日食予測-王朝交代の激動と『時憲暦』の施行2010年05月11日

 折しも李自成の反乱軍が北京に乱入、崇禎帝は自害を遂げ、明朝滅亡、その後、李自成軍を鎮圧した清軍が北京に入城する。王朝交代の激動は、果たして新暦施行には有利に働いた。

 清軍は北京を占領すると、内城の中国人をすべて外城に強制移住させ、その後に譜代の八旗兵を家族と共に移住させた。このとき唯一移動を免れたのが宣武門内のイエズス会の天主堂(南堂)である。シャールが上書して天文儀器や蔵書の移動の不利を申し立て、思いがけなく許可が下りたのだった。

 新暦施行にも、チャンスが訪れる。順治元年8月初1日の日食に際し、大統、回回、西洋の三種の暦法による日食推算競争が行われ、このときも西洋暦法だけが予測を適中させたのである。これを受けて、1644年(順治元年)、シャールは暦の編纂や天文観測、時報等を司る重要な役所・欽天監のトップ・監正に任命される。中国史上初めて、西洋人宣教師に欽天監が任されることになったのである。

 シャールは早速、『崇禎暦書』を再編、『西洋新法暦書』と改称し、1644年(順治2年)11月にこれを奏進、清朝の最高実力者・摂政王ドルゴンにより『時憲暦』と命名され、施行された。西洋暦法による新暦施行の快挙は、天主堂と貴重な天文儀器・書籍を守った気骨ある振る舞い、新しい権力者に信頼される誠実な人柄、そして日食を正確に予測した天文学者としての知識など、シャール個人の努力と資質に負うところが大きかったようである。


参考:

ウィキペディア

藤井旭『日食観測ガイド』学研

平川祐弘『マッテオ・リッチ伝』1-3巻 東洋文庫

ブーヴェ著 後藤末雄 矢沢利彦校注『康煕帝伝』東洋文庫

後藤末雄著 矢沢利彦校訂『中国思想のフランス東漸』1-2巻 東洋文庫

藪内清『増補改訂 中国の天文暦法』

宮崎市定『中国文明の歴史 9清帝国の繁栄』

閻祟年『正統清朝十二帝』(中文)

 




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