鳩山春子が見た竹橋女学校――『鳩山春子――わが自叙伝』を読む12009年07月10日

『鳩山春子―我が自叙伝』
 最近、明治の女性教育家の本を少しずつ読んでいる。その関連で、『鳩山春子――わが自叙伝』を読んだ。鳩山春子は政治家の鳩山由起夫、邦夫兄弟の曾祖母にあたる。明治初期の女性としては最高の教育(竹橋女学校、東京女子高等師範)を受け、また自身も母校である東京女子師範で教鞭をとり、共立女子大学(創立時は共立女子職業学校)を創立した、明治期の著名な教育家の一人である。

 いまの私の興味の対象は、明治初期の官立の女子教育機関の有り様、とくに日本初めての官立の女学校「竹橋女学校」についてである。日本の最初の官立女学校の当時の様子を知る貴重な手がかりの一つが、この本なのだ。

   春子は、信濃国松本に、松本藩士渡辺幸右衛門の5女として生まれた。(結婚前の姓は渡辺、明治にはいって多賀)幼い頃から勉強が好きで、いろいろな先生について、学んでいたらしい。父に連れられて松本から上京したのは、13歳(明治7年)のときである。春子は13歳から16歳(明治10年)まで「竹橋女学校」(正式名称は東京女子校、明治5-10年)に自宅から人力車で通った。文部省直轄の唯一、そして当時としては日本唯一の女学校であった。動物、植物、金石、生理、物理、化学、歴史、文法、作文、地理など、教えられる学科も種類が多く、入学者の質も高く予め家庭で相当の教育を受けた者が多かったという。この学校の特徴は英語学習に重点をおいたところであった。

 春子の場合、他の学問は問題なかったが、英語は出来なかったので、他の人に追いつくまではライス先生の個人教授を受けたという。「大変進歩主義の学校」であり、「当時の元老議官とか其他高位高官または紳商などの令嬢」が多く、「月謝も高ければ、生徒の取扱いも良いという風」で「服装は一般に華美で、何処までも姫様的にできあがって」いたらしい。庶民には到底手が届かない学校ではあったが、この学校の生徒は実に勤勉であったようだ。「この女学校の良くなったのは偏に英語の先生ライスさんの教授法が上手で非常に勉強を奨励したから」であるといい、「英語教師が極度の奨励法を講ぜられた為か、兎に角学校を競争遊戯の場所の如く感じまして、常に楽しく愉快に勉強した有様を今から考えても夢のように思われます」というほど楽しかったようである。

 ところが、西南戦争に伴う経費削減で竹橋女学校が廃校になり、16歳(明治10年)で創立直後の「お茶の水東京女子師範学校」(後のお茶の水女子大学)に竹橋女学校の学生のために英学科が設けられたのでこちらに入学したものの、英語は簡単すぎて、張り合いがなかった程度の内容であった。そのため、ウワイコップというアメリカ女性のもとで英語を学び、彼女の帰国とともにまた英学科に戻り、卒業する。これは事実上たった一回の竹橋女学校の卒業式であった。

 これを卒業すると、春子は差し詰め行く学校がなかったため、「無拠嫌々ながら」17歳(明治11年)に「お茶の水東京女子師範学校」師範科本科を受験、入学している。「この学校はこの時分日本唯一の師範学校であった」からである。どうやら、他の学校も見に行ったようだが、「築地其他西洋人設立の学校を見ましたが何れも著しく程度が低いのでとても不適当」であったのだという。

 こうしてみると、官立初の女学校「竹橋女学校(東京女学校)は、間違いなくお嬢様学校であったが、その教学内容はレベルが高く、学生のレベルも満足度も高かったようである。学校には問題がなかったにもかかわらず、西南戦争の経費削減のために閉校になったのは、当時の女子教育に対する認識そのものにも関係しているようにも思える。

読んでいる本:『鳩山春子―我が自叙伝』(日本図書センター、1997)

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