「中華民国元年正月訂正初版」の商務印書館『訂正 最新高等小学国文教科書』第一冊2008年10月24日

「中華民国元年正月訂正初版」の中華民国高等小学用『訂正 最新国文教科書』奥付
 奥付に「中華民国元年正月訂正初版」とある教科書を『小学教科書発展史』で見つけた。先に紹介した商務印書館『最新高等小学国文教科書』である。正しくは書名の最初に「訂正」と入って、『訂正 最新高等小学国文教科書』である。中華民国成立が1912年1月1日、新しい国の臨時の学制が1月19日に頒布されたばかりの同じ月に、新しい国の方針に合わせた教科書を出版したことになる。革命成功を確信して教科書編纂をすすめていた中華書局の教科書よりも早い日付で、しかも、楢本照雄『初期商務印書館研究』によれば、保守的な首脳陣のもと、革命の成功を予測出来ず完全に後手に回っていたという商務印書館が…とても意外であった。

 表紙には「中華民国高等小学用」とあり、書名は『訂正 最新国文教科書』第一冊となっている。第一冊について目次を確認すると、全六〇課中、「第一課 政体之別」「第二課 共和政体」「第三課 我国革命」「第四課 人民之権利義務」、他に共和国の宗旨から考えるに「第五課 尊重人類」「第二四課 男女」あたりは加筆された可能性が高い。

 この内、『小学教科書発展史』に載っているのは、第一課から第三課だけだが、これだけでも確認出来たのはありがたいことだ。さて、内容だが、「第一課 政体の別」は君主専制が今の世に不適であることを指摘し、君主立憲制と民主立憲制を肯定する内容、「第二課 共和政体」は君主専制の問題や弊害を述べ、共和制のあり方、即ち国民による選挙で選ばれた議員と総統が国会と政府を組織するという仕組みを紹介し、アメリカ独立戦争やフランス革命など他国の共和制の成り立ちにも言及し賞賛している。「第三課 我が国の革命」は近年の清朝の貴族の専横と腐敗を指摘し、革命の正当性と辛亥革命が起こった経緯、及び中華民国が成立するまでの清朝との交渉について述べ、中華民国誕生を説明する内容となっている。

 これくらいの加筆なら、新しい共和国の宗旨に通じている人間が編集スタッフにいれば、1月出版でも十分間に合うだろう。無論、全八冊あるのだから、それぞれに訂正、加筆が施されたには違いない。奥付の編纂者には高鳳謙、張元済、蒋維喬の三名の名前が見える。蒋維喬は前述のとおり、中華民国初期の教育部の秘書長であるから、加筆も訂正も、最も適任であったろう。また、これは全くの筆者の推測だが、他の出版社に、新しい学制による教科書訂正の見本として示す為に急ぎ用意されたものかもしれない。

 ところで、ここで気になるのが、以前は奥付にあった日本人の校訂者の名前が消えていることだ。これについてもいろいろ事情があるようなので…そのうち紹介しようと思っている。 (2008年10月28日修正)

参考:司琦 著 国立編訳館 主編 『小学教科書発展史』(国立編訳館、2005)

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日本人経営の印刷会社で誕生した中華書局の教科書2008年10月23日

 ところで、陸費逵等が秘密で編集した中華書局の教科書は、どのように編集が進められ、どこで印刷されたのだろうか。楢本氏は鄭逸梅の以下のような文章を引用している。「……革命の成功は、目前にあった。彼(陸費逵)は、なにごともないように商務をあしらう一方で、数人の比較的親密な同僚――戴克敦、陳協恭、沈頤、沈知方たちを秘密に招き、宝山路宝興西里の彼の家に毎晩集合し、新しい教科書編纂を相談した。しかし、編集を終わってもおおやけに印刷することができない。なぜなら商務当局に知られたくなかったし、また清朝の役人の目をごまかさなくてはならなかったからだ。普通の印刷所は、このようないわゆる「大逆不道」の革命本を印刷する勇気などなかった。やむを得ず鴨緑江道にある日本人が経営する作新印刷所に委託して印刷したが、だいたいが二号活字で挿絵は木刻である。」(「中華書局是怎様創始的」『書報話旧』、上海・学林出版社、1983。楢本氏の訳。)

 陸費逵は親しい同僚と自宅で毎晩新しい教科書編纂について相談していたのだ。大胆不敵である。よくも会社にばれなかったものだ。

 なお、印刷について、楢本氏は、中華書局の最初の教科書を印刷したこの「作新印刷所」について、「作新社」であろう、と述べている。

 作新社とは、実践女子学園の創設者である下田歌子が上海に作った出版社である。実践女子学園のHPにはこんな記載がある。「本学園の創立者下田歌子は、かねてより東洋を中心としたアジアの女子教育の連帯を意図しており、明治32年の本校創立以降も、清国女子教育のために本校教員を清国に派遣したり、後の辛亥革命の指導者孫文らとも親交を結ぶほか、明治34年には、上海に【作新社】という出版社を興して、青年層への新知識の普及のために雑誌『大陸』を発刊、更に自著の『家政学』などの翻訳出版を始めるなど、清国における女子教育の普及と女性の社会的地位向上のために積極的に尽力していました。」 孫文とも関係のある下田女史の「作新社」だからこそ、革命教科書の印刷を引き受けたのだろう。

 だが…後に中華書局は、商務印書館が日本の会社・金港堂との合弁会社であることを攻撃する経緯を考えると、その中華書局の最初の教科書が、実は日本人経営の出版社で印刷されていた事実は、私にはとても意外だった。無論、彼等がそうせざるを得ないほど、革命教科書を当時編集印刷することは、辛亥革命前夜の中国出版業界においては危険な冒険でもあったことは分かる。それと同時に、新しい国の誕生に日本人が様々に関わっていたことを感じさせるエピソードでもある。

参考:樽本昭雄『初期商務印書館研究 増補版』(清末小説研究会、2004)
実践女子学園HP(学園便り) http://www.jissen.ac.jp/chuko/cont_06/page_05/index.html

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中華書局の設立と新学制施行と1912年春季始業と教科書2008年10月22日

 1912年元日、中華民国成立と同じ日に中華書局も設立された。中華書局のHPの「中華大事記」には「元日、陸費逵、陳寅、戴克敦、沈頤,沈継方等は2万5千元の資本を集め、上海に中華書局を創設する。陸費逵が局長を任される。編輯所、営業所、発行所を設ける。2月に福州路東側で営業を開始、11月に河南路5号に遷る。中華小学教科書と中華中国及び師範教科書を出版する。『中華教育界』創刊。」とのみ記されている。

 1912年1月19日に新しい国の最初の教育法「普通教育暫行弁法」「普通教育暫行課程標凖」が頒布される。これは臨時の学制ともいうべきもので、ここに清朝時代の学制は廃止となる。そして、1912年3月4日の小中学校の春季始業のとき、新しい国の体制に合わせて編集された中華書局の「中華小学教科書と中華中国及び師範教科書」が教育界を席巻した。従来の教科書は、新しい国の教育法の基準に合わせ訂正をしなくてはならなかった。特に国語科と社会科、修身科は大きく改変を余儀なくされた。民国元年・1912年、春季始業に間に合った教科書は多くなかったのである。

 『小学教科書発展史』で確認したところ、同時期の教科書の中では、中華書局の教科書は「民国元年年3月印刷」(『初等小学毛筆習畫帖全八冊』で確認)である。そしてもう一つ、商務印書館の大ベストセラー『最新国文教科書』は奥付に「民国元年正月訂正初版」の文字がある。これを見つけたときは、意外だった。楢本氏の研究では、商務印書館の訂正教科書の広告が出たのは4月に入ってからである。この奥付の日付を信用するとしたら…確かに、政治的色彩が少なかった『最新国文教科書』こそ、新しい国に合った教材を少々加筆し、清朝時代の教材を削ることで対応できる、最も適した教科書だったかもしれない。政治色が少ないのは、最新教科書シリーズが長い間愛用された由縁でもある。

 中華書局に加え、商務印書館も新学期の教科書販売に間に合ったとすれば…それは考えてみれば至極当然のようでもある。なにしろ、教育部にあって新しい教育法を起草した当人が在籍している出版社であり、新しい国の教育部が何を求めているかについても熟知しているうえ、認可する側だったのだ。

 中華書局は中華民国成立によって大きなビジネスチャンスを掴んだといえるだろう。しかし、商務印書館にとっては、中華書局の出現は間違いなく大きな痛手となった。多くの人材を引き抜かれたために、立ち直りに時間を要し、更に追い打ちをかけるように、競争相手として広告で攻撃され、大きなイメージダウン、損害を被ることになるのである。

 なお、中華民国の最初の学制は1912年9月3日に公布された「学校系統令」であり、「壬子学制」と呼ばれているのが、それである。1912年7月10日に、全国23省及び華僑の代表82人が北京に集められ、中華民国中央臨時教育会議が行われ、学校システムや学校令とカリキュラム、学校細則、社会教育、教育行政等90項目余りについて詳細な討議の末、定められたのである。 (2008年10月28日修正)

参考:樽本昭雄『初期商務印書館研究 増補版』(清末小説研究会、2004)
司琦 著 国立編訳館 主編 『小学教科書発展史』(国立編訳館、2005)
李華興『民国教育史』(上海教育出版社、1997)
中華書局のHP「中華大事記」http://www.zhbc.com.cn/shownews.asp?id=47

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中国・中華民国初期、中華書局誕生秘話32008年10月21日

 引き続き、中華書局誕生の経緯について、樽本昭雄『初期商務印書館研究 増補版』を見ていきたい。

 陸費逵は、1910年に教科書を秘密に編纂し発行を図ったが事前に発覚して計画は潰された。商務印書館は高夢旦に交渉役を任せ、高額で教科書の原稿を買い取ることで話をつけ、更に陸費逵の給料を上げることで慰留した。とにもかくにも陸費逵は商務印書館に残った。普通ならこれで終わるところだ。それにもかかわらず、陸費逵は1911年秋に再び秘密で教科書を編集し、1912年元日に中華書局を立ち上げるという行動に出るのである。楢本氏は、この二つの秘密行動の間にもう一つの出来事があったことを示唆している。

 それが陸費逵をはじめとする商務印書館内の教科書改革を必要と考えるグループが、商務印書館の首脳部に革命以後の教科書を用意するよう進言をしたが拒否された、という出来事である。楢本氏が依拠しているのは、これも蒋維喬の証言である。「この時、革命の勢いが日増しに強くなり、商務(印書館)の同僚のなかで将来の見通しを持った人たちは、革命後に適用する教科書1セットを準備するべきだと菊生(張元済)に勧めた」(『中国現代出版史料』下冊・1959年。樽本氏の訳。)

 ここで整理してみると…つまり、商務印書館の事業基盤である教科書は、このとき、激しく変化する政治状況に対応出来ないものになりつつあったのである。だからこそ、はじめ陸費逵は独自に教科書を作り、それが挫折すると、他の「将来の見通しを持った」同僚とともに、革命後に対応した教科書の作成を会社の首脳陣・張元済に進言したのだ。(このとき社長の夏瑞芳はゴム投機で失敗して14万元の損失を出したことで精神的にまいっていたため、張元済が舵取り役を担っていた。)しかし、せっかくの進言も、保守的な張元済には受け入れられなかった。陸費逵等は商務印書館に将来性をみいだせなくなり、失望した。そしてついに、独立を決意し、革命後に通用する教科書を密かに用意することにしたのである。この出来事からは、商務印書館の首脳陣の保守性が、「将来の見通しを持った」陸費逵等を秘密行動に走らせた、という面があったことを感じさせる。

 ところで、この後、1911年に清朝打倒の革命の潮流を目の当たりにした商務印書館の首脳陣は、来学期の教科書を従来のまま印刷することを躊躇い、革命教科書の作成を検討したことがあったという。このとき、商務当局に相談されて、革命教科書の必要性を否定したのが陸費逵であった。このことは後を引いて、商務側は後々まで陸費逵に大きな不信感を抱き続けることになる。

 一方、せっかくの進言が受け入れられなかった陸費逵等の側から見れば、すでに商務印書館の首脳陣に失望していた。一度拒否されているにもかかわらず、いまさら相談を持ちかけられても真面目に対応する気になれなかったのだろう、と樽本氏は推測している。まして、すでに別の書局創設の準備を進めていた時期であれば、余計なライバルを作りたくないと考えて自然である。

 少なくとも、樽本氏が、二つの秘密行動の間にあったもう一つの出来事を見いだしたことによって、二つの秘密行動の理由と、後の商務印書館と中華書局の衝突の数々の原因の一つが解明されたようである。

 中華書局設立までの経緯はここまで。次回は中華書局成立直後の経緯について見てみます。

参考:樽本昭雄『初期商務印書館研究 増補版』(清末小説研究会、2004)

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中国・中華民国初期、中華書局誕生秘話22008年10月20日

 中華民国成立直前に陸費逵等が新教科書を秘密編集していたという事実は複数の証言者の証言があり、間違いのない事実である。この事実は基本的に、陸費逵には先見の明があり、辛亥革命が成功すると信じ、革命後の教育に適応した教科書の必要性を見越して行われた愛国的行為、と解釈されてきたように思う。でも、もしも、以前にも教科書の秘密編集という行為が行われ、それで陸費逵等が多額の営利を得ていたとしたら、どうだろう。

 樽本氏は商務印書館関連の資料を博捜するなかで、1910年に別の教科書のセットが陸費逵等によって社外で秘密編集されていたことをつきとめた。証拠として樽本氏が引用しているのは、蒋維喬の証言である。「……実は陸は野心に燃えており、社外で共謀して小学教科書フルセットを密かに編集した。その実、国文、算術、歴史、地理、理科など最初の一冊だけができていたにすぎなかったが、すぐさま広告をうって宣伝したのだった。商務側では夏瑞芳、張元済がこれを見て大いに驚き、高夢旦に責任をもって交渉させた。その結果、原稿を高値で購入し、伯鴻に対しては給料を増額したのだ。(陸費)伯鴻のこの行動はまったくユスリ主義であり、大金を欲して資本とし、さらに意図するところがあったのである。高夢旦たちは困惑するし、だまされてしまったのだが、夏瑞芳、張元済たちはその内幕を知らなかった」(『中国現代出版史料』下冊・1959年。樽本氏の訳。樽本氏は蒋維喬が「陸費」を「陸」と誤記していることも指摘している)

 上の蒋維喬証言を樽本氏は当初辛亥革命直前の秘密行動を指していると考えていたという。樽本氏ばかりでなく、他の研究者もみなそう思っていた。だが樽本氏の探究はここで終わらず、「原稿を商務印書館が購入した」という記述が奇妙であることから、もう一つの秘密行動の存在の可能性に気が付く。

 樽本氏は証言を裏付ける証拠として、蒋維喬の1910年2月23日の日記に「正月14日 朝9時、夏粋翁(瑞芳)の求めで赴き、陸費伯鴻が外で教科書を密かに編集したこと、会社はそれを購入するつもりだということについて議論をする。私は賛成もせず、また反対もしなかった」(『蒋維喬日記選』1992年。樽本氏の訳。「伯鴻」は陸費逵の字)と記されていることを挙げている。蒋維喬は、高夢旦よりも早く商務印書館に入社しており、教科書編集の熟練者であり、中華民国成立に際しては蔡元培率いる教育部の秘書長を拝命して陸費逵とともに「普通教育暫行弁法」を起草した人物であり、当時の内部事情に最も通じている一人だから、その証言は重い。それにしても、当時の関係者も記憶が曖昧で、長い間忘れられていた重大な事実を、樽本氏が緻密な史料研究と論理構築によってつきとめたことは素晴らしい。研究とはこうありたいものである。

 さて、話を元に戻すと、要するに、陸費逵は非常に野心的な人物で、辛亥革命直前ばかりでなく、1910年にも教科書を秘密編集していた。そして、このときは、商務印書館は原稿を高額で購入するという方法で問題を処理していた。この教科書は時期的に見ても革命に即した内容であるわけがないから、陸費逵は既にこの時期に独立を考えていたのを、後見人的な人物・高夢旦によって慰留された、ということだろう。そして、陸費逵は多額の営利を得て、給料まで増額された。蒋維喬等同僚の目にはそれがユスリ的行為に映ったのだ。

 でも、上記のもう一つの教科書秘密編集だけで、陸費逵と中華書局を評価するのは尚早である。樽本氏は大事な視点を他にも提供してくれている。長くなったので、これは次回に。

参考:樽本昭雄『初期商務印書館研究 増補版』(清末小説研究会、2004)

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中国・中華民国初期、中華書局誕生秘話12008年10月19日

 教育部最初の学制を起草した蒋維喬、陸費逵は、商務印書館の社員であった。ところが、陸費逵は友人等と密かに新しい教科書を準備して、1912年元旦、即ち中華民国が成立した日に中華書局を創設する。このあたりの事情について詳しいのが、樽本昭雄『初期商務印書館研究』である。後々商務印書館と中華書局がことあるごとに衝突したのは、中華書局成立時の事情に起因するという。以下、樽本氏の本に沿って、中国・中華民国時代の教科書編集で重要な役割を果たした二つの出版社の衝突の原因となった「事情」を見ていくことにする。

 まずは商務印書館から独立する前の経歴から陸費逵の人物像を確認しよう。陸費逵(1886-1941)、陸費は複姓、字は伯鴻、浙江桐郷の人。若い頃『時務報』を閲覧し新思想の影響をうけた。南昌で人と正蒙学堂を経営、英語と日本語を学び、武昌で新学界書店を創設し革命関係書籍を売るなどしている。そればかりか革命団体日知会に参加し、革命活動を行った。1905年、漢口『楚報』の主筆になるが、張之洞によって封鎖されると上海に逃れる。昌明公司上海支店(書店)社長と編集を兼ね、上海書業商会の準備活動に参加したあと、1906年、文明書局職員、文明小学校校長および書業商会補習所教務長をも兼任した。

 商務印書館の高夢旦は書業商会でよく顔を合わせる陸費逵の才能と経験に目をつけ、張元済と相談のうえ、陸費逵を高給で商務印書館に招いた。高夢旦23歳の時である。1908年秋、陸費逵は、国文部編集者として商務印書館に入社し、翌1909年発には出版部部長兼『教育雑誌』主編及び師範講義部主任となった。

 樽本氏は陸費逵が文明書局から商務印書館時代にかけて編集を担当した教科書が、地理学、倫理学、算術、商業と範囲が広いことに注目し、陸費逵が教科書の編集の才能に恵まれていたと推測している。その一方で、陸費逵はその経歴から分かるように、革命思想を抱き、編集の才能があり、自立心が強い人物であり、常識的に考えて、日本の金港堂との合弁会社である商務印書館に大人しく勤務できるはずもないだろうとも述べている。

 中華書局創立前後の事情については、長くなるので、次回にします(^^)
 
参考:樽本昭雄『初期商務印書館研究 増補版』(清末小説研究会、2004)

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中国・中華民国初期、画期的な教育制度の登場――南京臨時政府時期の教育制度2008年10月16日

 1911年10月10日、武昌起義に始まる辛亥革命により、1912年1月1日・元旦、孫文(孫中山)は南京において中華民国臨時大総統の宣誓を行い、中華民国の成立を宣言した。この時点では清朝政府も存続していたが、同年2月12日に清朝の皇帝、宣統帝である愛新覚羅溥儀が退位して、中華民国は中国を代表する政府となる。

 孫文に新しい国の教育を任されたのは蔡元培であった。同年1月5日、臨時大総統孫文により蔡元培を南京臨時政府の教育総長に任命(3日の中国南部の17省代表会議で選ばれていたのを正式に任命)、1月9日には南京臨時政府教育部が設立された。その後、同年1月19日には「普通教育暫行弁法」「普通教育暫行課程標凖」が頒布され、中華民国最初の学制が敷かれることになる。

 新しい学制では、学堂は「学校」に名称が改められ、監督や堂長は一律に「校長」となり、陽暦の3月4日に一律に開学することになった。二期制が採られ、一学期は夏休みまで、二学期は夏休み終了後から二月末までと決められた。更に初等小学校においては、男女共学も認められた。この「普通教育暫行弁法」施行により、清朝政府の学制が廃止された。

 一方、教科書については、「全ての各種教科書は共和国民宗旨にそうものでなくてはならない。清・学部頒布の教科書は一律使用禁止とする。」「全ての民間に通用している教科書は、満清朝廷、旧時の官制や軍制等を讃える内容や、避諱(歴代皇帝の諱を避ける風習)や抬頭(敬意を表現する書式。詳しくは下記※参照)については各書局において自主的に修改し、見本を本部に提出して、本省民政司と教育総会の検査を受けること」等、定められた。

 また、同時に頒布された「普通教育暫行課程標凖」によれば、初等小学校は、必修科目が修身、国文、算術、遊戯、体操、状況次第で図画、手工、唱歌から一科目から数科目加えることが出来、更に女子は裁縫が必修とされた。高等小学校は、修身、国文、算術、中華歴史、地理、博物、理化、図画、手工、体操(兼遊戯)で、状況次第で唱歌、外国語、農工商の一科目から数科目を加えることが出来、ここでも女子は裁縫が必修だった。

 この中華民国最初の教育改革は、清朝時代の教育制度の廃止、及び伝統的な読経中心の教育内容を根本的に変えることが目指され、また初等小学校における男女共学を認めた、画期的な内容であった。 (修正2008年10月17日)

※「抬頭」=改行の上、皇太后・祖宗なら三文字、皇帝や皇帝に関わる言葉などは二文字、皇帝の付属物である京師、国家などは一文字持ち上げて書くこと。公文書はもちろん、科挙の答案などでも、厳格に守られた。

参考:呉洪成『中国小学教育史』(山西教育出版社、2006)

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ジョセフ・カーンの記事「マオはどこに?中国の歴史教科書の改訂」――佐藤公彦『上海版歴史教科書の「扼殺」-中国のイデオロギー的言論統制・抑圧』を読む42008年10月11日

 2001年から編纂作業が行われ、試行期間や幾多の審査を経て、蘇智良主編の上海版歴史教科書の正式使用が始まったのは2006年9月である。正式使用開始に合わせ、2006年9月1日、「ニューヨークタイムズ」にジョセフ・カーンの記事“Where's Mao? Chinese Revise History Books”(マオはどこに?中国の改訂版歴史教科書)が掲載された。英語は苦手だが、何しろこの騒動の元になった記事である。佐藤氏の本と照らし合わせつつ、原文を見て、いろいろ考えた。

 書き出しは「今秋、上海の中高校生は彼等の歴史教科書を開いたとき、きっと驚くことだろう。この改訂版教科書は戦争や王朝、共産主義革命は欠落し(原文: drops)、経済、技術、社会慣習、グローバル化に好意的である。」というものだ。そのあと、「高校生の歴史教科書では社会主義関連は一単元になり」「毛沢東には一回しか触れていない」という問題になった文に続く。毛沢東については他にも「マオは、国家創始者の父として中学で学習するが、高校では1976年のマオの国葬の半期掲揚などの習慣についての学習の中でちょっと述べられているだけだ。」という記述もある。実際のところ、毛沢東の記述については…主編の蘇智良がインタビューで述べているところによれば、毛沢東は全8冊を通じて120回登場するといい、このインタビューを行った『南方週末』の記者が高3の上冊で数えたところ毛沢東が27回登場しているというから、明らかに誤報である。でもジョセフ・カーンの「マオはどこに?…」のタイトル及びこの記述が印象的過ぎて、後で事実とは違うことを蘇智良が主張しても一度作られたイメージを払拭できなかった。また、一方で、誤報ながら批判者に批判の糸口を与えてしまったとも言えるだろう。

 ジョセフ・カーンは副主編の周春生上海師範大学教授にもインタビューしている。周は「従来の、指導者と戦争が中心の歴史ではなく、人民と社会を中心にした歴史にした。これはブローデルの歴史学がいう、文化、宗教、社会慣習、経済、イデオロギーを含む全体史を念頭に置いている。受け入れられるのには時間がかかるだろうが、欧米ではそうなっている」と語った。ブローデルについては、以前『入門・ブローデル』というのを読んだくらいの知識しかないのだけれど…中国の歴史学者はどのようにブローデルの全体史を解釈しているのだろう。

 記事そのものは全体として好意的に書かれていると思う。しかしながら、上海版歴史教科書の改革へのジョセフ・カーンの分析と評価は、刺激的過ぎ、大事な部分で間違いもあり、中国のタブーに触れるものであり、改革の本質を十分に捉えていなかったような気がする。そして結果として上海版歴史教科書の使用禁止を招いてしまった。この記事を書いたジョセフ・カーンは「ニューヨークタイムズ」の北京支局長で、環境問題等多くの報道で鋭い分析を行ってきたベテラン記者だ。2006年のピューリッツァ賞(国際報道部門)をはじめ多くの国際報道賞を受賞している、著名なジャーナリストである。このジョセフ・カーンが書いた記事だけに注目度が高かったことに加え、氷点事件(歴史教科書を批判した論文を載せた中国共産主義青年団の機関紙『中国青年報』付属週刊紙『氷点週刊』が停刊処分になった)が2006年1月に起きたばかりで、外国メディアと中国国内の興奮がまださめやらぬころであったことが相互作用して、蘇智良等編集グループの本来の改変目的とは違う視点での論議に火をつけてしまったように思われる。 (修正日:2008年10月12日)

参考:佐藤公彦『上海版歴史教科書の「扼殺」』(日本僑報社、2008年9月9日)
"Where's Mao?Chinese Revise History Books"(New York Times September 1,2006.英語)
http://www.nytimes.com/2006/09/01/world/asia/01china.html
「中国新版歴史教科書:ビル・ゲイツはやってきた。毛沢東はまだいる。」(南方週末、2006年9月29日。中国語)
http://www.ce.cn/culture/focus/200609/29/t20060929_8781891.shtml

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蘇智良グループ案が採択され審査に通った理由――佐藤公彦『上海版歴史教科書の「扼殺」-中国のイデオロギー的言論統制・抑圧』を読む32008年10月09日

 本書で佐藤氏は、「文明史」を主軸とする蘇智良グループの案が採択された背景を2000年に公布された教育部の「中学歴史教学大綱」の視点にあるとしている。

 2000年公布の「中学歴史教学大綱」は、従来通り「愛国主義教育、社会主義教育、国情教育、革命伝統教育と民族団結についての教育をし、中華民族の優れた文化伝統を継承し、高揚させ、しっかりと民族の自尊心、自信を持ち、祖国の社会主義建設のために奮闘する歴史的責任感を持たせるようにする。」ことを求める一方で、「他の国々や民族の創造した文明成果を尊重し、国際社会の変化と発展を正確に受け止め、正しい国際意識を初歩的に持つようにし、人類の伝統と美徳を学び、曲がりくねった人類の発展史から人生の価値と意義を汲み取り、誠実で善良、積極的で向上心があり、健全なる人格、および健康的な美意識や情緒が形成され、正しい価値観と人生観を持つような望ましい基礎を作ること。」という新しい目的を提示していることを指しているようだ。

 実際、蘇智良主編の歴史教科書編写組が、学習の重複を避け、効果的な学習法であるテーマ史を教科書に採用を決めたのは、妥当な選択であるように見える。また採用したテーマ史が「中国史と世界史を融合させて一体とした」ものであったことは、中国の歴史教科書としては非常に画期的であったけれども、先に紹介した教学大綱の目的に沿ってもいる。ただ、グローバリズムの流れを意識していたとしたら、その点では冒険的要素はあったかもしれない。それも、あくまでも中国で許されるギリギリの線を見定めてのものであったに違いなく、だからこそ、カリキュラム教科書改革委員会の審査を通過し、上海市カリキュラム改革委員会の他の二つの「審査」を通過できたのである。

参考:佐藤公彦『上海版歴史教科書の「扼殺」』(日本僑報社、2008年9月9日)

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上海版歴史教科書の作成過程――佐藤公彦『上海版歴史教科書の「扼殺」-中国のイデオロギー的言論統制・抑圧』を読む22008年10月08日

 さて、一昨日の記事の続き(^^)。
 
 本書の「上海版歴史教科書の作成過程」を見ると、現状の中国の検定教科書制度がどんなものかが分かる。編集班を選ぶコンペから正式採用になるまでに、幾多の審査や大がかりな試行期間を経ているのである。中国の検定教育制度について知るという意味も込めて、本書から、蘇智良主編の上海版歴史教科書誕生の経緯をまとめてみる。
 
 2001年、上海の第二期カリキュラム改革に伴う「地方版」新教科書作成の公開請負入札が行われた。これに上海師範大学の歴史系主任・蘇智良とその同僚達を中心とするグループが応募、その案がコンペで専門家等の満票の支持を得て通った。こうして蘇智良のグループは歴史教科書の編集権を手にしたのである。

 各教科の主編の学者が決まると、次に華東師範大学、復旦大学の専門家が各学科のカリキュラム標準(前文、カリキュラム目標、内容標準、実施提案)の策定を行い、それに基づいて教科書の編集が始まった。蘇智良主編の歴史教科書編写組は、上海の大学の専門家、上海師範大学の教師、第一線の中高の教師等百余名で構成され、事務所は上海師範大学に置かれたという。

 第一期カリキュラムは高校の歴史学習の大部分が中学三年間で学ぶことと重複していた。中学で中国史と世界史の二つの通史の教科書、高校一年で中国史と世界史の合編教科書、高校三年で中国古代史を学ぶ構成になっていたのである。

 そこで、第二期カリキュラムでは、中学と高校の学習内容の重複を避けるように考えられた。中学の歴史には「人類の文明の発展」を主線として「中国史」と「世界史」を、高校の歴史は「テーマ方式の文明史」を書くことになった。「テーマ方式の文明史」とは、いわばテーマ史のこと。「テーマにしたがって【中国史】と【世界史】を融合させて一体として」書くというやり方である。こうして、高一の一学期は(上)一五〇〇年以前の各地域の文明史、二学期は(下)新航路発見以後、地球全体の文明史-現代まで。高三で、世界範囲の文明、世界強国の現代化の進展と18世紀以来の中国の歴史過程を学習することとし、「教師と生徒に総括的な歴史発展観を持ってもらおう」と計画した。

 この作業は2001年から六年間かけて進められた。市教育委員会の指導思想に沿い、審査を通過した「行動綱領」「カリキュラム標準」にしたがって、教科書を組み立てて書くことに集中した。作業の具体的な流れは、編写組メンバーが文章を書き、専門家がその内容をチェックし、第一線の教師が教学の観点から意見を述べるというもので、最後には主編が原稿を統一した。こうしてカリキュラム教科書改革委員会の「審査」を通過、上海市カリキュラム改革委員会の他の二つの「審査」も通過して完成にこぎつけた。

 なお、この教科書は2003年から上海の百余りの中学と高校で試験使用が行われており、実際の教学体験を通じての修正・調整も経ている。そして、2006年秋から正式採用となった。

 以上のような経緯で、6年の歳月をかけて作成され、数々の審査を通り、完成した教科書は、正式採用と同時に「ニューヨークタイムズ」の記事に始まる風波に飲み込まれ、ついにたった一年で姿を消すことになったのである。

参考:佐藤公彦『上海版歴史教科書の「扼殺」』(日本僑報社、2008年9月9日)

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