伝統と新知識――『増補改訂 中国の天文暦法』を読む22009年09月10日

 藪内清『増補改訂 中国の天文暦法』を読んだ。この本は、中国の暦の歴史を網羅している上に、各暦の計算法、そして他文化の関わりについて詳しいのが特徴だ。私にとっては、暦法の古代・中世・近代の東西文化交流の実情を知ることができたのが、大収穫だった。

 例えば、唐という時代は東西交流が活発で、ペルシア、インドの新知識が入ってきた。インドの暦法によった暦(麟徳暦、西暦666-728)が施行された時期もあり、暦を司る役所のトップである太史令がインドの天文学者だった時期もあるという。更に、玄宗帝のときにはインド天文書「九執暦」も勅命によって翻訳されている。このインド天文書には三角関数の正弦値にあたる表があり、天文学的にはギリシャ以来の法を伝えたものであったらしい。残念ながら唐代の中国天文学者は関心を示さなかったようである。

 元の世祖の時代にも、ペルシアを支配したイルハーン国を通じてイスラム天文学が体系的に輸入されたことがある。イスラムの天文学者を首都に駐在させ、イスラム暦法の方法で暦計算をする「回回欽天監」が別個に設置し、イスラム天文書も翻訳された。改暦もしたが長続きせず、結局、元代から明代にかけては、中国伝統暦を引き継いだ授時暦(明代は大統暦と改称)を中心に、イスラム系の回回暦はその不足を補う形で、運用された。

 考えてみれば、ルネサンス以前、イスラム天文学はウマル・ハイヤーム等優れた天文学者を輩出、世界でトップレベルであった。コペルニクスの研究にもイスラム天文学の影響が少なくないといわれている。しかし中国では、伝統的中国天文学を奉ずる中国学者とイスラム学者の間には交流が少なく、授時暦編纂時に郭守敬が天文儀器の改良にイスラム天文学を取り入れた程度の影響に留まったようだ。そのためにイスラム天文学の影響はあまり大きくなかったらしい。

 変化は明代末期、17世紀初頭に訪れる。イエズス会宣教師により、ヨーロッパ天文学がもたらされ、やがてヨーロッパ天文学のエンサイクロペディア『崇禎暦書』編纂に結びつくわけだが、このときも、保守派の妨害はすごかった。ただ、このときは明朝から清朝への王朝交代の時期にあたり、『崇禎暦書』編纂にあたったアダム・シャールの努力のおかげで『時憲暦』という名称で施行され、ついに清一代の暦法となる。1911年にグレゴリウス暦になるが、今も民間では時憲暦の置閏法に基づいた暦が「農暦」として使用されている。

 インド天文学も、イスラム天文学も、一時的とはいえ、国暦になったほど認められた時期があり、翻訳書もあった。新しい知識が良いものだと分かっているのに、中国天文学者は、なぜ新知識に学んで中国暦の改良に用いなかったのだろう。ヨーロッパ天文学がイスラムに受けた恩恵を考えると、中国の天文学者は伝統に固執するあまり、新しい知識を取り入れる大きなチャンスを幾度も逃してきたように思える。そのような姿勢は17世紀に輸入されたヨーロッパ天文学の影響が、非常に限定された理由ともなった。

読んでいる本:藪内清『中国の天文暦法』(平凡社、1990) 

↓応援クリックお願いします(^^)

 にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ

コメント

_ BIN★ ― 2009年09月12日 22時53分50秒

 ガリレオの天文学といい、暦といい、世界観と国の秩序にかかわる問題なので、既存の利益集団と衝突せざるをえないのでしょうね。よほど強力な君主、もしくは中央政府がないと、改良は生かせないように思います。
 つまり、天の出来事も、地上の思惑次第ということなんでしょうね。
 東西文化の交流が、暦法に波風を立てている間は、まだよいのでしょうけれど、イエズス会の目的が、中国のキリスト世界への包摂と法王庁へ跪拝にあるとしたら、別の反対理由もありえる気がしました。

_ ゆうみ→BIN★さん ― 2009年09月14日 15時08分48秒

イエズス会の目的ーーおっしゃるとおりですね。
イエズス会士はどうやらそのあたりの目的(中国のキリスト世界への包摂と法王庁へ跪拝)を隠していたところがあるようですね。目的が分かったら追い出されてしまう、という危機感もあって。反対派については、そこまでイエズス会側の意図を察知して反対した保守派がいた感じはしませんが…

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://youmei.asablo.jp/blog/2009/09/10/4571941/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。