中国の語文教科書が2014年秋ダイエットに失敗したわけ2015年03月12日

 2014年の夏も終わる頃、中国の語文教科書(日本の国語にあたる)に関わる、今の中国の教育文化と政治の関係を考える上で、実に興味深い、そして不可思議な出来事が起きた。

経緯を追ってみよう。2014年8月26日、「東方網」に「一年前期『語文』の漢詩が全て削除、一部保護者より“減らしすぎでは”の声」[i]というタイトルの記事が載った。2014年秋の新学期から使われる新版の小学一年前期の語文教科書が、旧版と比べ大幅に薄くなり、元々あった漢詩8首が全て削られたのに気づいた一部の保護者から、漢詩の一つ二つくらいは残しても良かったのでは、という不満が出ていると述べ、削除されたテキストの詳細と一部保護者の意見を採り上げている。もちろん、上海の教科書が薄くなったのは、入学直後の児童の負担を軽くする目的で、上海市教育委員会が慎重な討議を経て行った修訂であるとも伝えている。それでも全体として「減らしすぎ」と述べる保護者の側に立っている印象だ。

(新版の江蘇教育出版社の『語文』小学一年前期の目次は以下の通り。前半はピンインの学習で、後半にテキストの学習という構成になっている。実は中華人民共和国においては、建国から1990年代前半までは、文革期の特殊な教材を除けば、小学校の教科書には古典教材は皆無であった。1990年代後半に古典教材を小学校の語文教科書に試験導入したのは上海である。)


上海の語文教科書・小学1年前期・目次1

上海の語文教科書・小学1年前期・目次2

入学直後の児童は学校に慣れるだけで十分忙しい。前期の学習負担を少し軽くして、後期を充実させるというのは、理解できる修訂理由である。一方、教育熱心な親が教科書のレベル低下を心配する気持ちも分かる。記事が出た時点では、両者の意見に少々の隔たりがある、というだけであったと思う。記事に登場する保護者も、子どもの負担を減らすという上海教育委員会の立場に全面的に反対ではなく、教材の削減幅に対して問題を投げかけていた。

ところが、この記事があちこちに転載される中で、議論の焦点がずれていく。いつの間にか「漢詩は削除するべきか」の議論になり、それが9月2日の人民網の記事「負担を減らすのか伝統文化を減らすのか」[ii]に象徴される「中国らしさを減らすのに断固反対する」的流れになった。注目したいのはこの時点で現政権の「中国らしさ重視」「伝統文化重視」というイデオロギー的価値観が付け加わっている事実である。最終的には9月9日、教師節の前日に北京師範大学を訪問した習近平主席の発言「古詩や散文を教科書から削除するのに私は大反対だ。中国らしさを消してしまうのは実に悲しいことだ。学生の頭の中に古典を埋め込んでこそ、中華民族の基礎が作られる」[iii]がとどめを刺して、「上海は伝統文化を重視する主流に外れた、軽率な教科書修訂を行った」という罪が確定した形になった。

更にこの一連の議論と習近平の発言を受けて、迅速に反応したのが北京だった。[iv]北京師範大学語文教育研究所所長の任翔は、習近平の観点を激賞した上で、来年度9月から北京市義務教育の語文教材の古典教材を現在の6~8篇から22篇に増やすと確約、小学校段階で学ぶ漢詩を100篇以上にすると述べた。2011年版「義務教育語文課程標準」推薦の漢詩75篇を優に超えている!

それにしても…元々は子どもの学習の負担を減らそうとしたのが、却って子どもの負担を大幅に増やしてしまったのは皮肉な結果としか言いようがない。ダイエットに失敗してリバウンドしてしまったようなものだ。

論点をずらして世論を味方につけたり、政治的イデオロギーと結びつけて反駁できなくしたり…こうした世論操作が今の時代あちこちに蔓延っている。こうした手法を見抜く力が求められる時代が日本にもすでに訪れている、かもしれない。


[i]「一年上学期《文》古」(東方早報2014826日・中国語)http://www.dfdaily.com/html/3/2014/8/26/1179747.shtml

[ii]上海小学除古:负还是减传统文化(人民网2014902日・中国語)http://renwu.people.com.cn/n/2014/0902/c357069-25585931.html

[iii]近平“好老”:教第一位是“道” 」(201499日・中国語http://news.xinhuanet.com/politics/2014-09/09/c_1112412661.htm

[iv]「北大学生披露制作“大大”标语故事() 」(中国新聞网2014910日・中国語)http://www.chinanews.com/gn/2014/09-10/6579176.shtml




来年秋の中国の地理教科書は「釣魚島」で修訂!?2012年10月21日

 今回の尖閣問題の日中間の紛糾は、中国の地理教育にも影響を及ぼすことになるかもしれない。中国のマスコミ各社は、来年秋の中学二年の地理教科書(人民教育出版社版)の修訂の可能性を伝えている。修訂内容は「釣魚島」、つまり尖閣諸島についてである。

 修訂される前に現行の地理教科書における「釣魚島」の記述をおさえておこう。現在でも「釣魚島」に関する記述は地理教科書に存在する。でもそれは、地図に表示され、「祖国の神聖なる領土-台湾省」の単元で二回登場する程度の小さい扱いに過ぎない。授業の内容の重点も完全に台湾にある。該当ページを訳してみよう。「釣魚島」は本文中一箇所、練習に一箇所ある。


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祖国の神聖なる領土-台湾省

台湾省は台湾島、及び附近の澎湖諸島、釣魚島等の多くの小さな島を含み、総面積約36000平方キロメートル、人口2200万強である。台湾島は我が国最大の島である。北は東海(訳者註:東シナ海)、東は太平洋、南は南海(訳者註:南シナ海)に臨み、西は台湾海峡で福建省と隔てられ向き合っている。

台湾は祖国の神聖にして不可分な領土であり、台湾の人民は我々の血を分けた同胞である。台湾と祖国大陸の統一の実現は、海峡両岸の人民の共通の願いである。

 

(6.22 台湾省)

 

練習

6.22を見て、台湾省の位置と範囲を理解しましょう。

(1)  台湾島、澎湖列島、釣魚島を探しましょう。

(2)  台湾島周囲の海洋と海峡を探しましょう。

(3)  比例尺を利用して、基隆――福州、高尾――厦門の直線距離を計算してみましょう。

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 修訂については、記事にも言及されているが、外交にも関わる敏感問題だけに、人民教育出版社としては上の指示を仰ぐことになる。

現在、中国の教科書は検定制になっているとはいえ、かつては国家共通教科書の担い手であり、今でも全国的に圧倒的なシェアを誇る人民教育出版社の修訂が行われれば他に与える影響は大きいはずである。

(このブログ記事の読者より、人民教育出版社が釣魚島に関連する地理教科書修訂を否定した報道についてご教示いただいた。今後の動向を見守りたい。2013年月2月7日改訂)

参考:「初中地理修訂或細化釣魚島内容・明年秋季進課堂」(中国新聞網、2012914日) http://www.chinanews.com/edu/2012/09-14/4182549.shtml

人教社否認將細化初中地理教材中關於釣魚島的」(鳳凰網、2012914日)

http://big5.ifeng.com/gate/big5/news.ifeng.com/mainland/special/diaoyudaozhengduan/content-3/detail_2012_09/14/17599173_0.shtml?_from_ralated


『義務教育課程標準実験教科書 地理』八年級下冊 (200610月第3版、人民教育出版社)



祖国の神聖なる領土-台湾省1

祖国の神聖なる領土-台湾省




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中国の愛国教育2012年09月04日

一連の反日行動と愛国教育に大きな関連がある、とマスコミが報じ、19948月の「愛国主義教育実施要項」以来、愛国教育が強化されたとしている。しかし、私はむしろ、内容が強化されたというよりは、整備されたに過ぎないと考えている。

それというのも、中華人民共和国建国以来の情況からみれば…かつては全ての教科が愛国教育に彩られていたのであり…現在の愛国教育が占める比重が大きいわけではなく、内容的に大きな変更があったようにも見えないからである。

中国の教科書を研究してきた立場からいえば、反日的要素に限ってみても、以前の方がずっと苛烈で、かつ直接的だった。建国直後の教科書は日中戦争の直後ということもあり、戦時の反日教材がそのまま使われている例も少なくなかったし、比較的穏便になった80年代の教科書でさえ、日本軍と戦って犠牲になった烈士のエピソードが沢山収録されていた。そうした教材の数はいまの方がずっと少ない。そのような情況にもかかわらず、八十後や九十後の若いネットユーザーの間でも反日感情が吹き出す理由が、何かありそうだ。

台湾の地図で学ぶ地理の基礎知識-義務教育課程標準実験教科書『地理』2011年12月13日

思想教育とはこういうものも指すのだろうか。いまの中国の中学生は台湾の地図で基礎知識を学んでいるようだ。義務教育課程標準実験教科書『地理』七年級上冊、を見ていて偶然見つけた。

 この教科書、第一章「地球と地図」第三節「地図」の第一項「地図の基本要素」に見える地図、なんと台湾の衛星写真と台湾島の地図である。説明文はただ地図とは何かを説明する内容で「台湾」の文字はない。七年級というのは日本なら中学校一年生にあたる。恐らく地理のはじめの授業で見る地図、印象は深いはずだ。中国なら中国地図が載るのが普通だろう。それをわざわざ台湾の地図にしている。

今の中国の教科書は以前ほど思想教育的には見えない。かつては沢山載っていた政治家や烈士の逸話は目に見えて減った。でも、いろいろなところに、さりげなく潜んでいるものを見つけるたびに、本質的には変わっていないことに気づかされる。

参考:義務教育課程標準実験教科書『地理』七年級上冊(2001年第一版、人民教育出版社)

中国の地理教科書

中国・中華民国期、三万人の戦災孤児を救った戦時児童保育会2009年07月08日

 戦時児童保育会の編集で生活書店より発行された『抗戦建国読本』特冊(第三版、一九四〇年)を『小学教科書発展史』で見た。これほどに日本帝国主義への憎悪に溢れ、日本人に対する偏見や憎しみが明確な教科書は初めてだった。そこで気になって、戦時児童保育会について調べると、戦時児童保育会は、日中戦争で両親を亡くしたり、親と生き別れになったりした子供を救うために、上海の女性名士の呼びかけによって緊急に創設された超党派の非営利団体であることがわかった。

 もう少し詳しく知りたくなって、取り寄せたのが、『民族之魂――中国戦時児童保育会搶救抗日戦争三万難童紀実』という本だが、これがなかなか重い内容の本である。中国戦時児童保育会、活動期間は1938年から1946年まで、全部で61カ所の児童保育院、孤児院を設立、経費を募金でまかないつつ、三万あまりの戦災孤児(十五歳以下)等を養育した。院内学校では教育も行っていたのであり、前述の教科書は彼らを教育するために実際に使用されていた。

 この本を読んで気づくのは、「中国戦時児童保育会」の政治的立場が非常に微妙なことだ。なんといっても、理事長は宋美齢(蒋介石夫人)、名誉理事長は宋慶齢(孫文夫人)、理事は56名でこの中には鄧(トウ)穎超(周恩来夫人)、はじめ他共産党員の名前もある。国共合作のきっかけとなる西安事件前、女性による超党派の戦災孤児救助活動が行われていたことは、戦後の国民党と共産党の関係の悪化により、大陸と台湾の双方でタブー視され、長い間大きい声で語られることがなかった。

 それに対する配慮もあるのだろう。この本では、中国戦時児童保育会とは直接関係がない、日本軍の子供に対する残虐行為について記述するなど、抗日意識を全面に打ち出している。それでも、長期にわたって封印されてきた歴史的に貴重な証言や貴重な写真が沢山載っており、孤児の救出活動がいかに困難を極めたか、経済的な困難を抱えながら戦時下の保育院経営がどんなに厳しかったか、どんな教育が行われたかなど、具体的な事情が詳しくわかるのがありがたい。

読んでいる本:『民族之魂――中国戦時児童保育会搶救抗日戦争三万難童紀実』(珠海出版社)

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『蟹工船』ブームに思う2009年03月07日

 『蟹工船』ブームが、現代の労働事情を象徴する現象として取り上げられ、度々報じられている。小林多喜二の『蟹工船』が雑誌『戦旗』に発表されたのは1929年。80年後のいまプロレタリア文学である『蟹工船』が若い世代に共感をもって読まれているのは、とても興味深い現象である。

 この『蟹工船』ブーム、きっかけとなったのは、毎日新聞に掲載された作家の高橋源一郎さんと雨宮処凛さんの格差社会をめぐる対談(1月9日付朝刊)であったらしい。でも、そのブームを支えたのは、白樺文学館であろう。白樺文学館は、2006年には中国における小林多喜二研究の振興・奨励するため河北大学と共催で論文コンテストを行い、日本では『マンガ蟹工船』を発行、2007年には小樽商科大学と共催で「『蟹工船』エッセーコンテスト」を行い、更にその結果をもとに『私たちはいかに蟹工船を読んだか―小林多喜二「蟹工船」エッセーコンテスト入賞作品集』を発行するなど、積極的な普及活動を続けている。時代を読み、次から次へと新しい手を打つ、白樺文学館の戦略(?)が当たったようにも見える。

 ところで、「『蟹工船』エッセーコンテスト」には、中国人2名も入賞している。実は、日本では長らく忘れられていた『蟹工船』、中国ではよく知られている日本の小説のひとつだ。小林多喜二『蟹工船』を中国で積極的に評価した人物に中国の著名な作家・夏衍がいる。『蟹工船』が出版されてまもなく、1930年1月に左翼連盟の機関紙『拓荒者』創刊号に「『蟹工船』について」(このとき夏衍は若泌という筆名を使った)という評論を書いて「蟹工船」を絶賛した。「蟹工船」は、1956年の初等中学の国語教科書『文学』にも収録されている。抗日色が強い初期の中国の教科書では特例的だったと思う。

 いまの「蟹工船」ブームはとかく現在の社会状況に重ねて情緒的に語られるが、かつての貧困と今の貧困ではレベルが違うような気もする。今後も冷静にこの現象を見まもっていきたい。

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中国初の国産教科書?1879年発行の(陽湖)楊少坪編訳『英字指南』2009年01月15日

 中国の中国人編纂による最初の教科書は、1896年に創設された南洋公学師範院の教師と学生が編纂した1898年発行の『蒙学課本』(上中下)であると思っていたのだが、どうも違うらしい。「観点:多くの外来の科学技術用語は日本製ではなかった」(『北京晩報』2001年5月31日)という記事によれば、1879年発行の英語教科書が発見されたというのだ。

 その教科書は、1879年発行の(陽湖)楊少坪編訳『英字指南』(求志草堂出版、線装本、全6巻、約500頁。)である。社会科学院で博士号をとったという張斌氏が、2000年の夏、北京のアンティークマーケットで見つけ購入した。本の自序によれば、「楊少坪は上海広方言館(外語学校)の卒業生で、成績優秀だったことから、この教材を編訳した」とあるらしい。また、「脱稿後に日本領事の品川忠道に見て貰うようにお願いしたが、長い間戻ってこなかった」とも。

 北京晩報の記者は『英字指南』の実物を確認している。字の書き方や発音等の入門から、基礎単語帳に加え、貿易やビジネス用語などを網羅した内容らしい。興味深いことに、この英語教科書、英語の発音を中国語の呉方言で標記している。例えば、“custom”を“可史脱姆”、“mother”を“末此安”としているそうだ。近代化の初期に、呉方言による英語標記が行われたことで、現在でも多くの外来語の語彙に呉方言の影響が見られるという。

 ところで、この記事、タイトル「観点:多くの外来の科学技術用語は日本由来ではなかった」とあるように、話の焦点は要するに「『英字指南』の発見で、日本で翻訳されて後に中国へ輸入されたと思われていた科学技術関連の語彙について、中国人が先に翻訳したものを日本人が借りて使っていたことがわかった」ということにある。その論拠は化学元素名や「bank=銀行」「museum=博物院」などの翻訳語彙が、『英字指南』に記載されていた、というところにあるらしい。

 しかし、そう断じるには早計すぎるだろう。1879年といえば、すでに日本の近代化の影響が及んでいる時期である。自序にあった編訳者がわざわざ日本領事に脱稿した原稿を見て貰おうとした経緯も気になる。また、前述したように(本ブログ2008年12月25日「中国・清末、出版業の近代化」を参照)、キリスト教系の出版社が欧米の自然科学の専門書を翻訳し発行することで、欧米の自然科学の伝播が始まった時期でもあったし、ミッション系の学校では欧米の教科書を翻訳して授業に使っていた。だからどこかに原本、或いはおおいに参考にした本もあるかもしれないとも思う。なにはともあれ、一度よく見てみたいものだ。

 ちなみに『英字指南』よりも少し時期は下るが、他にも1895年鍾天緯編の『語体文教本』というのもあるらしい。

参考:北京晩報2001年「観点:大量外来科技匯并非来自日本」http://tech.sina.com.cn/o/69289.shtml (中文)

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体操服から軍服に着替えた理由(体操科の教科書)2008年12月08日

日本の底本『小学普通体操法』と中国の翻訳本『蒙学体操教科書』のイラスト
 以前書いた「いつ着替えたの?――『蒙学体操教科書』(体操科・1903年)」(当ブログ2008年5月12日の記事)では、中国で翻訳された体操科の教科書『蒙学体操教科書』(無錫 丁錦著、上海 文明書局、光緒29年・1903年)と、底本と見られる日本の坪井玄道,田中盛業編『小学普通体操法』(金港堂、1884年・明治17年)第一冊のイラストに、服装の違いがあることを紹介した。

 それは具体的には、日本の『小学普通体操法』にはシャツとズボンという体操服らしいものを着た人物が、翻訳書には軍服を着た軍人らしき人物が描かれていることを指していた。このときは「いつ着替えたのだろう?」という疑問符で終わっていた。ただ、1888年・明治21年に改訂された事実だけを述べて、このとき書き換えられた可能性を提示しただけだった。残念ながら、国会図書館の近代デジタルライブラリーには『小学普通体操法』の1888年・明治21年改訂版の画像がないので、確認ができなかった。でも、『近現代日本教育』をじっくり読み直す中で、これに根拠を与える記述を見つけた。

 『近現代日本教育』によれば、1886年学校令の施行期、「日本を世界の列強とならぶ第一等国の地位にまで高めることを目標とする教育政策」により、師範学校や小学校に兵式体操を取り入れたことに言及している。これは「軍隊式の教育によって国民の[元気]を育てることを重んじ、生徒に対してもとくに順良・信愛・威重の気質を求め」るものであったという。

 『小学普通体操法』は改訂版が1888年・明治21年に出ているが、これは1886年の小学校令に合わせるための改訂であったと考えられるのであり、このとき挿絵の人物が体操服から軍服に着替えたのではないか。それはまさに上記のような教育政策に合わせたものと推察されるのである。

 したがって、1888年・明治21年に出た改訂版こそが恐らく中国で翻訳出版された『蒙学体操教科書』の底本であろうと思われる。一応以前も載せた二つのイラストを載せておく。

 『小学普通体操法』の1888年・明治21年の改訂版、WEBCATで調べたら、日本の大学に2冊あることが分かった。そのうちの一冊は我が母校に(^^)。これを見れば事実確認ができるので、機会を見つけて確認に訪れたいものである。

参考:海後宗臣/著 仲新/著 寺崎昌男/著『教科書でみる 近現代日本の教育』(東京書籍、1999)

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日本の「手工科」の影響を受けた中国・清末民初の「手工科」教科書2008年12月05日

中華民国『共和國教科書新手工』(『小学教科書発展史』より)
 『小学教科書発展史』に面白いものを見つけた。目を引いたのは、これに折り鶴や蛙、アヤメの折り方が載っていたからだ。一つは『小学手工教科書(教師用書)』(光緒34年5月初版9月再版、商務印書館)、清末の「手工科」の教師用の指導書であり、もう一つは『共和國教科書新手工』(中華民国3年・1914年初版、11年・1922年第6版、商務印書館)、中華民国の「手工科」の教科書である。解説によれば、この二冊の教材内容はほぼ同じであるらしい。『小学手工教科書(教師用書)』には「編輯大意」があり、日本の文部省編の『手工教科書』、棚橋氏の『手工教授書』を基礎に編纂したと書かれている。

 そこで調べてみると、それらしい本が見つかった。棚橋源太郎,岡山秀吉著『手工科教授書』(東京:宝文館・東洋社、明治38・1905年)である。書名は少し違うが、著者も符合するし、内容を確認すると、中国で出版された教科書と同じイラストが使われていることが分かった。「色板」の説明部分を読み比べたところ、内容はほぼ同じながら、補筆してあるところがあったり、削除してあるところがあったりする。従って中国・清末の『小学手工教科書(教師用書)』は、棚橋源太郎,岡山秀吉著『手工科教授書』の簡訳版というところである。一方、文部省編『手工教科書』については巻7・巻8(大日本図書、明治37年・1904年)しか見つからず、残念ながら同じイラストは確認できなかった。

 ところで、同じ出版社である商務印書館から出されているのに、『共和國教科書新手工』には「編輯大意」がない。この教科書が出版されたのは1922年、1915年の日本の対華21条要求、1918年の五四運動、1921年の中国共産党誕生…中国のナショナリズムが一気に高揚した時期である。私の勝手な想像だが、ナショナリズムの気配が強まる中国社会の空気が、日本の教科書の翻訳であることを説明することをためらわせたのではないだろうか。

 なお、鹿野公子氏の論文「明治期における手工科の形成過程」によれば、「手工科」はパリ万博(明治11年・1878年)を境に高まった欧米の実業教育科目の学校導入の流れに影響を受けたものであるらしい。技術教育振興の気運が高まっていた日本で制度上「手工科」という科目が登場したのは、明治19年・1886年の第一次小学校令に基づき定められた「小学校ノ学科及其制度」からであった。「小学校ノ学科及其制度」の第3条に高等小学校の加設科目として挙げられている。手工科は日本でも加設科目になったり、随意科目になったりを繰り返した学科で、昭和16年・1941年には「作業」「工作」という名前に変更され、後に中学校の「技術」科・小学校の「図画工作」へと発展したと言われている。

参考:『小学教科書発展史』(国立編訳館、2005、中国語)
鹿野公子「明治期における手工科の形成過程?上原、岡山、後藤、一戸の手工教育観をもとに」(日本大学教育学会 教育学雑誌32、1998)

近代デジタルライブラリーで棚橋源太郎,岡山秀吉著『手工科教授書』(東京:宝文館・東洋社、明治38)を見ることが出来ます。
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40040575&VOL_NUM=00000&KOMA=1&ITYPE=0 表紙
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40040575&VOL_NUM=00000&KOMA=139&ITYPE=0 折り鶴

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日本教科書制度(検定制から国定化)が中国の初期教科書制度に与えた影響――日本の教育法令の歴史112008年12月02日

 検定制度の実施とともに、文部省では伊沢修二を編集局長として、積極的に教科書の編集を始めている。これは民間の教科書に一つの標準を示すことによって、教科書の改善を図ろうとしたものであったという。

 日本の文部省が以上のような意図をもって行った教科書編集は、中国清末の初期の教科書制度に少なからず影響しているようである。清政府も、近代教育導入の初期、1901年12月の時点においては、京師大学堂(北京大学の前身)に編訳書局を設置し、内外の専門家を集めて「学堂章程」の課程計画の規定に基づき、目次を編集、次に目次を学務大臣が審査、その後、「各省の文士が、政府の発行した目次に基づいて教科書を編纂すれば、学務大臣の審査を経て、使用することとする」と檄を飛ばして民間教科書を奨励し、簡単な検定制度の運用を開始している。

 ところが翌年明治35年・1902年に、日本では学校の教科書採用をめぐる教科書会社と教科書採用担当者との間の贈収賄事件が発覚する。「教科書事件」或いは「教科書疑獄事件」と呼ばれる教育史上前例のない大不祥事事件であった。40都道府県で200名以上が摘発され、それは県知事、文部省担当者、府県採択担当者、師範学校校長や小学校長、教科書会社関係者などであり、116名が有罪判決を受けるという大事件であり、教科書疑獄事件に関係した会社が発行する教科書は採択禁止となったのである。そこで日本政府はかねてから話題とされていた国定制度をこの機会に一挙に実施する。明治36年・1903年4月、小学校令改正により「小学校ノ教科用図書ハ文部省ニ於テ著作権ヲ有スルモノタルヘシ」(第三次小学校令第24条)と教科書の国定制度が規定されたのであった。

 上記のような日本の突然の教科書国定化は、新しくできたばかりの中国清政府の教科書制度にも影響を及ぼしたようである。1904年、京師大学堂の編訳書局は廃止されている。更にそれを引き継いで教科書編集を担ったのは、学部(1905年11月に設立)に1906年6月設置された編訳図書局である。京師大学堂の編訳書局廃止から学部設立までの間には空白がある。これは新しい学制 「奏定学堂章程(癸卯学制)」施行によるものかもしれないが、清政府の教科書編纂機関は一時期なかったことになる。

 学部・編訳図書局は、日本の国定教科書のように全国の初等教育を普及し統一することを念頭に、価格を安く抑え、複製も許可していたという。教科書国定化を視野に入れていたと見て良いだろう。もっとも、近代教育を導入して30年になる日本と、近代教育制度を導入したばかりの中国では、情況が全く異なっていた。中国では学部の教科書では間に合わず、民間の教科書を検定して採用するしかなかった。この学部教科書は児童心理に即した内容でないことや、管理、印刷が悪い等々批判が絶えなかったようである。

 (なお、中国初期の清政府による教科書編纂事情については、当ブログの記事、2008年10月4日「中国・清末、清政府が設立した京師大学堂編書処による教科書編纂」及び5日「中国・清末、清政府が設立した学部・編訳図書局による教科書編纂」をご参照ください。)

参考:海後宗臣/著 仲新/著 寺崎昌男/著『教科書でみる 近現代日本の教育』(東京書籍、1999)

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