と実習小学は1937年の日中戦争の勃発で閉鎖)学生は全員寄宿生活を送り、一か月一回しか帰宅を許されなかった。一ヶ月一回の帰宅日には迎えの車が門前に列をなしたという。校則は厳しく、例えば一ヶ月に一回の帰宅も、決められた時間を5分過ぎただけで、次回の帰宅は許可されなかった、という話もある。学習面では、英語とピアノの教育に重点が置かれた。両親にとっては娘を安心して預けることが出来る、中上流階級の花嫁教育に理想的な学校とみなされていたらしい。
聖瑪利亜書院から、後に聖瑪利亜女校、聖瑪利亜女中と改称したこの学校は、同じくミッション系の「中西女中」と並んで、中華民国期においては、富豪や名門の子女も通う当時の中上流階級憧れの名門女子校となった。そして徐々に上流階級の子女教育にふさわしいカリキュラムへと変わっていった。1952年、中西女中と聖瑪利亜女中は合併、ミッション系女学校としての歴史はここに幕を閉じる。学校としては、上海市第三女子中学として、現在に至っている。
参考:聖マリア女学校卒業生による紹介(上海市第三女子中学教育科研網)
凌励立「聖瑪利亜女中校史」 http://www.ssnz.sh.cn/girleducationstudy/7/smly/1lll.htm 他
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聖マリア女学校とセント・ジョーンズ大学の「仲」 ― 2009年07月04日
1920年代~1940年あたりを描く、上海を舞台にした中国ドラマでは、聖マリア女学校とセント・ジョーンズ大学は、主要人物の女性や男性の学校名として大抵出てくるような気がする。中国人なら、この二つの学校名を聞けば、登場人物が中上流の豊かな家庭の出身で、進歩的な思想の持ち主であり、英語が流暢であることをすぐイメージするだろう。しかも大抵、この二つの学校の登場人物が恋人同士なのだ。
1881年から1923年まで、聖マリア女学校(St. Mary’s Hall、)は、セント・ジョーンズ大学(St. John's University)と同じ構内にあった。しかしながら、高い竹垣で仕切られ、両校生徒の交流は認められていなかった。平日の授業は別に行われ、礼拝のときのみ礼拝堂で両校一堂に会した。ただし、このときも、両校の生徒の間はカーテンで遮られていたという。
それでも、礼拝のときにセント・ジョーンズの男子生徒が、聖マリアの「妹」たちに積極的にアプローチしたり、就寝前には壁の向こうで“Good Night,Ladies”を歌ったり、更に大胆な者は女子校に忍び込んだり…実際には交流はあったようだ。もっとも、これらは発見され次第、当然校長の怒りを買った。
学校側は問題が起こることを恐れたのだろう。また学校の規模の拡大に伴い手狭になったことから、1920年、聖マリアは白利南路(現在の長寧路)に土地を購入、新しい洋風校舎を建て、1923年7月に移転、校名を「聖瑪利亜女校」に改めたのもこのときのこと、時は折しも五四運動のころである。
両校は同じ文化で教育されたためか、互いに特別の親近感があったようだ。むろん、同じ階級に属していたこともあるのだろうが、セント・ジョーンズと聖マリアの卒業生同士が結婚することが多かった。中国・中華民国期の文学者として名高い・林語堂もその一人である。
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1881年から1923年まで、聖マリア女学校(St. Mary’s Hall、)は、セント・ジョーンズ大学(St. John's University)と同じ構内にあった。しかしながら、高い竹垣で仕切られ、両校生徒の交流は認められていなかった。平日の授業は別に行われ、礼拝のときのみ礼拝堂で両校一堂に会した。ただし、このときも、両校の生徒の間はカーテンで遮られていたという。
それでも、礼拝のときにセント・ジョーンズの男子生徒が、聖マリアの「妹」たちに積極的にアプローチしたり、就寝前には壁の向こうで“Good Night,Ladies”を歌ったり、更に大胆な者は女子校に忍び込んだり…実際には交流はあったようだ。もっとも、これらは発見され次第、当然校長の怒りを買った。
学校側は問題が起こることを恐れたのだろう。また学校の規模の拡大に伴い手狭になったことから、1920年、聖マリアは白利南路(現在の長寧路)に土地を購入、新しい洋風校舎を建て、1923年7月に移転、校名を「聖瑪利亜女校」に改めたのもこのときのこと、時は折しも五四運動のころである。
両校は同じ文化で教育されたためか、互いに特別の親近感があったようだ。むろん、同じ階級に属していたこともあるのだろうが、セント・ジョーンズと聖マリアの卒業生同士が結婚することが多かった。中国・中華民国期の文学者として名高い・林語堂もその一人である。
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難病の子供の夢を叶える―Make A Wish of Japan ― 2009年07月05日
昨日、友達のお子さんの告別式に参列した。天に召されたのは娘と同じ歳の女の子である。何とも悲しく複雑な気持ちだった。三年半の闘病生活…幾度もの手術や治療の副作用にも耐え、親子で必死に闘っているのをずっと知っていた。
そんな彼らに今年春、素晴らしいプレゼントが贈られていたことを知った。難病の子供の夢を叶える活動をしているボランティア団体「Make A Wish」の協力で、「空を飛びたい」「海に行きたい」という二つの希望を、飛行機に乗って沖縄へ家族で旅行へいくことで実現したという。いい思い出になった、と写真を見せてもらった。
聞くと、一言に旅行に行くと言っても簡単ではない。車椅子、様々な装置を飛行機に積み、さらに主治医が同行したのだそうだ。「Make A Wish」のスタッフは事前の手続きやレンタカー、飛行機、ホテルの手配はもちろん、旅行中、出発地でも現地でもお世話をしてくれたらしい。世の中には、こんな素晴らしい活動をしている方達がいるのだ、と目が覚める思いだった。
参考:Make A Wish of Japan http://www.mawj.org/
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「キボウのかけら」クリック募金 KDDI サイト
http://www.kddi.com/kibou/
1つのやさしい気持ちのカケラが、たくさん集まるとキボウに変わる。そんな思いをこめた、ワンクリック募金サイト「キボウのカケラ」。 KDDIの社会貢献プログラムです。 クリックから生まれた「キボウのカケラ」に応じ、KDDIが1クリックあたり1円をメイク・ア・ウィッシュ オブ ジャパンに寄付します。誰でも、1日1クリックで小さな協力ができます。
そんな彼らに今年春、素晴らしいプレゼントが贈られていたことを知った。難病の子供の夢を叶える活動をしているボランティア団体「Make A Wish」の協力で、「空を飛びたい」「海に行きたい」という二つの希望を、飛行機に乗って沖縄へ家族で旅行へいくことで実現したという。いい思い出になった、と写真を見せてもらった。
聞くと、一言に旅行に行くと言っても簡単ではない。車椅子、様々な装置を飛行機に積み、さらに主治医が同行したのだそうだ。「Make A Wish」のスタッフは事前の手続きやレンタカー、飛行機、ホテルの手配はもちろん、旅行中、出発地でも現地でもお世話をしてくれたらしい。世の中には、こんな素晴らしい活動をしている方達がいるのだ、と目が覚める思いだった。
参考:Make A Wish of Japan http://www.mawj.org/
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司馬遼太郎『世に棲む日々』1,2を読む ― 2009年07月06日

実家の母に送ってもらった司馬遼太郎『世に棲む日々』を読んでいる。これは吉田松陰と高杉晋作という二人の革命家を描いた小説である。ようやく半分読んだ。感服したのは、司馬遼太郎氏が、吉田松陰を理想化することなく、そのままの彼を丸ごと受け止めようとしているところである。まだ全4巻読み終わっていないのだけれど、吉田松陰について印象が強く残っている内に簡単な感想を書いておこうと思う。
この本を読む限り、吉田松陰は、知的で純粋で優しい、愛すべき人物である。理想家で、実行力もある。少年時代に山鹿流兵学師範の家に養子に出されたことから、叔父に「公」を叩き込まれ、「私」を捨て去るよう異常に厳しく教育されたという。また藩でも兵法指南役の家が途絶えることのないよう、吉田松陰のために藩の逸材に講師を命じて教えさ、成人後は、九州への遊学と江戸留学を許している。厳しい叔父の教育はともかく、家庭環境は穏やかであったし、藩は彼をとても大事にしていた。その彼が、友人との旅行の約束を果たすために脱藩し、その後も藩の存在を脅かすような革命的行動に走る、その飛躍がどうも普通の感覚では理解しがたい。司馬氏もこれを説明するにあたっては「狂」という文字でこれを表現する。
「狂」とは言い得て妙である。大体、幼い頃から兵法を学んだにしては、大事を実行するに際して、計画性も打算もなく、すぐに人を信用してしまうところなどは、革命を実行するには向かないようにもみえるが、この極度な純粋さが革命を起こすには必要なのかもしれない。
司馬氏は、「革命」に際して、明治維新の思想的根拠を与えた理論家として、吉田松陰を予言者的な存在ととらえ、たった三年しか存在できなかった松下村塾がその出身者、とくに高杉晋作に与えた影響を重く見る。吉田松陰と高杉晋作は、これがまた全く違うタイプの人間である。続きを読むのが楽しみだ。
読んだ本:司馬遼太郎『世に棲む日々』1,2(文春文庫)
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この本を読む限り、吉田松陰は、知的で純粋で優しい、愛すべき人物である。理想家で、実行力もある。少年時代に山鹿流兵学師範の家に養子に出されたことから、叔父に「公」を叩き込まれ、「私」を捨て去るよう異常に厳しく教育されたという。また藩でも兵法指南役の家が途絶えることのないよう、吉田松陰のために藩の逸材に講師を命じて教えさ、成人後は、九州への遊学と江戸留学を許している。厳しい叔父の教育はともかく、家庭環境は穏やかであったし、藩は彼をとても大事にしていた。その彼が、友人との旅行の約束を果たすために脱藩し、その後も藩の存在を脅かすような革命的行動に走る、その飛躍がどうも普通の感覚では理解しがたい。司馬氏もこれを説明するにあたっては「狂」という文字でこれを表現する。
「狂」とは言い得て妙である。大体、幼い頃から兵法を学んだにしては、大事を実行するに際して、計画性も打算もなく、すぐに人を信用してしまうところなどは、革命を実行するには向かないようにもみえるが、この極度な純粋さが革命を起こすには必要なのかもしれない。
司馬氏は、「革命」に際して、明治維新の思想的根拠を与えた理論家として、吉田松陰を予言者的な存在ととらえ、たった三年しか存在できなかった松下村塾がその出身者、とくに高杉晋作に与えた影響を重く見る。吉田松陰と高杉晋作は、これがまた全く違うタイプの人間である。続きを読むのが楽しみだ。
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作家・張愛玲の母校・聖マリア女学校 ― 2009年07月07日
前の記事に書き忘れたが、中華民国時代のミッションスクール、上海の聖マリア女学校の卒業生で有名な人物といえば、作家・張愛玲(1920-1995)であろう。張愛玲は英語名をアイリーン・チャン、その作品は(開放改革後の)中国、台湾など中国語圏では絶大な人気を誇る作家である。昨年日本でも公開された映画「色、戒 ラスト、コーション」(映画より怖い本当の暗殺未遂事件 ― 2008-04-20の記事参照)の原作者であり、他にも数々の作品が映画化、ドラマ化されている。
張愛玲は、父方の祖父は清末の大臣・張佩綸、母方の祖父は李鴻章という名門出身である。彼女は1931年秋に11歳で入学(中一)、1937年夏に17歳で卒業(高三)するまで、この学校の学生であった。両親は中学校に入学した年に離婚していたので、彼女はほとんど家には帰らなかったらしい。なお、記念すべき処女作「不幸的她」は、校内の年刊誌『鳳藻』(第12期、1932年)に発表されたものである。
参考:聖マリア女学校卒業生による紹介(上海市第三女子中学教育科研網)
朱国明「張愛玲與聖瑪利亜女校」 http://www.ssnz.sh.cn/girleducationstudy/7/smly/10zgm.htm
「映画より怖い本当の暗殺未遂事件 ― 2008-04-20」http://youmei.asablo.jp/blog/2008/04/20/3211932
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張愛玲は、父方の祖父は清末の大臣・張佩綸、母方の祖父は李鴻章という名門出身である。彼女は1931年秋に11歳で入学(中一)、1937年夏に17歳で卒業(高三)するまで、この学校の学生であった。両親は中学校に入学した年に離婚していたので、彼女はほとんど家には帰らなかったらしい。なお、記念すべき処女作「不幸的她」は、校内の年刊誌『鳳藻』(第12期、1932年)に発表されたものである。
参考:聖マリア女学校卒業生による紹介(上海市第三女子中学教育科研網)
朱国明「張愛玲與聖瑪利亜女校」 http://www.ssnz.sh.cn/girleducationstudy/7/smly/10zgm.htm
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中国・中華民国期、三万人の戦災孤児を救った戦時児童保育会 ― 2009年07月08日
戦時児童保育会の編集で生活書店より発行された『抗戦建国読本』特冊(第三版、一九四〇年)を『小学教科書発展史』で見た。これほどに日本帝国主義への憎悪に溢れ、日本人に対する偏見や憎しみが明確な教科書は初めてだった。そこで気になって、戦時児童保育会について調べると、戦時児童保育会は、日中戦争で両親を亡くしたり、親と生き別れになったりした子供を救うために、上海の女性名士の呼びかけによって緊急に創設された超党派の非営利団体であることがわかった。
もう少し詳しく知りたくなって、取り寄せたのが、『民族之魂――中国戦時児童保育会搶救抗日戦争三万難童紀実』という本だが、これがなかなか重い内容の本である。中国戦時児童保育会、活動期間は1938年から1946年まで、全部で61カ所の児童保育院、孤児院を設立、経費を募金でまかないつつ、三万あまりの戦災孤児(十五歳以下)等を養育した。院内学校では教育も行っていたのであり、前述の教科書は彼らを教育するために実際に使用されていた。
この本を読んで気づくのは、「中国戦時児童保育会」の政治的立場が非常に微妙なことだ。なんといっても、理事長は宋美齢(蒋介石夫人)、名誉理事長は宋慶齢(孫文夫人)、理事は56名でこの中には鄧(トウ)穎超(周恩来夫人)、はじめ他共産党員の名前もある。国共合作のきっかけとなる西安事件前、女性による超党派の戦災孤児救助活動が行われていたことは、戦後の国民党と共産党の関係の悪化により、大陸と台湾の双方でタブー視され、長い間大きい声で語られることがなかった。
それに対する配慮もあるのだろう。この本では、中国戦時児童保育会とは直接関係がない、日本軍の子供に対する残虐行為について記述するなど、抗日意識を全面に打ち出している。それでも、長期にわたって封印されてきた歴史的に貴重な証言や貴重な写真が沢山載っており、孤児の救出活動がいかに困難を極めたか、経済的な困難を抱えながら戦時下の保育院経営がどんなに厳しかったか、どんな教育が行われたかなど、具体的な事情が詳しくわかるのがありがたい。
読んでいる本:『民族之魂――中国戦時児童保育会搶救抗日戦争三万難童紀実』(珠海出版社)
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もう少し詳しく知りたくなって、取り寄せたのが、『民族之魂――中国戦時児童保育会搶救抗日戦争三万難童紀実』という本だが、これがなかなか重い内容の本である。中国戦時児童保育会、活動期間は1938年から1946年まで、全部で61カ所の児童保育院、孤児院を設立、経費を募金でまかないつつ、三万あまりの戦災孤児(十五歳以下)等を養育した。院内学校では教育も行っていたのであり、前述の教科書は彼らを教育するために実際に使用されていた。
この本を読んで気づくのは、「中国戦時児童保育会」の政治的立場が非常に微妙なことだ。なんといっても、理事長は宋美齢(蒋介石夫人)、名誉理事長は宋慶齢(孫文夫人)、理事は56名でこの中には鄧(トウ)穎超(周恩来夫人)、はじめ他共産党員の名前もある。国共合作のきっかけとなる西安事件前、女性による超党派の戦災孤児救助活動が行われていたことは、戦後の国民党と共産党の関係の悪化により、大陸と台湾の双方でタブー視され、長い間大きい声で語られることがなかった。
それに対する配慮もあるのだろう。この本では、中国戦時児童保育会とは直接関係がない、日本軍の子供に対する残虐行為について記述するなど、抗日意識を全面に打ち出している。それでも、長期にわたって封印されてきた歴史的に貴重な証言や貴重な写真が沢山載っており、孤児の救出活動がいかに困難を極めたか、経済的な困難を抱えながら戦時下の保育院経営がどんなに厳しかったか、どんな教育が行われたかなど、具体的な事情が詳しくわかるのがありがたい。
読んでいる本:『民族之魂――中国戦時児童保育会搶救抗日戦争三万難童紀実』(珠海出版社)
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鳩山春子が見た竹橋女学校――『鳩山春子――わが自叙伝』を読む1 ― 2009年07月10日

最近、明治の女性教育家の本を少しずつ読んでいる。その関連で、『鳩山春子――わが自叙伝』を読んだ。鳩山春子は政治家の鳩山由起夫、邦夫兄弟の曾祖母にあたる。明治初期の女性としては最高の教育(竹橋女学校、東京女子高等師範)を受け、また自身も母校である東京女子師範で教鞭をとり、共立女子大学(創立時は共立女子職業学校)を創立した、明治期の著名な教育家の一人である。
いまの私の興味の対象は、明治初期の官立の女子教育機関の有り様、とくに日本初めての官立の女学校「竹橋女学校」についてである。日本の最初の官立女学校の当時の様子を知る貴重な手がかりの一つが、この本なのだ。
春子は、信濃国松本に、松本藩士渡辺幸右衛門の5女として生まれた。(結婚前の姓は渡辺、明治にはいって多賀)幼い頃から勉強が好きで、いろいろな先生について、学んでいたらしい。父に連れられて松本から上京したのは、13歳(明治7年)のときである。春子は13歳から16歳(明治10年)まで「竹橋女学校」(正式名称は東京女子校、明治5-10年)に自宅から人力車で通った。文部省直轄の唯一、そして当時としては日本唯一の女学校であった。動物、植物、金石、生理、物理、化学、歴史、文法、作文、地理など、教えられる学科も種類が多く、入学者の質も高く予め家庭で相当の教育を受けた者が多かったという。この学校の特徴は英語学習に重点をおいたところであった。
春子の場合、他の学問は問題なかったが、英語は出来なかったので、他の人に追いつくまではライス先生の個人教授を受けたという。「大変進歩主義の学校」であり、「当時の元老議官とか其他高位高官または紳商などの令嬢」が多く、「月謝も高ければ、生徒の取扱いも良いという風」で「服装は一般に華美で、何処までも姫様的にできあがって」いたらしい。庶民には到底手が届かない学校ではあったが、この学校の生徒は実に勤勉であったようだ。「この女学校の良くなったのは偏に英語の先生ライスさんの教授法が上手で非常に勉強を奨励したから」であるといい、「英語教師が極度の奨励法を講ぜられた為か、兎に角学校を競争遊戯の場所の如く感じまして、常に楽しく愉快に勉強した有様を今から考えても夢のように思われます」というほど楽しかったようである。
ところが、西南戦争に伴う経費削減で竹橋女学校が廃校になり、16歳(明治10年)で創立直後の「お茶の水東京女子師範学校」(後のお茶の水女子大学)に竹橋女学校の学生のために英学科が設けられたのでこちらに入学したものの、英語は簡単すぎて、張り合いがなかった程度の内容であった。そのため、ウワイコップというアメリカ女性のもとで英語を学び、彼女の帰国とともにまた英学科に戻り、卒業する。これは事実上たった一回の竹橋女学校の卒業式であった。
これを卒業すると、春子は差し詰め行く学校がなかったため、「無拠嫌々ながら」17歳(明治11年)に「お茶の水東京女子師範学校」師範科本科を受験、入学している。「この学校はこの時分日本唯一の師範学校であった」からである。どうやら、他の学校も見に行ったようだが、「築地其他西洋人設立の学校を見ましたが何れも著しく程度が低いのでとても不適当」であったのだという。
こうしてみると、官立初の女学校「竹橋女学校(東京女学校)は、間違いなくお嬢様学校であったが、その教学内容はレベルが高く、学生のレベルも満足度も高かったようである。学校には問題がなかったにもかかわらず、西南戦争の経費削減のために閉校になったのは、当時の女子教育に対する認識そのものにも関係しているようにも思える。
読んでいる本:『鳩山春子―我が自叙伝』(日本図書センター、1997)
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いまの私の興味の対象は、明治初期の官立の女子教育機関の有り様、とくに日本初めての官立の女学校「竹橋女学校」についてである。日本の最初の官立女学校の当時の様子を知る貴重な手がかりの一つが、この本なのだ。
春子は、信濃国松本に、松本藩士渡辺幸右衛門の5女として生まれた。(結婚前の姓は渡辺、明治にはいって多賀)幼い頃から勉強が好きで、いろいろな先生について、学んでいたらしい。父に連れられて松本から上京したのは、13歳(明治7年)のときである。春子は13歳から16歳(明治10年)まで「竹橋女学校」(正式名称は東京女子校、明治5-10年)に自宅から人力車で通った。文部省直轄の唯一、そして当時としては日本唯一の女学校であった。動物、植物、金石、生理、物理、化学、歴史、文法、作文、地理など、教えられる学科も種類が多く、入学者の質も高く予め家庭で相当の教育を受けた者が多かったという。この学校の特徴は英語学習に重点をおいたところであった。
春子の場合、他の学問は問題なかったが、英語は出来なかったので、他の人に追いつくまではライス先生の個人教授を受けたという。「大変進歩主義の学校」であり、「当時の元老議官とか其他高位高官または紳商などの令嬢」が多く、「月謝も高ければ、生徒の取扱いも良いという風」で「服装は一般に華美で、何処までも姫様的にできあがって」いたらしい。庶民には到底手が届かない学校ではあったが、この学校の生徒は実に勤勉であったようだ。「この女学校の良くなったのは偏に英語の先生ライスさんの教授法が上手で非常に勉強を奨励したから」であるといい、「英語教師が極度の奨励法を講ぜられた為か、兎に角学校を競争遊戯の場所の如く感じまして、常に楽しく愉快に勉強した有様を今から考えても夢のように思われます」というほど楽しかったようである。
ところが、西南戦争に伴う経費削減で竹橋女学校が廃校になり、16歳(明治10年)で創立直後の「お茶の水東京女子師範学校」(後のお茶の水女子大学)に竹橋女学校の学生のために英学科が設けられたのでこちらに入学したものの、英語は簡単すぎて、張り合いがなかった程度の内容であった。そのため、ウワイコップというアメリカ女性のもとで英語を学び、彼女の帰国とともにまた英学科に戻り、卒業する。これは事実上たった一回の竹橋女学校の卒業式であった。
これを卒業すると、春子は差し詰め行く学校がなかったため、「無拠嫌々ながら」17歳(明治11年)に「お茶の水東京女子師範学校」師範科本科を受験、入学している。「この学校はこの時分日本唯一の師範学校であった」からである。どうやら、他の学校も見に行ったようだが、「築地其他西洋人設立の学校を見ましたが何れも著しく程度が低いのでとても不適当」であったのだという。
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読んでいる本:『鳩山春子―我が自叙伝』(日本図書センター、1997)
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天才の育て方――『鳩山春子――わが自叙伝』を読む2 ― 2009年07月11日
『鳩山春子――わが自叙伝』の中で、個人的体験もおそらく作用していると思われ、興味深いのが、彼女の「天才の育て方」論である。子供を天才に育てる方法、ではなく、天才肌の子供を育てるに当たっての注意が述べられている。重要と思われる箇所を引用してみよう。
―――
「何れにしても幼い時代から、天才には殊に時分で娯楽をせしめそれに高尚なる趣味をもたせておかぬと、成人の後往々にして誤解から堕落するということになります。とにかく子供が天才肌の子供であるならば、それだけより多く、何かそのものに高尚な仕事、即ち娯楽を授けておかぬとその子供の成長の後が危険であります。
何故ならば、天才というものは鋭い頭脳を激しく使うから、永く頭脳を緊張してはおられない。だから毎日一定の義務の遂行に、一心不乱に頭脳を緊張して居たら、その後は気楽に、娯楽的に少し他のことをして楽しみながら心身を修養する必要があります。また必要がなくとも、天才ゆえ普通の人が五時間かかってする仕事も、その人は二時間位で仕上げて仕舞います。それで三時間という余裕が出来て参ります。これを如何にして使うかということが大きな問題です。
この三時間を善用することを、世の母親たるものが教えておかぬと、その者は人の迷惑も察せず、他人に対して自分勝手な振る舞いをすることになります。」(同書147ページ)
―――
鳩山春子の天才と娯楽についての考えは、夫が「天才肌」であり、激しい仕事の合間には娯楽を楽しむタイプだったことに感化されたものである。この夫・鳩山和夫は、文部省第一期留学生(コロンビア大学法学士、イエール大学法学博士)であり、日本初の法学博士であり、東京大学法学部で教鞭をとり(後、教授)、早稲田大学の総長にもなり、日本初の弁護士事務所を開設し後に衆議院議員議長にもなった人物である。そしておそらく、自身の二人の子供も父親に似た「天才肌」であったのだろう。長男は鳩山一郎、初代自民党総裁で日本国とソビエト社会主義共和国連邦との二国間の国交回復を成し遂げた内閣総理大臣であり、次男は鳩山秀夫、東京大学法学部教授で一時代の通説を築いた民法学者である。
彼女が子供に与えた娯楽は具体的には「碁を打つこと、将棋を指すこと、撞球(ビリヤード)」などであったらしく、他にも「あらゆる種類の善良にして心身の練習になる娯楽は、暇のある限り練習」していたという。「それで今日に至り、子供がどれ程それを善用しているか分かりません。妙なもので、人は遊ぶことでも余り何も出来ませんと、馬鹿みた様に他の目に映るものであります。一寸遊が出来ても、その人が怜悧に見えるものです。それも高尚なる娯楽は、幼い時分から練習しておけば、他の知力の増進と共に自然に上手になれるのでありますから、幼児より練習しておく方がよろしいのであります。斯くいろいろの遊をおぼえさせておけば、成人した後も下品な遊に没頭しなくなると思います。」(同書148ページ)
鳩山家が人材を輩出した基礎には、母親・春子の様々な教育的配慮があったのである。それにしても、「高尚な娯楽」を幼い頃から楽しんで覚えておけば、「下品な遊」に没頭しなくなる、というのは、体験に基づいているらしくもあり、天才肌の子供を育てている方の参考になるかもしれない(^^)尤も、特別な才能のある子供に限らず、娯楽と情報過多の現代であればこそ、こうした親の配慮は必要だとも思える。
読んだ本:『鳩山春子―我が自叙伝』(日本図書センター、1997)
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「何れにしても幼い時代から、天才には殊に時分で娯楽をせしめそれに高尚なる趣味をもたせておかぬと、成人の後往々にして誤解から堕落するということになります。とにかく子供が天才肌の子供であるならば、それだけより多く、何かそのものに高尚な仕事、即ち娯楽を授けておかぬとその子供の成長の後が危険であります。
何故ならば、天才というものは鋭い頭脳を激しく使うから、永く頭脳を緊張してはおられない。だから毎日一定の義務の遂行に、一心不乱に頭脳を緊張して居たら、その後は気楽に、娯楽的に少し他のことをして楽しみながら心身を修養する必要があります。また必要がなくとも、天才ゆえ普通の人が五時間かかってする仕事も、その人は二時間位で仕上げて仕舞います。それで三時間という余裕が出来て参ります。これを如何にして使うかということが大きな問題です。
この三時間を善用することを、世の母親たるものが教えておかぬと、その者は人の迷惑も察せず、他人に対して自分勝手な振る舞いをすることになります。」(同書147ページ)
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鳩山春子の天才と娯楽についての考えは、夫が「天才肌」であり、激しい仕事の合間には娯楽を楽しむタイプだったことに感化されたものである。この夫・鳩山和夫は、文部省第一期留学生(コロンビア大学法学士、イエール大学法学博士)であり、日本初の法学博士であり、東京大学法学部で教鞭をとり(後、教授)、早稲田大学の総長にもなり、日本初の弁護士事務所を開設し後に衆議院議員議長にもなった人物である。そしておそらく、自身の二人の子供も父親に似た「天才肌」であったのだろう。長男は鳩山一郎、初代自民党総裁で日本国とソビエト社会主義共和国連邦との二国間の国交回復を成し遂げた内閣総理大臣であり、次男は鳩山秀夫、東京大学法学部教授で一時代の通説を築いた民法学者である。
彼女が子供に与えた娯楽は具体的には「碁を打つこと、将棋を指すこと、撞球(ビリヤード)」などであったらしく、他にも「あらゆる種類の善良にして心身の練習になる娯楽は、暇のある限り練習」していたという。「それで今日に至り、子供がどれ程それを善用しているか分かりません。妙なもので、人は遊ぶことでも余り何も出来ませんと、馬鹿みた様に他の目に映るものであります。一寸遊が出来ても、その人が怜悧に見えるものです。それも高尚なる娯楽は、幼い時分から練習しておけば、他の知力の増進と共に自然に上手になれるのでありますから、幼児より練習しておく方がよろしいのであります。斯くいろいろの遊をおぼえさせておけば、成人した後も下品な遊に没頭しなくなると思います。」(同書148ページ)
鳩山家が人材を輩出した基礎には、母親・春子の様々な教育的配慮があったのである。それにしても、「高尚な娯楽」を幼い頃から楽しんで覚えておけば、「下品な遊」に没頭しなくなる、というのは、体験に基づいているらしくもあり、天才肌の子供を育てている方の参考になるかもしれない(^^)尤も、特別な才能のある子供に限らず、娯楽と情報過多の現代であればこそ、こうした親の配慮は必要だとも思える。
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