ソルベ、ソルベット、ジェラート--氷菓子の歴史 ― 2011年09月06日
暑いと冷たい物が食べたくなりますよね。イタリアではジェラートがとっても美味しかったです。それで、うろ覚えの記憶が甦ってきたのですが、氷菓子の歴史は古いのです。気になって、帰国してから、ネットで調べてみたら、ありました~。結構長いので以下に軽いまとめと感想を。詳しいことをお知りになりたい方は参考にしたホームページのアドレスを末尾に載せておくので、そちらをご覧下さいね。
古代ローマ人、そしてローマ文化圏の人々は雪と氷に蜂蜜や果汁を加えてクリーム状にした「ソルベ」を食べていました。カエサルも、アレクサンドロス大王も「ソルベ」を食べていたんですね。古代ローマ人が食べていた雪は、ローマから100キロも離れたテルミニッロ山やナポリのヴェズヴィオ山、シチリアのエトナ山から運ばれて氷室で保存されていました。ローマ人は雪と氷を食べる習慣と食べ物を氷で冷やすことをギリシャ人から教わったとか。エジプトやアジアにも雪に蜂蜜や果汁をかけて食べる習慣はあったそうですよ。もっとも、都市でそれらを享受できたのは、特権階級だけでしょうけれど。ちなみに日本でも『枕草子』に金属の刃で削った氷に「削り氷にあまづら入れて、新しき金鋺(かなまり)に入れたる」と記述があるそうですから、日本の平安貴族もかき氷のようなものは食べていたようです。
イタリア人のすごいところは、冷凍技術の開発がジェラートと結びついていることかも。中世には液体を氷と硝酸カリウムで凍らせる「ソルベット」を食べていたそうです。容器を氷に当てながら回してきめの細かいものを作っていたといいます。そして、ジェラートの原型は、ルネサンスの頃のフィレンツェで誕生しました。ジェラートを初めて作ったのはメディチ家お抱えの画家、作家、建築家だったベルナルド・ブオンタレンティBernardo Buontalenti (1536 – 1608)でした。彼は氷に硝石を加えることで-20℃程度まで温度が下がることを発見したのです。この原理を利用して発明した設備(人工的に食品を凍結させる技術が可能に。)で、ベルナルドは、花火とお芝居の会を催したときに、ベルガモットと柑橘果汁入りのクリームを凍らせて振る舞ったのだそうです。ルネサンスの人って、なんて多才かつ粋、そしてグルメなのでしょう。
イタリア人が外国に移住したときの職業はジェラート屋さんが多かったそうです。きっとレストランも多かったんじゃ無いかなあ。美味しいですもん。
ところで。冷たい食べ物、食糧を冷やして保存する技術は中国からインド、ペルシャ、アラブ経由で地中海に伝わった説があるそうです。また、マルコポーロは『東方見聞録』で3000年以上前に中国で作られた乳を凍らせた菓子(アイスミルクのようなもの)をイタリアに伝えたと記述しています。一方、『千夜一夜物語』には「シャルバート」なる冷たい飲み物が登場しますが、これが元に伝わったという記録もあるそうです。モンゴル帝国という大きな文化圏は、大きなユーラシア大陸の多種多様な文化の交流を可能に、そして可能にしたのですね。たっぷり時間さえあれば、どんなに距離があろうとも、文化は空間を移動していく、まさに冷たいお菓子の歴史もその好例ですね。
参考:
・イタリア料理ほんやく三昧 http://prezzemolo-creapasso.blogspot.com/
(とっても美味しそうなイタリア料理の情報が満載です。)
http://prezzemolo-creapasso.blogspot.com/2010/10/blog-post_07.html(ジェラート物語)
・食文化 記録日誌 (アイスクリームは中国から来たのか)
http://fooodbiz.blog.fc2.com/blog-entry-191.html
・ウェキペディア:「アイスクリーム」16世紀初頭にパドヴァ大学のマルク・アントニウス・ジマラが常温の水に多量の硝石を溶かすと溶解熱により吸熱し、冷却することを発見した。
(9/7 タイトル変更)
久しぶりの海外旅行 ― 2011年08月29日
ツアーの添乗員さんは親切な方でしたし、ご一緒した方達も優しい方ばかりで、娘が暑さと疲れでぐったりしているときなど、温かい声をかけて下さいました。感謝です~。
今回はパソコンを持っていかなかったので、リアルタイムの旅日記をアップできませんでしたが、幾つか印象に残ったことなど、手元の旅日記に基づいて日にちを遡って書き込もうと思っています(^^)
憧れのフォロ・ロマーノを歩く ― 2011年08月26日
「フォロ・ロマーノ」は今回一番行きたかったところだ。朝9時の開門に合わせてタクシーで向かった。到着するとすでに人が並んでいた。9時ちょうどにチケット売り場が開いて、入場した。家族で歩くので、マイペースに動けるのがありがたい。でも、もちろんガイドなしだから、手元の地図とガイドブックがたよりだ。問題は暑さ。朝だというのに、暑い。しかも、どんどん暑くなる。下は石畳で建物はレンガか大理石だから照り返しも強いのだろう。それでも大人だけなら、一日中この辺りを回っていただろう。でも子連れに無理は禁物、今回はさっと見るだけに留めた。またの機会があることを願いつつ。

現在見られる遺構の中には、セプティミウス・セヴェルス帝の凱旋門のように、中世、地底に埋まっていたおかげで保存状態が良いのもあれば、元老院のように資料を元に再建されたものもあるが、多くは瓦礫のままである。しかし、驚くべきは、19世紀初期に本格的に発掘調査が始まるまでは放牧場だったことだ。あれほどの広大かつ巨大な建築群、しかも帝国の中心地だった場所がすっかり忘れ去られ、すっぽり土に埋まっていたなんて、とても不思議である。
ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世のガッレリア――ミラノ ― 2011年08月21日
ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世のガッレリアを見た。イタリア半島を統一したヴィットーリオ・エマヌエーレ2世にちなんで名付けられた、この世界最古のアーケードは19世紀中葉の1865-1877年にかけて作られたという。
最初はガイドの方に連れられて、その後はフリータイムにここを歩いた。印象的だったのはガッレリア中央部の壁上部に描かれた、世界の四つの大陸、ヨーロッパ、アジア、アフリカ、そしてアメリカを象徴する大きな絵(元はフレスコ画だったそうだが、今は違うらしい)である。
この時期は、日本の江戸時代末期から明治初期にあたる。黒船が来て、尊皇攘夷か開国か、と大きく揺れていた頃、イタリア半島は統一されて、イタリア王国として新しい時代を迎えており、四大陸を意識した絵が壁面に描かれるほどの正確な世界観を持ってたと思うと不思議な気分になった。しかも、とても美しい。そういえば、ミラノを代表するオシャレな店が軒を連ねていたなかに、マクドナルドが融け込んでいた。この歴史的建造物の中にファーストフード店とは…やはりイタリア人は寛容な気がする。
ガッレリアでは、ジェラートを食べ、食事もして、しばし気ままに過ごせたのがいい思い出だ。
本物の「最後の晩餐」を見る--ミラノ ― 2011年08月21日
しばらく前、NHKの日曜美術館で「レオナルド・ダ・ヴィンチ 驚異の技を解剖する」を見た。その中で「最後の晩餐」の人物表現の巧みさを俳優が各人について演技するという手法で再現していた。この番組を偶然目にして以来、本物を見たいと思うようになった。でも、レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」はイタリアのミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の食堂にあるという。
そういうわけで、今回イタリア旅行を計画するにあたって、「最後の晩餐」を見ることが目的の一つになった。そうでなければ、たぶんローマだけで十分と思ったに違いない。当初は個人旅行のつもりだったので、ホームページで観覧予約をとろうと調べたが、時既に遅く、こちらの都合のよい日時はすでに埋まっていた。結果的に子連れであることも配慮して安全第一で「最後の晩餐」の観覧が含まれるツアーに参加した。
さて、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の左側にある食堂は世界遺産、大事に保護されている。まずは観覧者の身体についた塵を取り、汚れた空気を入れないためのガラスの部屋を通った。そしていよいよ壁画のあるかつての修道士の食堂に入る。そこには食堂の壁一面に描かれた大きくて迫力があるフレスコ画の「最後の晩餐」があった。

↑本物は写真を撮ることが出来ない。これは隣のブックショップで買ったマウスパッド
部屋は薄暗く、絵に照明が当たっている。1495年から1497年にかけて描かれたこの絵は後ろがキッチンという悪条件もあって、かなり傷んでいて20年かけて修復したそうだが…それでもやはり傷んでいる。修復というよりお掃除だったとガイドさんは言っていた。キリストの足の部分も本当は描かれていたのが、恐らくドアを直したときにでも、失われてしまったという。でも、暗い中にボウッと浮かんでいる大きなフレスコ画はどことなく威厳があって、まるで過去の場景を見せられているような、不思議な光景だった。
この部屋にいられるのは15分間。近くから見たり、遠くから見たりした。芸術的な知識はないから、雰囲気に酔っただけかも知れない。
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