台湾の地図で学ぶ地理の基礎知識-義務教育課程標準実験教科書『地理』2011年12月13日

思想教育とはこういうものも指すのだろうか。いまの中国の中学生は台湾の地図で基礎知識を学んでいるようだ。義務教育課程標準実験教科書『地理』七年級上冊、を見ていて偶然見つけた。

 この教科書、第一章「地球と地図」第三節「地図」の第一項「地図の基本要素」に見える地図、なんと台湾の衛星写真と台湾島の地図である。説明文はただ地図とは何かを説明する内容で「台湾」の文字はない。七年級というのは日本なら中学校一年生にあたる。恐らく地理のはじめの授業で見る地図、印象は深いはずだ。中国なら中国地図が載るのが普通だろう。それをわざわざ台湾の地図にしている。

今の中国の教科書は以前ほど思想教育的には見えない。かつては沢山載っていた政治家や烈士の逸話は目に見えて減った。でも、いろいろなところに、さりげなく潜んでいるものを見つけるたびに、本質的には変わっていないことに気づかされる。

参考:義務教育課程標準実験教科書『地理』七年級上冊(2001年第一版、人民教育出版社)

中国の地理教科書

中国・中華民国期、三万人の戦災孤児を救った戦時児童保育会2009年07月08日

 戦時児童保育会の編集で生活書店より発行された『抗戦建国読本』特冊(第三版、一九四〇年)を『小学教科書発展史』で見た。これほどに日本帝国主義への憎悪に溢れ、日本人に対する偏見や憎しみが明確な教科書は初めてだった。そこで気になって、戦時児童保育会について調べると、戦時児童保育会は、日中戦争で両親を亡くしたり、親と生き別れになったりした子供を救うために、上海の女性名士の呼びかけによって緊急に創設された超党派の非営利団体であることがわかった。

 もう少し詳しく知りたくなって、取り寄せたのが、『民族之魂――中国戦時児童保育会搶救抗日戦争三万難童紀実』という本だが、これがなかなか重い内容の本である。中国戦時児童保育会、活動期間は1938年から1946年まで、全部で61カ所の児童保育院、孤児院を設立、経費を募金でまかないつつ、三万あまりの戦災孤児(十五歳以下)等を養育した。院内学校では教育も行っていたのであり、前述の教科書は彼らを教育するために実際に使用されていた。

 この本を読んで気づくのは、「中国戦時児童保育会」の政治的立場が非常に微妙なことだ。なんといっても、理事長は宋美齢(蒋介石夫人)、名誉理事長は宋慶齢(孫文夫人)、理事は56名でこの中には鄧(トウ)穎超(周恩来夫人)、はじめ他共産党員の名前もある。国共合作のきっかけとなる西安事件前、女性による超党派の戦災孤児救助活動が行われていたことは、戦後の国民党と共産党の関係の悪化により、大陸と台湾の双方でタブー視され、長い間大きい声で語られることがなかった。

 それに対する配慮もあるのだろう。この本では、中国戦時児童保育会とは直接関係がない、日本軍の子供に対する残虐行為について記述するなど、抗日意識を全面に打ち出している。それでも、長期にわたって封印されてきた歴史的に貴重な証言や貴重な写真が沢山載っており、孤児の救出活動がいかに困難を極めたか、経済的な困難を抱えながら戦時下の保育院経営がどんなに厳しかったか、どんな教育が行われたかなど、具体的な事情が詳しくわかるのがありがたい。

読んでいる本:『民族之魂――中国戦時児童保育会搶救抗日戦争三万難童紀実』(珠海出版社)

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『蟹工船』ブームに思う2009年03月07日

 『蟹工船』ブームが、現代の労働事情を象徴する現象として取り上げられ、度々報じられている。小林多喜二の『蟹工船』が雑誌『戦旗』に発表されたのは1929年。80年後のいまプロレタリア文学である『蟹工船』が若い世代に共感をもって読まれているのは、とても興味深い現象である。

 この『蟹工船』ブーム、きっかけとなったのは、毎日新聞に掲載された作家の高橋源一郎さんと雨宮処凛さんの格差社会をめぐる対談(1月9日付朝刊)であったらしい。でも、そのブームを支えたのは、白樺文学館であろう。白樺文学館は、2006年には中国における小林多喜二研究の振興・奨励するため河北大学と共催で論文コンテストを行い、日本では『マンガ蟹工船』を発行、2007年には小樽商科大学と共催で「『蟹工船』エッセーコンテスト」を行い、更にその結果をもとに『私たちはいかに蟹工船を読んだか―小林多喜二「蟹工船」エッセーコンテスト入賞作品集』を発行するなど、積極的な普及活動を続けている。時代を読み、次から次へと新しい手を打つ、白樺文学館の戦略(?)が当たったようにも見える。

 ところで、「『蟹工船』エッセーコンテスト」には、中国人2名も入賞している。実は、日本では長らく忘れられていた『蟹工船』、中国ではよく知られている日本の小説のひとつだ。小林多喜二『蟹工船』を中国で積極的に評価した人物に中国の著名な作家・夏衍がいる。『蟹工船』が出版されてまもなく、1930年1月に左翼連盟の機関紙『拓荒者』創刊号に「『蟹工船』について」(このとき夏衍は若泌という筆名を使った)という評論を書いて「蟹工船」を絶賛した。「蟹工船」は、1956年の初等中学の国語教科書『文学』にも収録されている。抗日色が強い初期の中国の教科書では特例的だったと思う。

 いまの「蟹工船」ブームはとかく現在の社会状況に重ねて情緒的に語られるが、かつての貧困と今の貧困ではレベルが違うような気もする。今後も冷静にこの現象を見まもっていきたい。

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中国初の国産教科書?1879年発行の(陽湖)楊少坪編訳『英字指南』2009年01月15日

 中国の中国人編纂による最初の教科書は、1896年に創設された南洋公学師範院の教師と学生が編纂した1898年発行の『蒙学課本』(上中下)であると思っていたのだが、どうも違うらしい。「観点:多くの外来の科学技術用語は日本製ではなかった」(『北京晩報』2001年5月31日)という記事によれば、1879年発行の英語教科書が発見されたというのだ。

 その教科書は、1879年発行の(陽湖)楊少坪編訳『英字指南』(求志草堂出版、線装本、全6巻、約500頁。)である。社会科学院で博士号をとったという張斌氏が、2000年の夏、北京のアンティークマーケットで見つけ購入した。本の自序によれば、「楊少坪は上海広方言館(外語学校)の卒業生で、成績優秀だったことから、この教材を編訳した」とあるらしい。また、「脱稿後に日本領事の品川忠道に見て貰うようにお願いしたが、長い間戻ってこなかった」とも。

 北京晩報の記者は『英字指南』の実物を確認している。字の書き方や発音等の入門から、基礎単語帳に加え、貿易やビジネス用語などを網羅した内容らしい。興味深いことに、この英語教科書、英語の発音を中国語の呉方言で標記している。例えば、“custom”を“可史脱姆”、“mother”を“末此安”としているそうだ。近代化の初期に、呉方言による英語標記が行われたことで、現在でも多くの外来語の語彙に呉方言の影響が見られるという。

 ところで、この記事、タイトル「観点:多くの外来の科学技術用語は日本由来ではなかった」とあるように、話の焦点は要するに「『英字指南』の発見で、日本で翻訳されて後に中国へ輸入されたと思われていた科学技術関連の語彙について、中国人が先に翻訳したものを日本人が借りて使っていたことがわかった」ということにある。その論拠は化学元素名や「bank=銀行」「museum=博物院」などの翻訳語彙が、『英字指南』に記載されていた、というところにあるらしい。

 しかし、そう断じるには早計すぎるだろう。1879年といえば、すでに日本の近代化の影響が及んでいる時期である。自序にあった編訳者がわざわざ日本領事に脱稿した原稿を見て貰おうとした経緯も気になる。また、前述したように(本ブログ2008年12月25日「中国・清末、出版業の近代化」を参照)、キリスト教系の出版社が欧米の自然科学の専門書を翻訳し発行することで、欧米の自然科学の伝播が始まった時期でもあったし、ミッション系の学校では欧米の教科書を翻訳して授業に使っていた。だからどこかに原本、或いはおおいに参考にした本もあるかもしれないとも思う。なにはともあれ、一度よく見てみたいものだ。

 ちなみに『英字指南』よりも少し時期は下るが、他にも1895年鍾天緯編の『語体文教本』というのもあるらしい。

参考:北京晩報2001年「観点:大量外来科技匯并非来自日本」http://tech.sina.com.cn/o/69289.shtml (中文)

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体操服から軍服に着替えた理由(体操科の教科書)2008年12月08日

日本の底本『小学普通体操法』と中国の翻訳本『蒙学体操教科書』のイラスト
 以前書いた「いつ着替えたの?――『蒙学体操教科書』(体操科・1903年)」(当ブログ2008年5月12日の記事)では、中国で翻訳された体操科の教科書『蒙学体操教科書』(無錫 丁錦著、上海 文明書局、光緒29年・1903年)と、底本と見られる日本の坪井玄道,田中盛業編『小学普通体操法』(金港堂、1884年・明治17年)第一冊のイラストに、服装の違いがあることを紹介した。

 それは具体的には、日本の『小学普通体操法』にはシャツとズボンという体操服らしいものを着た人物が、翻訳書には軍服を着た軍人らしき人物が描かれていることを指していた。このときは「いつ着替えたのだろう?」という疑問符で終わっていた。ただ、1888年・明治21年に改訂された事実だけを述べて、このとき書き換えられた可能性を提示しただけだった。残念ながら、国会図書館の近代デジタルライブラリーには『小学普通体操法』の1888年・明治21年改訂版の画像がないので、確認ができなかった。でも、『近現代日本教育』をじっくり読み直す中で、これに根拠を与える記述を見つけた。

 『近現代日本教育』によれば、1886年学校令の施行期、「日本を世界の列強とならぶ第一等国の地位にまで高めることを目標とする教育政策」により、師範学校や小学校に兵式体操を取り入れたことに言及している。これは「軍隊式の教育によって国民の[元気]を育てることを重んじ、生徒に対してもとくに順良・信愛・威重の気質を求め」るものであったという。

 『小学普通体操法』は改訂版が1888年・明治21年に出ているが、これは1886年の小学校令に合わせるための改訂であったと考えられるのであり、このとき挿絵の人物が体操服から軍服に着替えたのではないか。それはまさに上記のような教育政策に合わせたものと推察されるのである。

 したがって、1888年・明治21年に出た改訂版こそが恐らく中国で翻訳出版された『蒙学体操教科書』の底本であろうと思われる。一応以前も載せた二つのイラストを載せておく。

 『小学普通体操法』の1888年・明治21年の改訂版、WEBCATで調べたら、日本の大学に2冊あることが分かった。そのうちの一冊は我が母校に(^^)。これを見れば事実確認ができるので、機会を見つけて確認に訪れたいものである。

参考:海後宗臣/著 仲新/著 寺崎昌男/著『教科書でみる 近現代日本の教育』(東京書籍、1999)

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日本の「手工科」の影響を受けた中国・清末民初の「手工科」教科書2008年12月05日

中華民国『共和國教科書新手工』(『小学教科書発展史』より)
 『小学教科書発展史』に面白いものを見つけた。目を引いたのは、これに折り鶴や蛙、アヤメの折り方が載っていたからだ。一つは『小学手工教科書(教師用書)』(光緒34年5月初版9月再版、商務印書館)、清末の「手工科」の教師用の指導書であり、もう一つは『共和國教科書新手工』(中華民国3年・1914年初版、11年・1922年第6版、商務印書館)、中華民国の「手工科」の教科書である。解説によれば、この二冊の教材内容はほぼ同じであるらしい。『小学手工教科書(教師用書)』には「編輯大意」があり、日本の文部省編の『手工教科書』、棚橋氏の『手工教授書』を基礎に編纂したと書かれている。

 そこで調べてみると、それらしい本が見つかった。棚橋源太郎,岡山秀吉著『手工科教授書』(東京:宝文館・東洋社、明治38・1905年)である。書名は少し違うが、著者も符合するし、内容を確認すると、中国で出版された教科書と同じイラストが使われていることが分かった。「色板」の説明部分を読み比べたところ、内容はほぼ同じながら、補筆してあるところがあったり、削除してあるところがあったりする。従って中国・清末の『小学手工教科書(教師用書)』は、棚橋源太郎,岡山秀吉著『手工科教授書』の簡訳版というところである。一方、文部省編『手工教科書』については巻7・巻8(大日本図書、明治37年・1904年)しか見つからず、残念ながら同じイラストは確認できなかった。

 ところで、同じ出版社である商務印書館から出されているのに、『共和國教科書新手工』には「編輯大意」がない。この教科書が出版されたのは1922年、1915年の日本の対華21条要求、1918年の五四運動、1921年の中国共産党誕生…中国のナショナリズムが一気に高揚した時期である。私の勝手な想像だが、ナショナリズムの気配が強まる中国社会の空気が、日本の教科書の翻訳であることを説明することをためらわせたのではないだろうか。

 なお、鹿野公子氏の論文「明治期における手工科の形成過程」によれば、「手工科」はパリ万博(明治11年・1878年)を境に高まった欧米の実業教育科目の学校導入の流れに影響を受けたものであるらしい。技術教育振興の気運が高まっていた日本で制度上「手工科」という科目が登場したのは、明治19年・1886年の第一次小学校令に基づき定められた「小学校ノ学科及其制度」からであった。「小学校ノ学科及其制度」の第3条に高等小学校の加設科目として挙げられている。手工科は日本でも加設科目になったり、随意科目になったりを繰り返した学科で、昭和16年・1941年には「作業」「工作」という名前に変更され、後に中学校の「技術」科・小学校の「図画工作」へと発展したと言われている。

参考:『小学教科書発展史』(国立編訳館、2005、中国語)
鹿野公子「明治期における手工科の形成過程?上原、岡山、後藤、一戸の手工教育観をもとに」(日本大学教育学会 教育学雑誌32、1998)

近代デジタルライブラリーで棚橋源太郎,岡山秀吉著『手工科教授書』(東京:宝文館・東洋社、明治38)を見ることが出来ます。
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40040575&VOL_NUM=00000&KOMA=1&ITYPE=0 表紙
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40040575&VOL_NUM=00000&KOMA=139&ITYPE=0 折り鶴

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日本教科書制度(検定制から国定化)が中国の初期教科書制度に与えた影響――日本の教育法令の歴史112008年12月02日

 検定制度の実施とともに、文部省では伊沢修二を編集局長として、積極的に教科書の編集を始めている。これは民間の教科書に一つの標準を示すことによって、教科書の改善を図ろうとしたものであったという。

 日本の文部省が以上のような意図をもって行った教科書編集は、中国清末の初期の教科書制度に少なからず影響しているようである。清政府も、近代教育導入の初期、1901年12月の時点においては、京師大学堂(北京大学の前身)に編訳書局を設置し、内外の専門家を集めて「学堂章程」の課程計画の規定に基づき、目次を編集、次に目次を学務大臣が審査、その後、「各省の文士が、政府の発行した目次に基づいて教科書を編纂すれば、学務大臣の審査を経て、使用することとする」と檄を飛ばして民間教科書を奨励し、簡単な検定制度の運用を開始している。

 ところが翌年明治35年・1902年に、日本では学校の教科書採用をめぐる教科書会社と教科書採用担当者との間の贈収賄事件が発覚する。「教科書事件」或いは「教科書疑獄事件」と呼ばれる教育史上前例のない大不祥事事件であった。40都道府県で200名以上が摘発され、それは県知事、文部省担当者、府県採択担当者、師範学校校長や小学校長、教科書会社関係者などであり、116名が有罪判決を受けるという大事件であり、教科書疑獄事件に関係した会社が発行する教科書は採択禁止となったのである。そこで日本政府はかねてから話題とされていた国定制度をこの機会に一挙に実施する。明治36年・1903年4月、小学校令改正により「小学校ノ教科用図書ハ文部省ニ於テ著作権ヲ有スルモノタルヘシ」(第三次小学校令第24条)と教科書の国定制度が規定されたのであった。

 上記のような日本の突然の教科書国定化は、新しくできたばかりの中国清政府の教科書制度にも影響を及ぼしたようである。1904年、京師大学堂の編訳書局は廃止されている。更にそれを引き継いで教科書編集を担ったのは、学部(1905年11月に設立)に1906年6月設置された編訳図書局である。京師大学堂の編訳書局廃止から学部設立までの間には空白がある。これは新しい学制 「奏定学堂章程(癸卯学制)」施行によるものかもしれないが、清政府の教科書編纂機関は一時期なかったことになる。

 学部・編訳図書局は、日本の国定教科書のように全国の初等教育を普及し統一することを念頭に、価格を安く抑え、複製も許可していたという。教科書国定化を視野に入れていたと見て良いだろう。もっとも、近代教育を導入して30年になる日本と、近代教育制度を導入したばかりの中国では、情況が全く異なっていた。中国では学部の教科書では間に合わず、民間の教科書を検定して採用するしかなかった。この学部教科書は児童心理に即した内容でないことや、管理、印刷が悪い等々批判が絶えなかったようである。

 (なお、中国初期の清政府による教科書編纂事情については、当ブログの記事、2008年10月4日「中国・清末、清政府が設立した京師大学堂編書処による教科書編纂」及び5日「中国・清末、清政府が設立した学部・編訳図書局による教科書編纂」をご参照ください。)

参考:海後宗臣/著 仲新/著 寺崎昌男/著『教科書でみる 近現代日本の教育』(東京書籍、1999)

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「中華民国元年正月訂正初版」の商務印書館『訂正 最新高等小学国文教科書』第一冊2008年10月24日

「中華民国元年正月訂正初版」の中華民国高等小学用『訂正 最新国文教科書』奥付
 奥付に「中華民国元年正月訂正初版」とある教科書を『小学教科書発展史』で見つけた。先に紹介した商務印書館『最新高等小学国文教科書』である。正しくは書名の最初に「訂正」と入って、『訂正 最新高等小学国文教科書』である。中華民国成立が1912年1月1日、新しい国の臨時の学制が1月19日に頒布されたばかりの同じ月に、新しい国の方針に合わせた教科書を出版したことになる。革命成功を確信して教科書編纂をすすめていた中華書局の教科書よりも早い日付で、しかも、楢本照雄『初期商務印書館研究』によれば、保守的な首脳陣のもと、革命の成功を予測出来ず完全に後手に回っていたという商務印書館が…とても意外であった。

 表紙には「中華民国高等小学用」とあり、書名は『訂正 最新国文教科書』第一冊となっている。第一冊について目次を確認すると、全六〇課中、「第一課 政体之別」「第二課 共和政体」「第三課 我国革命」「第四課 人民之権利義務」、他に共和国の宗旨から考えるに「第五課 尊重人類」「第二四課 男女」あたりは加筆された可能性が高い。

 この内、『小学教科書発展史』に載っているのは、第一課から第三課だけだが、これだけでも確認出来たのはありがたいことだ。さて、内容だが、「第一課 政体の別」は君主専制が今の世に不適であることを指摘し、君主立憲制と民主立憲制を肯定する内容、「第二課 共和政体」は君主専制の問題や弊害を述べ、共和制のあり方、即ち国民による選挙で選ばれた議員と総統が国会と政府を組織するという仕組みを紹介し、アメリカ独立戦争やフランス革命など他国の共和制の成り立ちにも言及し賞賛している。「第三課 我が国の革命」は近年の清朝の貴族の専横と腐敗を指摘し、革命の正当性と辛亥革命が起こった経緯、及び中華民国が成立するまでの清朝との交渉について述べ、中華民国誕生を説明する内容となっている。

 これくらいの加筆なら、新しい共和国の宗旨に通じている人間が編集スタッフにいれば、1月出版でも十分間に合うだろう。無論、全八冊あるのだから、それぞれに訂正、加筆が施されたには違いない。奥付の編纂者には高鳳謙、張元済、蒋維喬の三名の名前が見える。蒋維喬は前述のとおり、中華民国初期の教育部の秘書長であるから、加筆も訂正も、最も適任であったろう。また、これは全くの筆者の推測だが、他の出版社に、新しい学制による教科書訂正の見本として示す為に急ぎ用意されたものかもしれない。

 ところで、ここで気になるのが、以前は奥付にあった日本人の校訂者の名前が消えていることだ。これについてもいろいろ事情があるようなので…そのうち紹介しようと思っている。 (2008年10月28日修正)

参考:司琦 著 国立編訳館 主編 『小学教科書発展史』(国立編訳館、2005)

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日本人経営の印刷会社で誕生した中華書局の教科書2008年10月23日

 ところで、陸費逵等が秘密で編集した中華書局の教科書は、どのように編集が進められ、どこで印刷されたのだろうか。楢本氏は鄭逸梅の以下のような文章を引用している。「……革命の成功は、目前にあった。彼(陸費逵)は、なにごともないように商務をあしらう一方で、数人の比較的親密な同僚――戴克敦、陳協恭、沈頤、沈知方たちを秘密に招き、宝山路宝興西里の彼の家に毎晩集合し、新しい教科書編纂を相談した。しかし、編集を終わってもおおやけに印刷することができない。なぜなら商務当局に知られたくなかったし、また清朝の役人の目をごまかさなくてはならなかったからだ。普通の印刷所は、このようないわゆる「大逆不道」の革命本を印刷する勇気などなかった。やむを得ず鴨緑江道にある日本人が経営する作新印刷所に委託して印刷したが、だいたいが二号活字で挿絵は木刻である。」(「中華書局是怎様創始的」『書報話旧』、上海・学林出版社、1983。楢本氏の訳。)

 陸費逵は親しい同僚と自宅で毎晩新しい教科書編纂について相談していたのだ。大胆不敵である。よくも会社にばれなかったものだ。

 なお、印刷について、楢本氏は、中華書局の最初の教科書を印刷したこの「作新印刷所」について、「作新社」であろう、と述べている。

 作新社とは、実践女子学園の創設者である下田歌子が上海に作った出版社である。実践女子学園のHPにはこんな記載がある。「本学園の創立者下田歌子は、かねてより東洋を中心としたアジアの女子教育の連帯を意図しており、明治32年の本校創立以降も、清国女子教育のために本校教員を清国に派遣したり、後の辛亥革命の指導者孫文らとも親交を結ぶほか、明治34年には、上海に【作新社】という出版社を興して、青年層への新知識の普及のために雑誌『大陸』を発刊、更に自著の『家政学』などの翻訳出版を始めるなど、清国における女子教育の普及と女性の社会的地位向上のために積極的に尽力していました。」 孫文とも関係のある下田女史の「作新社」だからこそ、革命教科書の印刷を引き受けたのだろう。

 だが…後に中華書局は、商務印書館が日本の会社・金港堂との合弁会社であることを攻撃する経緯を考えると、その中華書局の最初の教科書が、実は日本人経営の出版社で印刷されていた事実は、私にはとても意外だった。無論、彼等がそうせざるを得ないほど、革命教科書を当時編集印刷することは、辛亥革命前夜の中国出版業界においては危険な冒険でもあったことは分かる。それと同時に、新しい国の誕生に日本人が様々に関わっていたことを感じさせるエピソードでもある。

参考:樽本昭雄『初期商務印書館研究 増補版』(清末小説研究会、2004)
実践女子学園HP(学園便り) http://www.jissen.ac.jp/chuko/cont_06/page_05/index.html

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中華書局の設立と新学制施行と1912年春季始業と教科書2008年10月22日

 1912年元日、中華民国成立と同じ日に中華書局も設立された。中華書局のHPの「中華大事記」には「元日、陸費逵、陳寅、戴克敦、沈頤,沈継方等は2万5千元の資本を集め、上海に中華書局を創設する。陸費逵が局長を任される。編輯所、営業所、発行所を設ける。2月に福州路東側で営業を開始、11月に河南路5号に遷る。中華小学教科書と中華中国及び師範教科書を出版する。『中華教育界』創刊。」とのみ記されている。

 1912年1月19日に新しい国の最初の教育法「普通教育暫行弁法」「普通教育暫行課程標凖」が頒布される。これは臨時の学制ともいうべきもので、ここに清朝時代の学制は廃止となる。そして、1912年3月4日の小中学校の春季始業のとき、新しい国の体制に合わせて編集された中華書局の「中華小学教科書と中華中国及び師範教科書」が教育界を席巻した。従来の教科書は、新しい国の教育法の基準に合わせ訂正をしなくてはならなかった。特に国語科と社会科、修身科は大きく改変を余儀なくされた。民国元年・1912年、春季始業に間に合った教科書は多くなかったのである。

 『小学教科書発展史』で確認したところ、同時期の教科書の中では、中華書局の教科書は「民国元年年3月印刷」(『初等小学毛筆習畫帖全八冊』で確認)である。そしてもう一つ、商務印書館の大ベストセラー『最新国文教科書』は奥付に「民国元年正月訂正初版」の文字がある。これを見つけたときは、意外だった。楢本氏の研究では、商務印書館の訂正教科書の広告が出たのは4月に入ってからである。この奥付の日付を信用するとしたら…確かに、政治的色彩が少なかった『最新国文教科書』こそ、新しい国に合った教材を少々加筆し、清朝時代の教材を削ることで対応できる、最も適した教科書だったかもしれない。政治色が少ないのは、最新教科書シリーズが長い間愛用された由縁でもある。

 中華書局に加え、商務印書館も新学期の教科書販売に間に合ったとすれば…それは考えてみれば至極当然のようでもある。なにしろ、教育部にあって新しい教育法を起草した当人が在籍している出版社であり、新しい国の教育部が何を求めているかについても熟知しているうえ、認可する側だったのだ。

 中華書局は中華民国成立によって大きなビジネスチャンスを掴んだといえるだろう。しかし、商務印書館にとっては、中華書局の出現は間違いなく大きな痛手となった。多くの人材を引き抜かれたために、立ち直りに時間を要し、更に追い打ちをかけるように、競争相手として広告で攻撃され、大きなイメージダウン、損害を被ることになるのである。

 なお、中華民国の最初の学制は1912年9月3日に公布された「学校系統令」であり、「壬子学制」と呼ばれているのが、それである。1912年7月10日に、全国23省及び華僑の代表82人が北京に集められ、中華民国中央臨時教育会議が行われ、学校システムや学校令とカリキュラム、学校細則、社会教育、教育行政等90項目余りについて詳細な討議の末、定められたのである。 (2008年10月28日修正)

参考:樽本昭雄『初期商務印書館研究 増補版』(清末小説研究会、2004)
司琦 著 国立編訳館 主編 『小学教科書発展史』(国立編訳館、2005)
李華興『民国教育史』(上海教育出版社、1997)
中華書局のHP「中華大事記」http://www.zhbc.com.cn/shownews.asp?id=47

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