家族で宇治ウォーキング2011年04月10日

 京都宇治へ電車で出かけた。花見客で混んでいると聞いていたので、公共交通機関を使うことにしたのだ。この季節は爽やかで緑も花も美しく、ウォーキングには最適だ。体力が戻っていないので、久しぶりの遠出にはためらいもあったのだが、いざ出かけてみると、とても楽しかった。

 宇治川の畔は桜が満開で、花見客がいっぱいだった。畔を散歩したあとは、遊覧船に乗って河岸を眺め、その後は平等院へ行った。敷地内に立派な美術館「平等院ミュージアム鳳翔館」があり、本物の梵鐘や飛天が展示され、更に建築された当時の極彩色の建物や金色に光る仏像を再現したCGが紹介されていた。極彩色と黄金色も眩しい映像を見た美術館見学のあと、いよいよ本堂を見学した。今回は、台座から外して本堂から持ち出して修繕したという阿弥陀如来を身近で見ることができた。よくもこんなに大きいものを扉から運び出したものだ。かつては色鮮やかだったのが、現在は色褪めて私の目の前にあった。千年とはなんと長い年月であろうか。

 栄誉栄華を極めた藤原氏が当時の建築技術の粋をこらして作ったとはいえ、木造の建物と仏像が、火災にも戦災にも遭わず、天災からも逃れて、今も威容を留めているのは、奇跡的だと思う。宇治川の橋はたびたび流されたというから、ここが水害に無縁であったはずはない。
寺院を大事にする人々の愛護があってこそ、であろう。

 この日の万歩計は一万六千歩、帰路はさすがにぐったり。でも気分は爽やかである。体調のこともあって、外出を控えていたけれど、少し自信もついた。これを機に体力回復に努めようと思う。

宇治川の桜


塩野七生『わが友マキアヴェッリ』を読む2011年04月19日

 塩野七生『わが友マキアヴェッリ-フィレンツェ興亡』を読んでいる。実は欧米社会におけるチェーザレ・ボルジアの存在の大きさがずっと謎だった。『君主論』によって、彼が「歴史上の人物から理論上の象徴になった」というのは分かっていたけれど、果たしてチェーザレ・ボルジアはそれほどの人物だったのか、マキアヴェッリは彼のどこに理想の君主を見いだしたのか、塩野七生『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』を読んだときには、まだ分からなかった。彼の冷酷さや豊かな才能、周囲を彩るスキャンダル、そして栄華とあっけない衰退はあまりにもドラマティックで、こちらに気を取られ、本質を見極められなかったせいだと思う。

でも合わせて『わが友マキアヴェッリ』を読むと、マキアヴェッリのフィレンツェの書記官としての働きぶり、フィレンツェの次席外交官としてチェーザレ・ボルジアと直接接した経緯、当時のフィレンツェの国際的な立場などが分かる。チェーザレ・ボルジアの卓越した政治能力にイタリアを統一しうる君主の理想を見いだしたマキアヴェッリがようやく理解できた。長年の疑問がようやく解けたような気がしている。

読んだ本:塩野七生『我が友マキアヴェッリ』(新潮文庫)


お茶のお稽古2011年04月20日

 久しぶりにお茶のお稽古に行った。炉のお点前がようやく身についてきたというのに、来月からは風炉になると聞いて少しばかり憂鬱である。友人によれば風炉は柄杓使いなど、見せ所がいくつもあるという。お茶に向いている人はそういう部分が好きなのだと思う。

正直なところ、私は自分でお点前をするよりも、上のお点前を見たり、友人が点てた美味しいお抹茶をいただいたりするほうが好きだ。元来が好奇心旺盛で食いしん坊だから仕方が無い。

お茶をやってよかったと思うのは、今まで見えていなかった日本の伝統文化に近づけたことである。客の身分やシチュエーションに合わせた数々のお点前、畳の歩き方、障子の開け閉め、お茶事の作法、水屋の仕事など…いろいろなところに伝統的な日本の暮らしや日本人の価値観が潜んでいる。そういうものを発見するととっても楽しい。これが私の茶道の楽しみである。

でも一方で、経済的にも時間的にも精神的にも余裕があり、文化への造詣が深い者同士が趣向を凝らして人をもてなし、互いの知識や宝物を披露する、という実に贅沢な趣味人の世界でもあると思う。そういえば、中国の「茶芸」の世界でも、「紫砂茶壺」の職人を呼んで話を聞いたり、お茶についてうんちくを語ったりこういう趣味人の世界、のようなものが復活していると聞いた。豊かなところに、趣味人が生まれ、その趣味人が文化を支えていく、そんな構図が頭に浮かんだ。


三つの希望2011年04月30日

 ここ数日の中国の教育関連の記事に出てくる言葉に「三点希望」(三つの希望)がある。これはつい先日(4月24日)、胡錦濤主席が母校の精華大学100周年大会で全国の青年に向けて表明した教育思想である。三つの内訳は、一つ目は学習に打ち込むこと、二つ目は創造性を育むこと、三つ目は奉献を厭わないこと、である。青年を余計に刺激しないように慎重に言葉を選んで青年の学習意欲を鼓舞しつつ、実は社会主義的な人間像を提示し、国への報恩、滅私奉公を促す内容となっている。恐らくこれからの中国の教育方針に度々登場するキーワードになるのではないか、と思う。