旧暦と農歴 ― 2012年01月27日
日本の「天保暦」は土台はもちろん中国暦で、これに明末中国入りしたキリスト教宣教師マテオ・リッチ等による中国語の天文書が日本にも極秘に輸入され西洋天文学の知識が導入されたと言われる。一方、中国の「時憲暦」はまさにそのキリスト教宣教師アダム・シャール等と明の官僚徐光啓等の血と汗と協力の結晶で中国初の西洋暦法である。日本では1872年(明治5年)、朝鮮半島では1896年、中国では1912年にグレゴリオ暦に改定された。
今、中国、台湾、韓国他、農暦を使う国ではお正月休みの真っ最中である。日本に住んでいると、ぴんと来ないけれど、春節を迎える度にこの暦が生きていることを実感する。
日食予測-皇帝の寵愛と凋落と西洋暦法の勝利 ― 2010年05月11日
清朝・順治帝の時代、シャールと中国全土の宣教師達は安穏な日々を送った。これはシャールが最初は摂政王・ドルゴン、後に順治帝とその実母・孝荘太后の絶大なる信頼を勝ち得たことが大きい。改暦は実質上摂政王ドルゴンの治世下で行われたが、1650年(順治7年)に13歳で親政した順治帝は、シャールを師と仰ぎ、親しみやすい人柄と深い教養を愛した。その寵愛ゆえに、シャールは数多くの爵位、「通玄教師」という号を授けられ、西洋暦法もその恩恵に浴した。
ところが、1661年(順治18年)、順治帝が崩御し、第三子・玄燁(8歳)が康煕帝として即位すると、保守的な大臣が摂政となり、宣教師達に対する風当たりがにわかに強くなった。康煕3年、中国人で中国古来の暦法の研究家と称する楊光先が、暦の些細な問題を指摘し、更に順治11年に逝去した栄親王の葬儀の日取りがたまたま凶に当たっていたのを申し立て、シャール以下の宣教師等が投獄された。ベルギー出身のイエズス会士、フェルディナント・フェルビーストは、中風で言葉が上手く話せないシャールに代わって弁明に努めたが、審議を担当する官僚には科学的知識がなく、カトリックを邪教と見る保守派の集まりだったから、ほぼ徒労に終わった。康煕4年3月、シャールは死刑の中でも最も重い凌遅斬刑、他の宣教師は杖刑の判決を受ける。
この危急の際、彼らを救ったのは翌月北京で起きた大地震だった。中国の伝統的な考え方に照らせば、天災は天の怒りである。大赦が行われ宣教師は釈放、また判決に怒って大臣を叱りつけた孝荘太后のおかげで、シャールは死刑を免じられ、教宅で軟禁生活を送り、75歳で失意の内に病死した。
シャール等の失脚によって、欽天監の実権は楊光先等保守派が握るところとなる。しかし、時がたつと、楊等の暦算による予測が実際の天文現象と合致しないことが明らかとなった。
康煕帝が親政すると、フェルビーストは楊光先の暦の計算が間違っている旨を上書する。康煕帝は両者の言い分を確かめた上で、1669年(康煕8年)正月に起こるはずの日食についてその時刻を計算させ、当日宮廷に官吏を集めて日食を待った。果たして、フェルビーストが予測した時刻通りに日食が始まった。西洋暦法が勝利した瞬間であった。まもなく、シャールも名誉回復された。
中国で日食予測が確率の世界だった時代は、これで終わりを告げた。時憲暦の地位はその後ゆらぐことはなかった。なお、民間では今でも、時憲暦の置閏法に基づいた暦が「農暦」の名称で使用されている。
参考:
ウィキペディア
藤井旭『日食観測ガイド』学研
平川祐弘『マッテオ・リッチ伝』1-3巻 東洋文庫
後藤末雄著 矢沢利彦校訂『中国思想のフランス東漸』1-2巻 東洋文庫
藪内清『増補改訂 中国の天文暦法』
宮崎市定『中国文明の歴史 9清帝国の繁栄』
閻祟年『正統清朝十二帝』(中文)
日食予測-王朝交代の激動と『時憲暦』の施行 ― 2010年05月11日
折しも李自成の反乱軍が北京に乱入、崇禎帝は自害を遂げ、明朝滅亡、その後、李自成軍を鎮圧した清軍が北京に入城する。王朝交代の激動は、果たして新暦施行には有利に働いた。
清軍は北京を占領すると、内城の中国人をすべて外城に強制移住させ、その後に譜代の八旗兵を家族と共に移住させた。このとき唯一移動を免れたのが宣武門内のイエズス会の天主堂(南堂)である。シャールが上書して天文儀器や蔵書の移動の不利を申し立て、思いがけなく許可が下りたのだった。
新暦施行にも、チャンスが訪れる。順治元年8月初1日の日食に際し、大統、回回、西洋の三種の暦法による日食推算競争が行われ、このときも西洋暦法だけが予測を適中させたのである。これを受けて、1644年(順治元年)、シャールは暦の編纂や天文観測、時報等を司る重要な役所・欽天監のトップ・監正に任命される。中国史上初めて、西洋人宣教師に欽天監が任されることになったのである。
シャールは早速、『崇禎暦書』を再編、『西洋新法暦書』と改称し、1644年(順治2年)11月にこれを奏進、清朝の最高実力者・摂政王ドルゴンにより『時憲暦』と命名され、施行された。西洋暦法による新暦施行の快挙は、天主堂と貴重な天文儀器・書籍を守った気骨ある振る舞い、新しい権力者に信頼される誠実な人柄、そして日食を正確に予測した天文学者としての知識など、シャール個人の努力と資質に負うところが大きかったようである。
ウィキペディア 藤井旭『日食観測ガイド』学研 平川祐弘『マッテオ・リッチ伝』1-3巻 東洋文庫 後藤末雄著 矢沢利彦校訂『中国思想のフランス東漸』1-2巻 東洋文庫 藪内清『増補改訂 中国の天文暦法』 宮崎市定『中国文明の歴史 9清帝国の繁栄』 閻祟年『正統清朝十二帝』(中文)
参考:
日食予測-確率の世界からの脱却 ― 2010年05月11日
東アジアの場合、日食予測に大変革が起きたのは16世紀末、明代末期である。当時、中国暦法よりも優位にあった西洋暦法が、イエズス会宣教師マテオ・リッチ等によってもたらされたことによる。しかし、これが中国に根付くためには、宣教師等の献身的な努力が必要だった。
リッチは、中国でカトリックを宣教するために、西洋の天文学や数学の知識が有用と悟り、徐光啓や李之藻等信徒で官僚でもある優秀な人物の協力を得て、西洋の自然科学書の漢訳に取り組んだ。この努力が功を奏して、次第に西洋自然科学、西洋の暦算の優秀性が知られるようになる。
『明史』によれば、西洋暦法が改暦に採用されたきっかけは次のようなものだった。崇禎帝が日食予測を外した天文官を、慣例に則って処罰しようとしたとき、徐光啓が「天文官は郭守敬の暦法で予測したのです。元代においても日食があるべき時に日食にならないことがありました。天文官が誤るのも無理のないことです。暦法が長く使われて誤差が生じていると聞いております。暦法を修正するべきです」と改暦を進言したのである。改暦の決め手は1629年(崇禎2年)5月に大統、回回、西洋の三種の暦法で競われた日食予測競争で、西洋暦法のみが予測を適中させたことだった。当初予測を外した天文官は日食予測競争に負けたとはいえ、徐光啓のおかげで処罰を免れたのだから、感謝したことだろう。同年7月、当時は礼部左侍郎だった徐光啓に暦法改修の勅命が下る。
徐光啓は暦法改修については「彼方の材質を鎔して、大統の型模に入れん」、要するに、西洋天文学の成果を伝統的な中国暦法の枠内に取り入れる、という考えで臨んだ。参画したイエズス会士は、リッチ没後の中国布教総監督ニコラス・ロンゴバルディ、スイス出身でガリレオやケプラーとも親交があった医学者で天文学にも造詣が深かったジョアン・テレンス、ジャック・ロー、ドイツ出身のアダム・シャール、このときイエズス会士が採用したのは、天動説と地動説との折衷ともいえるティコ・ブラーエの宇宙体系であった 『崇禎暦書』の編纂事業は、当初順調に進んだ。徐光啓がイエズス会士により訳編された暦書に目を通し、文章を訂正するという実質的な仕事に加え、徐々に高まる保守派勢力を完全に押さえ込んだからである。しかし暦法改修は大規模で長期間に渡ったため、多くの仲間が志し半ばで死去することになる。特に徐光啓の死去は大打撃となった。保守派は勢いを盛り返し、シャールが独力で抵抗する事態となってしまう。
参考:
ウィキペディア
藤井旭『日食観測ガイド』学研
平川祐弘『マッテオ・リッチ伝』1-3巻 東洋文庫
後藤末雄著 矢沢利彦校訂『中国思想のフランス東漸』1-2巻 東洋文庫
藪内清『増補改訂 中国の天文暦法』
宮崎市定『中国文明の歴史 9清帝国の繁栄』
閻祟年『正統清朝十二帝』(中文)
日食予測-確率の世界だった頃 ― 2010年05月11日
日食は今や一秒以内の誤差で正確に予測できると聞いて驚いた。確かに生まれてこのかた、「日食の確率は○%」というのは聞いたことがない。天気予報は「雨の確率は10%」、地震予報は「30年の間に大地震が起こる確率は70%」、まだまだ確率の世界であるが、日食は食計算で食の始まりから終わりまで、分秒単位で予測することができる。現在のところ、未来の地球の現象をこれほど正確に予測できるのは、天文学だけの特権ではないだろうか。天気予報や地震予報も、食計算並みに予測出来るようになったら、どんなに素晴らしいだろう。
実際のところ、日食予測も昔は確率の世界だった。日食の予測が重視された中国には、古くから天文観測や時間の管理を行い、暦日の吉凶や国家の安危を占う役所があった。ここに奉職する天文官は、食計算で日食の日時をはじきだし、皇帝に奏上するのが決まりだったが、時々外れた。予測を外した天文官は処罰されるのが通例だったようだ。『尚書』には紀元前2137年10月22日と推定される夏の仲康日食の際、天文官が泥酔して空の観測と日食の予報を怠り斬首された記録がある。これほど重い処罰は例外としても、暦法は国家の大典という意識がある中国においては、予測を誤った天文官が処罰されるのは珍しいことではなかった。ここで問題なのは、日食予測の誤りの原因が、暦法自体にあったことだ。
歴史的に見て、中国で日食予報の方法が、知られるようになるのは、『漢書』「律暦志」にある「三統暦」からである。これは食周期を利用したものであったから、十分な予報は行えなかった。数学的に食予報が行われるのは、楊偉の撰による「景初暦」(三国時代237-451)が最初である。その後、食計算法は、隋から唐にかけて進歩を遂げる。隋代には太陽の位置の計算と日食の太陽視差が考慮されるようになり、唐代の仏僧・一行の編纂による「大衍暦」(唐729-761)では食計算に食の地域的時間差が導入され、徐昴が編纂した「宣明暦」(唐822-892)で更に改良整備された。宣明暦を含む古代・中世の食計算では日食が起こることは予測できても、特定の場所で起こることまでは確定できなかったが、従来の食計算と比べれば格段の進歩だった。但し、中国暦における食計算はこの唐代でほぼ極点に達し、その後はさしたる進歩はなかったのである。その後も中国暦は改暦を重ねるが、古今の良暦と称された元代の「授時暦」(郭守敬や王恂、許衡の編纂、1281年施行)も、それを少々改訂した明一代の暦「大統暦」も食計算では唐代に及ばなかった。
確率の世界だった日食予測は、それを担当する天文官にとっては当たれば無事に任務を遂行できたことになり、外れれば処罰が待っている、いわばロシアンルーレットのようなものであった。
参考:
ウィキペディア
藤井旭『日食観測ガイド』学研
平川祐弘『マッテオ・リッチ伝』1-3巻 東洋文庫
後藤末雄著 矢沢利彦校訂『中国思想のフランス東漸』1-2巻 東洋文庫
藪内清『増補改訂 中国の天文暦法』
宮崎市定『中国文明の歴史 9清帝国の繁栄』
閻祟年『正統清朝十二帝』(中文)
中国で日食予報が重視された理由――『増補改訂 中国の天文暦法』を読む3 ― 2009年09月20日
甲骨文の記事を除いた最も旧いものは、『尚書』という書物に載っている紀元前1948年の日蝕であるらしい。以来、1000回を超える皆既日蝕・金環日蝕・部分日蝕の記録が、歴代王朝の正史の「歴志」「律歴志」 という巻に記述されてきた。中国の天体観測の記録は質、量共に群を抜いている。
これほど長期間にわたる記録が残されたのは、世界的に見て希有なことであるらしい。中国以外では、権力者や王朝の交代があると、天体観測も中断するのが常だった。例えばイスラム天文学は、一時、中国、ヨーロッパを凌駕したが、国立、私立天文台を含め、観測が継続されたのは長くても数十年単位でしかない。しかしながら、中国では古くから天文観測や時間の管理を行い、暦日の吉凶や国家の安危を占う機関(名称は時代によって異なる「大史監」「太史院」「欽天監」等。国立天文台に相当する。)が設けられ、王朝が交代しても、支配者階級の民族が替わっても、独特の思想に基づいて天文学と暦学は国学として重視され続けた。
中でも、日蝕は、自然災害の予兆、クーデター等による政権簒奪の予兆と考えられたため、日蝕を予測することが重視され、日蝕のときは、皇帝は身を慎み、国家行事などを行わないよう、備える必要があった。皇帝に仕える天文学者にとって、日蝕予報は重要な仕事であった。
読んでいる本:藪内清『中国の天文暦法』(平凡社、1990)
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伝統と新知識――『増補改訂 中国の天文暦法』を読む2 ― 2009年09月10日
例えば、唐という時代は東西交流が活発で、ペルシア、インドの新知識が入ってきた。インドの暦法によった暦(麟徳暦、西暦666-728)が施行された時期もあり、暦を司る役所のトップである太史令がインドの天文学者だった時期もあるという。更に、玄宗帝のときにはインド天文書「九執暦」も勅命によって翻訳されている。このインド天文書には三角関数の正弦値にあたる表があり、天文学的にはギリシャ以来の法を伝えたものであったらしい。残念ながら唐代の中国天文学者は関心を示さなかったようである。
元の世祖の時代にも、ペルシアを支配したイルハーン国を通じてイスラム天文学が体系的に輸入されたことがある。イスラムの天文学者を首都に駐在させ、イスラム暦法の方法で暦計算をする「回回欽天監」が別個に設置し、イスラム天文書も翻訳された。改暦もしたが長続きせず、結局、元代から明代にかけては、中国伝統暦を引き継いだ授時暦(明代は大統暦と改称)を中心に、イスラム系の回回暦はその不足を補う形で、運用された。
考えてみれば、ルネサンス以前、イスラム天文学はウマル・ハイヤーム等優れた天文学者を輩出、世界でトップレベルであった。コペルニクスの研究にもイスラム天文学の影響が少なくないといわれている。しかし中国では、伝統的中国天文学を奉ずる中国学者とイスラム学者の間には交流が少なく、授時暦編纂時に郭守敬が天文儀器の改良にイスラム天文学を取り入れた程度の影響に留まったようだ。そのためにイスラム天文学の影響はあまり大きくなかったらしい。
変化は明代末期、17世紀初頭に訪れる。イエズス会宣教師により、ヨーロッパ天文学がもたらされ、やがてヨーロッパ天文学のエンサイクロペディア『崇禎暦書』編纂に結びつくわけだが、このときも、保守派の妨害はすごかった。ただ、このときは明朝から清朝への王朝交代の時期にあたり、『崇禎暦書』編纂にあたったアダム・シャールの努力のおかげで『時憲暦』という名称で施行され、ついに清一代の暦法となる。1911年にグレゴリウス暦になるが、今も民間では時憲暦の置閏法に基づいた暦が「農暦」として使用されている。
インド天文学も、イスラム天文学も、一時的とはいえ、国暦になったほど認められた時期があり、翻訳書もあった。新しい知識が良いものだと分かっているのに、中国天文学者は、なぜ新知識に学んで中国暦の改良に用いなかったのだろう。ヨーロッパ天文学がイスラムに受けた恩恵を考えると、中国の天文学者は伝統に固執するあまり、新しい知識を取り入れる大きなチャンスを幾度も逃してきたように思える。そのような姿勢は17世紀に輸入されたヨーロッパ天文学の影響が、非常に限定された理由ともなった。
読んでいる本:藪内清『中国の天文暦法』(平凡社、1990)
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時間によって克服される距離――藪内清『中国の天文暦法』を読む ― 2009年08月11日
漢代にギリシア、唐代にインドの天文学の影響を受けながら発達し、元代には世祖の時代にペルシアを支配したイルハーン国を通じてイスラム系の西方天文学が大量に伝わり、そして明朝の末から清朝の初めにかけてヨーロッパ天文学がイエズス会の宣教師を通じて伝わった。
遙かなるギリシア、インド、ペルシア、ヨーロッパから中国へ、通信手段も交通手段も限られた時代、知識や情報や様々な品々が、いろいろな人々を経て、時間をかけて、途方もない距離を旅して伝わっていったのだと思うと、感慨深い。
読んでいる本:藪内清『中国の天文暦法』(平凡社、1990)
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中国の天文史と西欧の接点 ― 2009年08月05日
中国にいる間も、ドイツ他の天文学者と文通を続けており、それもあって、明末に編纂されたこの暦書はドイツの暦算学の大きな影響を受けているという。ヨーロッパの天文学が飛躍的に発展したこの時期に、ガリレオを直接知る人物が、極東の中国北京で新しい暦書を編纂していたのだ。天文学に造詣が深く、武器などにも明るく、中国語をマスターする意欲もある…といった人物は、ヨーロッパ広しといえども、非常に限られていたはずだ。それほどの人材を次々に中国に送り込んだイエズス会の本気が感じられる。
1600年代といえば、日本は江戸時代に入ったばかり、当の中国も明から清へ…国が大混乱している時期である。その混乱の中に多くの宣教師が中国で過ごしながら、宣教の機会を待っていたというのもすごいことのような気がする。
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