中国の語文教科書が2014年秋ダイエットに失敗したわけ2015年03月12日

 2014年の夏も終わる頃、中国の語文教科書(日本の国語にあたる)に関わる、今の中国の教育文化と政治の関係を考える上で、実に興味深い、そして不可思議な出来事が起きた。

経緯を追ってみよう。2014年8月26日、「東方網」に「一年前期『語文』の漢詩が全て削除、一部保護者より“減らしすぎでは”の声」[i]というタイトルの記事が載った。2014年秋の新学期から使われる新版の小学一年前期の語文教科書が、旧版と比べ大幅に薄くなり、元々あった漢詩8首が全て削られたのに気づいた一部の保護者から、漢詩の一つ二つくらいは残しても良かったのでは、という不満が出ていると述べ、削除されたテキストの詳細と一部保護者の意見を採り上げている。もちろん、上海の教科書が薄くなったのは、入学直後の児童の負担を軽くする目的で、上海市教育委員会が慎重な討議を経て行った修訂であるとも伝えている。それでも全体として「減らしすぎ」と述べる保護者の側に立っている印象だ。

(新版の江蘇教育出版社の『語文』小学一年前期の目次は以下の通り。前半はピンインの学習で、後半にテキストの学習という構成になっている。実は中華人民共和国においては、建国から1990年代前半までは、文革期の特殊な教材を除けば、小学校の教科書には古典教材は皆無であった。1990年代後半に古典教材を小学校の語文教科書に試験導入したのは上海である。)


上海の語文教科書・小学1年前期・目次1

上海の語文教科書・小学1年前期・目次2

入学直後の児童は学校に慣れるだけで十分忙しい。前期の学習負担を少し軽くして、後期を充実させるというのは、理解できる修訂理由である。一方、教育熱心な親が教科書のレベル低下を心配する気持ちも分かる。記事が出た時点では、両者の意見に少々の隔たりがある、というだけであったと思う。記事に登場する保護者も、子どもの負担を減らすという上海教育委員会の立場に全面的に反対ではなく、教材の削減幅に対して問題を投げかけていた。

ところが、この記事があちこちに転載される中で、議論の焦点がずれていく。いつの間にか「漢詩は削除するべきか」の議論になり、それが9月2日の人民網の記事「負担を減らすのか伝統文化を減らすのか」[ii]に象徴される「中国らしさを減らすのに断固反対する」的流れになった。注目したいのはこの時点で現政権の「中国らしさ重視」「伝統文化重視」というイデオロギー的価値観が付け加わっている事実である。最終的には9月9日、教師節の前日に北京師範大学を訪問した習近平主席の発言「古詩や散文を教科書から削除するのに私は大反対だ。中国らしさを消してしまうのは実に悲しいことだ。学生の頭の中に古典を埋め込んでこそ、中華民族の基礎が作られる」[iii]がとどめを刺して、「上海は伝統文化を重視する主流に外れた、軽率な教科書修訂を行った」という罪が確定した形になった。

更にこの一連の議論と習近平の発言を受けて、迅速に反応したのが北京だった。[iv]北京師範大学語文教育研究所所長の任翔は、習近平の観点を激賞した上で、来年度9月から北京市義務教育の語文教材の古典教材を現在の6~8篇から22篇に増やすと確約、小学校段階で学ぶ漢詩を100篇以上にすると述べた。2011年版「義務教育語文課程標準」推薦の漢詩75篇を優に超えている!

それにしても…元々は子どもの学習の負担を減らそうとしたのが、却って子どもの負担を大幅に増やしてしまったのは皮肉な結果としか言いようがない。ダイエットに失敗してリバウンドしてしまったようなものだ。

論点をずらして世論を味方につけたり、政治的イデオロギーと結びつけて反駁できなくしたり…こうした世論操作が今の時代あちこちに蔓延っている。こうした手法を見抜く力が求められる時代が日本にもすでに訪れている、かもしれない。


[i]「一年上学期《文》古」(東方早報2014826日・中国語)http://www.dfdaily.com/html/3/2014/8/26/1179747.shtml

[ii]上海小学除古:负还是减传统文化(人民网2014902日・中国語)http://renwu.people.com.cn/n/2014/0902/c357069-25585931.html

[iii]近平“好老”:教第一位是“道” 」(201499日・中国語http://news.xinhuanet.com/politics/2014-09/09/c_1112412661.htm

[iv]「北大学生披露制作“大大”标语故事() 」(中国新聞网2014910日・中国語)http://www.chinanews.com/gn/2014/09-10/6579176.shtml




中国で環境問題を問う難しさ--柴静の「穹頂之下」に思う2015年03月23日

このところ、2015228日に公表された柴静の「穹頂之下」が気になっている。いろいろな見方が登場するなかで、柴静に対する自分の見方に偏りがあるように思えてきた。この辺りで経緯と考えを整理しておこうと思う。

私が柴静に興味を持ったのは数年前、この「穹頂之下」を発表するよりも前に、彼女がメインキャスターを務める番組「看見」「新聞調査」を見たのがきっかけだった。この時は柴静自身ではなく、番組が取り上げる事件や出来事の方に注目していたのだけれど、彼女が2013年に出版した『看見』を、中国で話題になっている本があると知って手に取った時、表紙の写真を見て遅ればせながら、気がついた。以来、体制内のジャーナリストの中では気骨がある人だと、好意的に見てきた。

柴静の報道番組は普通人にはとても立ち入れない危険なところ、奥地、政府機関、会社の上層部、闇社会の末端に潜入し、真相を知る関係者に鋭い質問を投げかけるのが見どころだ。彼女を一躍有名にしたのはSARSの取材だが、他のもなかなかすごい。例えば「新聞調査」の中でも、中国音楽学院の不正入試を暴いた「運命の琴線」では、実力と実績がありながら不合格となった受験者と家族、試験関係者や専門家へのインタビューや調査を通して、大学入試「高考」の不正の有り様を暴いてみせた。(中国国内では放送禁止になったが、今でもYouTubeでみることができる。)もちろん、そんな取材ばかりではないのだけれど、印象深い取材が他にもいくつもある。

彼女が201310月にアメリカで出産、これを芸能誌に暴露されマスコミに叩かれ、ファンの顰蹙を買ってしまった経緯もドキドキして見守ってきた。批判する側は「国を愛しているんじゃなかったのか?裏切り者」的な文脈で彼女を責め立てた。

この後、しばらく柴静の話題が出なくなった。残念に思っていたところ、20144月、日本で「看見」の訳書が出版された。冒頭にはインタビューが載っていて、柴静の健在ぶりが分かり嬉しくなった。

ところが2014年秋、柴静が2014年初めには中央電子台を離れていたという報道を見た。2013年夏におきた担当番組の放送禁止が打撃とかアメリカでの出産を攻撃されたせい等と憶測が飛び交った。この時は柴静は沈黙を守ったので、本当のところはわからなかった。

沈黙が破られたのは、2015228日である。人民網と優酷で公開された大気汚染問題をレポートした「穹頂之下」で、彼女が私費を投じ一年をかけて大気汚染問題に取り組んできたこと、それが子どもの腫瘍がきっかけだったこと、また子どもの看病のために辞職したこと、などが明らかにされた。柴静が活動を休止していたように見えた一年間の中身がここで明らかにされたのであった。曾て柴静の評判を地に落とすきっかけとなった出産が、このプレゼンにより全く別の意味に変質した。柴静にとってはいわば名誉回復の場でもあったといえるだろう。

微博で「柴静看見」をフォローしていたおかげで、私は1時間40分の動画も人民網のインタビュー記事も公開当日に見た。一番始めに見たときはとても感動したし、感心もして、興奮もした。今振り返ると、柴静の復活を喜ぶファン意識も影響していた。ただ、これだけの取材と公表がCCTVを辞めたフリーの記者にできるのか、疑問に思ったのも確かである。

中国国内の反応を見たくて関連の記事や書き込みとコメントを探した。賞賛の声に混じって、疑問を呈する声、反発の声が登場し、標的にされた鉄鋼石炭関連産業関連者からの批判、次には彼女の私生活批判が始まった。デマや偽文書が飛び交う様子もリアルタイムで見ているとなかなかスリリングだった。現政権の黙認、政府機関がバックにいる等の分析にはたぶんそうなのだろう、とも思った。ところがたった6日で密命により封殺された。中国国内で動画が見られなくなり、公表直後に溢れた賞賛記事なども姿を消してしまった。見事なほどあっという間の消火活動だった。

こうした消火活動を見て、言論統制は怖いと思った。環境問題は政界や産業界と分かち難く繋がっている。例え一部政府機関の支持があっても、大気汚染がいくら深刻でも、強い力が働けば、情報は如何様にも制御出来るのである。でも…問題は情報は制御できても肝心の大気汚染は制御できていないことである。

中国の大気汚染は相当深刻である。急速な経済発展は、過去には簡単に手に入った人間の生存に必要なもの「空気」「食品」「水」「治安」の安全を、とてつもなく高価で手に入りにくいものにしてしまった。国の面子だって危険にさらしている。先日、アメリカから中国に留学する人が減少しているという記事を読んだが、その理由の一つは大気汚染だった。

幸い、柴静たちの活動はいまも続いているようだ。微博「柴静看見」ではその片鱗を見ることが出来る。「大気汚染に宣戦布告する、目的を達するまでは闘うのを絶対にやめない」などの書き込みを見ると、金庸の武侠小説に登場する英雄好漢的な侠気が透けて見えるようである。しかし一方で当初の勢いは影を潜めてしまった。

中国の大気汚染解決に向けて光が射したように感じたのは、ほんの一瞬の幻想でしかなかったのか?柴静のプレゼンは権力闘争に利用されたに過ぎなかったのか?リアルタイムで変化を追っていても、情報が錯綜しているなかでの分析は困難である。冷静に事実を積み上げて分析したくても、情報を消されてしまうとそれも難しい。

少なくとも、今回、柴静のプレゼンと封殺までの経過を見守った経験は、自身の見識不足を実感し、中国の情報統制事情を理解する上で貴重な勉強の機会になった。2015.3.26改訂