中国・清末、アメリカ聖公会の中国伝道2009年06月03日

 日本・明治初期に、立教大学や聖路加病院等を設立したアメリカ聖公会は、ほぼ同じ時期に中国でも聖約翰大学(St. John's University)等を設立している。当初、日本伝道と中国伝道は同じ中国伝道教区の監督下に置かれ、聖公会の宣教師も日本と中国を往復していたらしい。当時、聖公会が力を入れていたのが、教育伝道と医療伝道であった。

 元来、アメリカ聖公会が目指したのは、中国伝道であった。矢崎 健一『チャニング・ムーア・ウィリアムズ』によれば、アメリカ聖公会の中国伝道は、ニューヨークのゼネラル聖公会神学校の卒業生ライド(A.F.Lyde)の主唱により、同校卒業生ロックウッド(Henry Lockwood 中国語名:駱武)とバージニア聖公会神学校を1832年に卒業したハンセン(Francis R.Hanson 中国語名:韓森)の二名が派遣されたことに始まる。彼等は1835年(道光15年)に広東に行ったが、当時の中国は外国人の宗教活動を禁じていた為、イギリス領のシンガポールへ、更に将来の中国大陸伝道に向けて中国語を身につける為にオランダ領バタビヤ(現在のインドネシア・ジャカルタ)へ渡ったが、両名とも病を得て帰国した。

 次に中国を目指したのが、ブーン(William Jones Boone 中国名:文恵廉)である。サウスカロライナ教区出身の医師でありながら外国伝道を志したブーンは、バージニア聖公会神学校を卒業後、夫人と共に1837年にバタビヤへ渡って中国語を習得、中国の開国を予想して1841年にはポルトガル領澳門(マカオ)へ、そしてアヘン戦争の勃発により廈門(アモイ)へ移った。ブーンはここで夫人を失うが、中国伝道の同志を募るべく1843年に帰国し、各地で中国伝道の必要性を説いて回った。アメリカ聖公会はその重要さを認め、ブーンを中国伝道のため主教として派遣することを決め、1844年に聖職按手(聖公会で、新しく執事・司祭・主教を任命する儀式)を受け、初代の中国伝道教区監督=主教に任命された。(当時は廈門主教と呼ばれた)

 ブーンは家族と新しく募った同志と共に1844年末にニューヨークを出立、1845年4月に香港に到着、ここから更に上海へ向かった。ブーンは上海を伝道の本拠地として選んだのである。それというのも、ブーンがマカオを出立したときと異なり、すでに五港が開かれていた。上海を選んだのは、揚子江の河口にあって大陸内部への伝道にもより適しており、アメリカとの連絡にも便利であるということであったらしい。以来、多くの宣教師が中国に派遣されることになる。

 そのなかに、日本のキリスト教史に名前を刻まれることになった二名の宣教師がいた。1855年に、バージニア聖公会神学校を卒業し、自ら願い出て中国派遣宣教師に任命されたジョン・リギンズ(John Liggins 中国名:林約翰)、立教の創始者で日本聖公会初代主教にもなるチャニング・ムーア・ウィリアムズ(Channing Moore Williams)である。彼等は1855年11月にニューヨークを出立し1856年6月に上海に到着して、ブーン等に迎えられ、希望通り、中国での宣教師としての仕事を始めた。ところが、1859年、日本の開国が近いという知らせがブーンに届いたことが、二人の運命を大きく変えることになる。アメリカ聖公会は協議の上、日本伝道の開始に備え、宣教師を派遣することになり、ブーンに人選が任されたのである。ブーンに選ばれたジョン・リギンズ、チャニング・ムーア・ウィリアムズの両名は、長崎から、最初は英語教師として、キリスト教の布教は禁止されていた日本で、活動を開始する。このとき日本は幕末、開国前夜の渦中にあった。

 一方、ブーンは、中国で着実に伝道の足場を固めていった。1865年に「培雅書院」を、1866年に「度恩書院」を設立、初等教育を開始する。この二つの私塾こそ、1879年に設立され、中華人民共和国建国後の1952年に解体されるまで、上海随一、そして全国でも指折りの名門大学となった聖約翰大学(St. John's University)の前身である。

参考:矢崎 健一『チャニング・ムーア・ウィリアムズ』( 聖公会出版、1988)
『海上梵王渡――聖約翰大学(教会大学在中国)』(河北教育出版社、2003)
※上記両書では、アメリカ聖公会の当初の中国伝道についての記述が異なる。矢崎氏の著書が詳しかったので、ここではそちらを採用した。

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冬の法隆寺を散策2009年02月05日

法隆寺へ行きました
 久しぶりの法隆寺。友人4名と共に冬の法隆寺を散策した。観光シーズンではないので、人も少なく、ゆったりと過ごせたのは幸いだった。

 境内を巡りながら、この寺が経てきた歴史に思いを馳せた。法隆寺は一度焼失し再建された、と聞いたことがある。聖徳太子による創建は通説では607年、焼失したのは670年(天智9年)のことで、日本書紀に記載されているそうだ。その後、千三百年以上もの歳月、火災や数々の戦乱を逃れてきたのは、本当に奇跡である。無論、その背景には、法隆寺を守ってきた方々の、言い尽くせないほど多くの苦労や努力があったに違いないとも思う。また、仏教文化がインドから中国を経て海を越え日本にたどり着いたというのも、玄奘三蔵のインドへの求道の旅、命をかけて隋や唐に渡って学問を修め、多くの経典や先進の知識文化を携えて帰ってきた僧侶達の存在があってこそである。

 最近、般若心経や仏教の歴史、玄奘三蔵の伝記を読んでいる。仏教をもっと知りたいと考えていた矢先の法隆寺行きだったので、私にはこの空間を感じる時間を持てたことは、とてもありがたかった。

 今回、朱印帖を初めて購入した。朱印所で書いてもらったのは「以和為貴」、有名な17条憲法の第1条「和を以て貴しと為す」である。これは論語の学而第1「有子曰 礼之用和為貴」から来ている。日付も入れてくれたので、いい記念になりそうだ。

 そういえば、見学できなかったが、今日法隆寺では伝統行事・三蔵会が行われた。玄奘三蔵の遺徳を奉賛してその命日に祖師法要を営む、倉時代から江戸時代まで続いていた行事である。明治初年に一旦中断され、昭和58年に再興されたそうだ。

 参観の後は門前のお店・松鼓堂で茶がゆをいただいた。はったい粉の香が心地よく、お腹に優しい昼食だった。こうして出かけられたのも友人達のおかげである。女友達と過ごす時間もいいものだ。またの機会を楽しみに。

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篤姫ゆかりの地5・京都御苑と京都御所2009年01月18日

「篤姫」で見た?承明門よりのぞむ紫宸殿
 大河ドラマ「篤姫」は終わったが、我が家ではなお「篤姫」ブームが続いており、「篤姫」ゆかりの地を引き続き親子で巡っている。娘の「篤姫」ブームに、私と夫も便乗して、歴史探訪を楽しんでいるといった格好だ。今回訪れた京都御苑、そして京都御所もその一つ。ブログに載せた写真は承明門からのぞむ紫宸殿、娘によれば「篤姫」の京都御所の場面に登場したらしい。

 私自身は京都御苑を訪れるのは実は初めてではない。でも初めて来たときは、京都御所を目指していて、周りを見る余裕がなかった。今回は時間に余裕を持って散策し、公開している閑院宮(かんいんのみや)邸も参加することが出来た。かつての京都御苑の面影を留めている数少ない建物である。ここでは、建物の中に入り、資料室で京都御苑の歴史に思いを馳せ、庭を間近に見ることができる。閑院の宮家は、江戸時代の四親王家の一つと聞いていたので、豪奢な建物ではないのが意外だった。無論、ところどころ雅な風情もあり、展示されているお道具類には手の込んだ美しいものも見受けられた。

 ここの資料室で江戸時代の公家屋敷の配置図を見つけた。まず閑院宮邸を地図で探した。これを見ると、公家屋敷の中では別格の広さのようなのだが、実際みたところではそれほどでもなかった。これを基準に考えると、公家の屋敷などは相当狭かったことになる。次に、和宮が生まれ育った橋本家の場所を探した。娘が好きな和宮、誕生の地も養育されたのも、母・勧業院(橋本経子)の実家・橋本家である。「橋本家」は京都御所のすぐそばにあった。(和宮が育った橋本家かどうかはわからない。)もちろん、当時の建物は残っていない。それでも、お姫様好きの娘としては、ドラマで見る十二単を身にまとった美しい姫君が、どこで誕生し、育ったのか、どのようなところで暮らしたのか、と興味津々なのだ。

 今回の京都御所参観、宮内庁参観案内のHPで予約した。今回申し込んだ京都御所参観は60分、ガイド付きである。(他に30分のコース、英語ガイドも)主に建物の説明をしてもらいながら、外廷の部分をガイドさんについて歩いた。外廷部分の宮殿は主に江戸時代末期に再建されたものである。火事で6回も消失したのだそうだ。思ったよりも人が多かったのもあって、ガイドさんの説明があまり聞こえなかったのが、少し残念だった。また建物の中には入ることはできなかったため、外から襖絵をみたり、内部をのぞき込んだり、庭を遠くから眺めるだけだったので、娘は退屈そうだった。一般参観のときは、宮廷装束を着た人形が並んでいたから、そちらの方が却って楽しめたかも。

 ところで、和宮が御所で養育されなかった理由、それは和宮誕生に先立ち、父宮・仁孝天皇が崩御したからである。異母兄・孝明天皇の勅命によって、和宮は母の実家で育てられた。そのあたり娘に説明しつつ、和宮も兄に会いに或いは宮廷の行事で、度々御所を訪れたに違いないと話してみた。華やかな装束などの展示がなかったので、娘にとっては期待はずれの面もあったようだが、それでも和宮の存在を感じられる場所に行けたことは嬉しかったようだ。 

 参考までに…参観について、皇居、京都御所、桂離宮、仙道御所、修学院離宮の参観は往復葉書か現地の宮内庁京都事務所へ赴くか、或いはオンラインで申し込むことが出来る。しかし、子ども連れで行けるのは、皇居と京都御所のみ。桂離宮、仙道御所、修学院離宮は、18歳未満は観覧できない。

参考:宮内庁参観案内HP http://sankan.kunaicho.go.jp/index.html (ここから参観を申し込むことが出来る)

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検定制度が果たした役割と検定教科書――日本の教育法令の歴史102008年12月01日

 日本における教科書の検定制度が固まったのは明治時代である。検定制度は、学年別、つまり児童の発達に応じた近代教科書を全国の小学校に普及させるうえで、大きな役割をはたした。

 この検定教科書、内容から見ると三期に分けられる。①明治19年の小学校令及び「小学校ノ学科及其制度」に準拠した時期→明治10年代の教科書は訂正版で検定。②明治23年の小学校令及び翌年の「小学校教則大綱」に準拠した時期→「教育勅語」の影響が教科書に。③明治33年の小学校令改正、小学校令施行規則に準拠した時期→字音かなづかい、感じの範囲など、教科書の内容に大きく影響

 検定制度改革を転機として、地方出版の教科書が急速に減少、教科書の出版は中央に集中し、検定時代末期には東京の大出版社に集中して、販売競争が激化、教科書事件を引き起こす原因ともなった。

参考:海後宗臣/著 仲新/著 寺崎昌男/著『教科書でみる 近現代日本の教育』(東京書籍、1999)


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日本の初等教育の原型となった「小学校令」(明治23年・1890年)――日本の教育法令の歴史92008年11月30日

 明治23年・1890年10月に、新しく「小学校令」(以下、第二次小学令)が公布され、明治19年公布の小学校令は廃止された。明治19年の小学校令が16条だったのと比べると、明治23年の新しい小学校令は全8章96条からなる詳しいものであった。

 第二次小学令の制定は、市制・町村制や府県制などによって地方自治制度が確立されたことに伴うものである。新しい小学校令では、小学簡易科を辞めて尋常小学校を3年または4年とし、高等小学校は2年、3年、4年の3種類となった。徒弟学校と実業補習学校を小学校の種類とし、小学校に補習科や専修科をおくこともできることにした。ここに日本の初等教育の原型が成立した。

 第二次小学令はドイツの学校法令を参考にしたと言われている。第一条に規定されている小学校の目的には「小学校ハ児童身体ノ発達ニ留意シテ道徳教育及国民教育ノ基礎並ニ其生活ニ必須ナル普通ノ知識技能ヲ授クルヲ以テ本旨トナス」とある。この規定は昭和16年の国民学校令の直前まで改められることがなかった。

 小学校の教育内容については、1891年1月「小学校教則大綱」が定められた。これは明治23年・1890年の「小学校令」に基づいて定められたものであるが、同時に教育勅語の趣旨に基づく教則の改正であった。「小学校教則綱領」の学習課目は小学初等科では修身、読書、修辞、算術の初歩、唱歌、体育 、中等科では修身、読書、習字、算術の初歩、唱歌、体操、地理、歴史、図画、博物、物理の初歩、裁縫(女子のみ)であった。

参考:海後宗臣/著 仲新/著 寺崎昌男/著『教科書でみる 近現代日本の教育』(東京書籍、1999)


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教科書検定制度の変貌――日本の教育法令の歴史82008年11月27日

 先に述べたように、教科書検定制度は明治19年・1886年の学制改革と同時にはじめられた。小学校だけでなく、中学校、師範学校についても教科書の検定が行われることになり、同年5月「教科用図書検定条例」が定められた。この検定条例は翌年5月には改められ、「教科用図書検定規則」が定められ、その後はこれに基づいて検定制度が運営された。この検定規則によると「教科用図書ノ検定ハ止タ図書ノ教科用タルニ弊害ナキコトヲ証明スルヲ旨トシ其教科用上ノ優劣ヲ問ハサルモノトス」というもので、この時点では教科書の検定は教科用として弊害のないことを証明するもので、内容上の優劣は問わないことになっていた。森有礼は、教育は開明された国民によって自発的に改良進歩されるべきものと考えており、教科書についても改善の効果があがったときには、検定制度廃止を考えていたようだ。

 ところが、森文政が終わりを告げた3年後の明治25年・1892年3月には「教科用図書検定規則」の第一条が改正され「教科用図書ノ検定ハ師範学校令中学校令小学校令及教則大綱ノ趣旨ニ合シ教科書ニ適スルコトヲ認定スルモノトス」と改められ、積極的に内容を問題とし、検定による国家統制の意図が示されたのである。この後、国家の中央集権化が進むにつれ、教科書国定化の建議がしばしば為されるようになる。

 中国の初めての学制が頒布された時期は、日本の教科書国定化が始まった頃と重なることになる。

参考:海後宗臣/著 仲新/著 寺崎昌男/著『教科書でみる 近現代日本の教育』(東京書籍、1999)
文部科学省「学制百年史」
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpbz198101/index.html

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近代教育に始まる「唱歌」「体操」――日本の教育法令の歴史62008年11月23日

 明治14年・1881年5月「小学校教則綱領」あたりから次第に小学校の教科として取り入れられたのが、「唱歌」「体操」である。明治5年・1872年「学制」において正式科目とされながら「当分コレヲ欠ク」して実施されていなかったのである。いずれも、アメリカ留学で音楽教育及び体操教育の重要性に目覚めた伊沢修二等の建言と文部大輔・田中不二麿の努力で、文部省にそれぞれ専門部署が設けられ、更にそれまで日本になかった教科であったので、外国から専門家が招かれた。

 音楽の方は、明治12年文部省に音楽取調掛(東京芸術大学音楽部の前身)がおかれ、翌年音楽教育の専門家アメリカ人のメイソン(L.W.Mason)が招かれた。メイソンは伊沢がアメリカ留学中に知り合って影響を受けた人物である。日本の音楽教授はここに始まる。唱歌の教科書としては伊沢等により『小学 唱歌集』(全三巻、明治14年・1881年、文部省)が編集された。

 一方、体操の方は文部省が明治11年体操伝習所を設けアメリカからリーランド(G.A.Leland)を招いて洋式体操を取り入れた。リーランドはアマースト大学卒業後ハーバード大学で医学を学んだ人物であるが、アマースト大学在学中はアマースト身体教育の主唱者であるヒッチコックに体操の指導を受けたことがあるらしい。このリーランドの体操伝習所における講義を日本語でまとめたの『李蘭土氏講義體育論』が筑波大学の図書館に所蔵されているそうだ。この講義録の筆者は坪井玄道と推察されている。坪井玄道は、後に田中盛業(体操伝習所第一回卒業生、同教官)との共著で小学校体操指導書として始めて刊行された『小学普通体操法』(上下巻、金港堂、明治17年・1884年)を著している。

 なお、『小学普通体操法』は中国で『蒙学体操教科書』(無錫 丁錦・訳、上海・文明書局、光緒29年・1903年初版)翻訳が出版されている。(2008年5月12日の記事「いつ着替えたの?――『蒙学体操教科書』」参照) いよいよ中国の教科書と繋がってきた(^^)

参考:海後宗臣/著 仲新/著 寺崎昌男/著『教科書でみる 近現代日本の教育』(東京書籍、1999)
つくばね Vol.25 No.3: 体操伝習所旧蔵書が語るもの
https://www.tulips.tsukuba.ac.jp/pub/tsukubane/2503/okuma.html

 上記で紹介した教科書は国会図書館近代デジタルライブラリーの以下のURLで画像を見ることが出来ます。↓

音楽取調掛『小学 唱歌集』
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=53012229&VOL_NUM=00001&KOMA=15&ITYPE=0

↓坪井玄道,田中盛業編『小学普通体操法』
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40075688&VOL_NUM=00001&KOMA=1&ITYPE=0

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教科書統制のはじまり「開甲制度」(明治14年・1881年)――日本の教育法令の歴史52008年11月20日

 日本で初めての「学制」が公布されたときは、教科書は自由だった。教科書の統制が始まるのは、「開甲制度」という教科書届出制度からである。これは、改正教育令に基づき明治14年・1881年5月に定められた「小学校教則綱領」の公布とともに、文部省が小学校教科書を定めて届けるように府県に指示したものである。この頃、各府県では「小学校教則綱領」の基準に従い、それぞれ小学校教則を制定、管内で実施、これにより各府県の教育は統一され、全国的にも次第に統一されていった。
 教科書の統制はその後さらに強化され、明治16年・1883年には認可制となり、文部省の認可を得なければ使用出来ないことになった。そして、明治19年・1886年になると検定制度が設けられることとなるのである。

参考:海後宗臣/著 仲新/著 寺崎昌男/著『教科書でみる 近現代日本の教育』(東京書籍、1999)

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修身科の始まり『教学聖旨』(明治11年・1878年)――日本の教育法令の歴史42008年11月17日

 近代学校における道徳教育「修身」科のはじまりは、『教育聖旨』に遡る。洋風尊重と文明開化の思潮が批判され、皇国思想への転換が図られるようになったのは、明治10年代はじめのことで、この転機となり方向付けをしたのが、『教学聖旨』であった。明治11年・1878年秋に明治天皇は各地を回って教育の実情を視察、その後国民教育の根本方針として、『教育聖旨』が元田永孚(もとだながざね・儒学者)によって書きあらわされた。

 『教育聖旨』は「教学大旨」と「小学条目二件」からなる。「教学大旨」は仁義忠孝を明らかにするのが本旨であるとし、維新以来の洋風尊重を否定し、儒教の教えを道徳教育の基本とすべきであると述べている。また、「小学条目二件」は小学校で幼少のはじめに仁義忠孝の道徳観を教え込むことが大切であるとしている。1880年・明治13年の改正教育令で小学校の教科のはじめに「修身」をおいたのは、この教学聖旨の精神に基づいたものである。1881年・明治14年の小学校教則綱領は原案を上奏し、聖旨に基づいて一部修正した上で公布されたものと言われる。同じ年、中学校と師範学校の教則大綱も定められたが、学科のはじめにはやはり修身がおかれている。文部省は「小学校教員心得」を定めて、教員に対し「尊皇愛国ノ志気」を振起すべきことを説き、道徳教育の必要を強調、「学校教員品行検定規則」を定めて、同じ方策の徹底をはかった。

 更に教科書についても1880年・明治13年3月省内に編輯局をおいて新しい教科書の編集に取りかかるとともに、教科書取調掛を設けて教科書の調査をはじめ、調査の結果不適当と認めたものは府県に通達して使用を禁止したのである。禁止された教科書は、修身教科書、法律政治関係、生理関係の教科書などに多かったらしい。

 この『教学聖旨』は政府部内の人間関係の軋轢に絡んで、論争を引き起こした。これらの動きが後の教育勅語へと繋がっていく。

 中国の初期の学制は日本の明治時代の学制の影響を強く受けている。愛国教育の教科である修身科が清末、中華民国の学校のカリキュラムに組み込まれたのも、元はと言えば日本の影響を受けたものなのである。

参考:海後宗臣/著 仲新/著 寺崎昌男/著『教科書でみる 近現代日本の教育』(東京書籍、1999)
佐藤秀夫『新訂 教育の歴史』(放送大学教材、放送大学教育振興会、2000)

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日本最初の学制1872年・明治5年8月「学制」――日本の教育法令の歴史12008年11月07日

 中国の清朝末期及び中華民国時代の学制は日本の教育法令に範を取っている。だから、この時期の中国の学制について知る為には、日本の教育史に対する理解が欠かせない。そのようなわけで、以前勉強した『教育の歴史』『近現代日本の教育』等を見ながら日本の主な教育法令の歴史をおさらいしている。最初は「学制」から見ているのだが、その内容は江戸時代が終わって新国家が樹立したばかりとは思えないほど、近代的で理想的である。

 日本の学校制度は1872年・明治5年8月3日の太政官布告「学制」に始まる。オランダ・フランス・アメリカなど欧米諸国の学校制度を参考に、起案された学校制度法令、これが「学制」である。「学制」は全国を大・中・小の「学区」に区分し、各学区にそれぞれ大学・中学・小学各1校を設置するという、今の日本の教育体制の基礎を築いた法令となった。ちなみに「学制」は、当初本文109章、翌年7月にかけて様々な条文を追加規定した結果、総体で全213章に及ぶ膨大な法令となった。これに「太政官布告214号」が前文として添えられている。

 「太政官布告214号」は公布前日に公布された。これは「自今以後一般の人民 華士族卒農工商及婦女子、必ず邑(むら)に不学の戸なく、家に不学の人なからしめんことを期す」いう名文句で知られる。「学制」は身分や階級、職業、男女の別にかかわらず、全ての人が学校に入学して学ぶことを定めた、近代的な教育宣言文的法令であったのである。

 「学制」は公布翌年の1873年頃から全国に施行された。三年後の1875年には約2万4千校、ほぼ現在並みの数の小学校が全国に設置されたという。ちなみに教科書は自由だった。

 ただし、「学制」は順調に定着したわけではなかった。学校の設置は村負担で、授業料は個人負担で高額だった。一般庶民には学費の負担が重く、また日常生活に有用と感じられなかったこともあって、1870年代後半には新しい学校制度に対する社会的批判と不満が広まり、農民一揆の際に学校が標的になり打ち壊しや焼き討ちの対象に選ばれることもみられた。また自由民権運動の中からも民衆の学校費負担軽減の要求などがなされたこともあった。そのため、近代的なすぐれた法令「学制」は、実施後の経験を踏まえて、大きく修正されることになるのである。

参考:海後宗臣/著 仲新/著 寺崎昌男/著『教科書でみる 近現代日本の教育』(東京書籍、1999)
佐藤秀夫『新訂 教育の歴史』(放送大学教材、放送大学教育振興会、2000)

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