鳩山春子が見た竹橋女学校――『鳩山春子――わが自叙伝』を読む1 ― 2009年07月10日

最近、明治の女性教育家の本を少しずつ読んでいる。その関連で、『鳩山春子――わが自叙伝』を読んだ。鳩山春子は政治家の鳩山由起夫、邦夫兄弟の曾祖母にあたる。明治初期の女性としては最高の教育(竹橋女学校、東京女子高等師範)を受け、また自身も母校である東京女子師範で教鞭をとり、共立女子大学(創立時は共立女子職業学校)を創立した、明治期の著名な教育家の一人である。
いまの私の興味の対象は、明治初期の官立の女子教育機関の有り様、とくに日本初めての官立の女学校「竹橋女学校」についてである。日本の最初の官立女学校の当時の様子を知る貴重な手がかりの一つが、この本なのだ。
春子は、信濃国松本に、松本藩士渡辺幸右衛門の5女として生まれた。(結婚前の姓は渡辺、明治にはいって多賀)幼い頃から勉強が好きで、いろいろな先生について、学んでいたらしい。父に連れられて松本から上京したのは、13歳(明治7年)のときである。春子は13歳から16歳(明治10年)まで「竹橋女学校」(正式名称は東京女子校、明治5-10年)に自宅から人力車で通った。文部省直轄の唯一、そして当時としては日本唯一の女学校であった。動物、植物、金石、生理、物理、化学、歴史、文法、作文、地理など、教えられる学科も種類が多く、入学者の質も高く予め家庭で相当の教育を受けた者が多かったという。この学校の特徴は英語学習に重点をおいたところであった。
春子の場合、他の学問は問題なかったが、英語は出来なかったので、他の人に追いつくまではライス先生の個人教授を受けたという。「大変進歩主義の学校」であり、「当時の元老議官とか其他高位高官または紳商などの令嬢」が多く、「月謝も高ければ、生徒の取扱いも良いという風」で「服装は一般に華美で、何処までも姫様的にできあがって」いたらしい。庶民には到底手が届かない学校ではあったが、この学校の生徒は実に勤勉であったようだ。「この女学校の良くなったのは偏に英語の先生ライスさんの教授法が上手で非常に勉強を奨励したから」であるといい、「英語教師が極度の奨励法を講ぜられた為か、兎に角学校を競争遊戯の場所の如く感じまして、常に楽しく愉快に勉強した有様を今から考えても夢のように思われます」というほど楽しかったようである。
ところが、西南戦争に伴う経費削減で竹橋女学校が廃校になり、16歳(明治10年)で創立直後の「お茶の水東京女子師範学校」(後のお茶の水女子大学)に竹橋女学校の学生のために英学科が設けられたのでこちらに入学したものの、英語は簡単すぎて、張り合いがなかった程度の内容であった。そのため、ウワイコップというアメリカ女性のもとで英語を学び、彼女の帰国とともにまた英学科に戻り、卒業する。これは事実上たった一回の竹橋女学校の卒業式であった。
これを卒業すると、春子は差し詰め行く学校がなかったため、「無拠嫌々ながら」17歳(明治11年)に「お茶の水東京女子師範学校」師範科本科を受験、入学している。「この学校はこの時分日本唯一の師範学校であった」からである。どうやら、他の学校も見に行ったようだが、「築地其他西洋人設立の学校を見ましたが何れも著しく程度が低いのでとても不適当」であったのだという。
こうしてみると、官立初の女学校「竹橋女学校(東京女学校)は、間違いなくお嬢様学校であったが、その教学内容はレベルが高く、学生のレベルも満足度も高かったようである。学校には問題がなかったにもかかわらず、西南戦争の経費削減のために閉校になったのは、当時の女子教育に対する認識そのものにも関係しているようにも思える。
読んでいる本:『鳩山春子―我が自叙伝』(日本図書センター、1997)
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いまの私の興味の対象は、明治初期の官立の女子教育機関の有り様、とくに日本初めての官立の女学校「竹橋女学校」についてである。日本の最初の官立女学校の当時の様子を知る貴重な手がかりの一つが、この本なのだ。
春子は、信濃国松本に、松本藩士渡辺幸右衛門の5女として生まれた。(結婚前の姓は渡辺、明治にはいって多賀)幼い頃から勉強が好きで、いろいろな先生について、学んでいたらしい。父に連れられて松本から上京したのは、13歳(明治7年)のときである。春子は13歳から16歳(明治10年)まで「竹橋女学校」(正式名称は東京女子校、明治5-10年)に自宅から人力車で通った。文部省直轄の唯一、そして当時としては日本唯一の女学校であった。動物、植物、金石、生理、物理、化学、歴史、文法、作文、地理など、教えられる学科も種類が多く、入学者の質も高く予め家庭で相当の教育を受けた者が多かったという。この学校の特徴は英語学習に重点をおいたところであった。
春子の場合、他の学問は問題なかったが、英語は出来なかったので、他の人に追いつくまではライス先生の個人教授を受けたという。「大変進歩主義の学校」であり、「当時の元老議官とか其他高位高官または紳商などの令嬢」が多く、「月謝も高ければ、生徒の取扱いも良いという風」で「服装は一般に華美で、何処までも姫様的にできあがって」いたらしい。庶民には到底手が届かない学校ではあったが、この学校の生徒は実に勤勉であったようだ。「この女学校の良くなったのは偏に英語の先生ライスさんの教授法が上手で非常に勉強を奨励したから」であるといい、「英語教師が極度の奨励法を講ぜられた為か、兎に角学校を競争遊戯の場所の如く感じまして、常に楽しく愉快に勉強した有様を今から考えても夢のように思われます」というほど楽しかったようである。
ところが、西南戦争に伴う経費削減で竹橋女学校が廃校になり、16歳(明治10年)で創立直後の「お茶の水東京女子師範学校」(後のお茶の水女子大学)に竹橋女学校の学生のために英学科が設けられたのでこちらに入学したものの、英語は簡単すぎて、張り合いがなかった程度の内容であった。そのため、ウワイコップというアメリカ女性のもとで英語を学び、彼女の帰国とともにまた英学科に戻り、卒業する。これは事実上たった一回の竹橋女学校の卒業式であった。
これを卒業すると、春子は差し詰め行く学校がなかったため、「無拠嫌々ながら」17歳(明治11年)に「お茶の水東京女子師範学校」師範科本科を受験、入学している。「この学校はこの時分日本唯一の師範学校であった」からである。どうやら、他の学校も見に行ったようだが、「築地其他西洋人設立の学校を見ましたが何れも著しく程度が低いのでとても不適当」であったのだという。
こうしてみると、官立初の女学校「竹橋女学校(東京女学校)は、間違いなくお嬢様学校であったが、その教学内容はレベルが高く、学生のレベルも満足度も高かったようである。学校には問題がなかったにもかかわらず、西南戦争の経費削減のために閉校になったのは、当時の女子教育に対する認識そのものにも関係しているようにも思える。
読んでいる本:『鳩山春子―我が自叙伝』(日本図書センター、1997)
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新しい学習指導要領の移行期間の開始 ― 2009年03月24日
来年度(今年4月)から、新しい学習指導要領が実施のための移行期間に入る。小学校でもその旨を通知するプリントが配布された。平成21年度からの2年間は平成23年度から始まる新学習指導要領に移る(新教育課程教科書使用)までの準備期間である。来年度は各学年一コマずつ授業時間が増えることになる。
ところで、この改訂は、「ゆとり教育」から「詰め込み教育」への転換、というわけではない、と「学習指導要領改訂に向けた中央教育審議会答申」は言う。「授業時数の増加は必要ですが、指導内容を増やすことを主な目的とするものではありません。」[ゆとり]か[詰め込み]かということではなく、基礎的・基本的な知識・技能の確実な定着とこれらを活用する力の育成をいわば車の両輪として伸ばしていくことが必要です」その一方で「基礎的・基本的な知識・技能の習得、思考力・判断力・表現力等の育成のバランスを重視」「確かな学力を確立する為に必要な時間の確保、授業数が増加される」。具体的には、小学校の低学年で週2コマ、中・高学年で週1コマ、中学校では週あたり各学年週1コマ増やされることになる。
なお、今回の学習指導要領の改訂では、ゆとり教育の理念「生きる力をはぐくむ」という理念は新学習指導要領に引き継ぐらしい。
興味深いのは、この改訂が国際的学力テストPISAで学力世界一を二回連続して達成したフィンランドの教育を意識しているように見えることである。以前、当ブログでも紹介したフィンランドの教育(2008年5月24日「フィンランドの国語教科書を読む」6月4日「フィンランドの学力を世界一にした教育相オッリペッカ・ヘイノネン」6月15日「『受けてみたフィンランドの教育』読んでみました」)で重視されている事柄は、今回の改訂のポイントと重なる。そういえば、中国の2006年改訂の義務教育法もそんな感じだった。 仮にPISAの結果の影響だとしても、他国の教育の長所を取り入れるのはいいことであるが、表面だけを真似するのではなく、より深い考察と実験に基づき、慎重に導入して欲しいと思う。
参考:「新しい学習指導要領」(文部科学省)http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/index.htm
ところで、この改訂は、「ゆとり教育」から「詰め込み教育」への転換、というわけではない、と「学習指導要領改訂に向けた中央教育審議会答申」は言う。「授業時数の増加は必要ですが、指導内容を増やすことを主な目的とするものではありません。」[ゆとり]か[詰め込み]かということではなく、基礎的・基本的な知識・技能の確実な定着とこれらを活用する力の育成をいわば車の両輪として伸ばしていくことが必要です」その一方で「基礎的・基本的な知識・技能の習得、思考力・判断力・表現力等の育成のバランスを重視」「確かな学力を確立する為に必要な時間の確保、授業数が増加される」。具体的には、小学校の低学年で週2コマ、中・高学年で週1コマ、中学校では週あたり各学年週1コマ増やされることになる。
なお、今回の学習指導要領の改訂では、ゆとり教育の理念「生きる力をはぐくむ」という理念は新学習指導要領に引き継ぐらしい。
興味深いのは、この改訂が国際的学力テストPISAで学力世界一を二回連続して達成したフィンランドの教育を意識しているように見えることである。以前、当ブログでも紹介したフィンランドの教育(2008年5月24日「フィンランドの国語教科書を読む」6月4日「フィンランドの学力を世界一にした教育相オッリペッカ・ヘイノネン」6月15日「『受けてみたフィンランドの教育』読んでみました」)で重視されている事柄は、今回の改訂のポイントと重なる。そういえば、中国の2006年改訂の義務教育法もそんな感じだった。 仮にPISAの結果の影響だとしても、他国の教育の長所を取り入れるのはいいことであるが、表面だけを真似するのではなく、より深い考察と実験に基づき、慎重に導入して欲しいと思う。
参考:「新しい学習指導要領」(文部科学省)http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/index.htm

宮崎市定氏が見る日本の清国留学生 ― 2009年02月12日
中公文庫に『中国文明の歴史』という中国史のシリーズがある。その中でも宮崎市定氏が執筆した『9 清帝国の繁栄』と『11
中国のめざめ』が好きで時々読み返している。宮崎市定氏はフランス留学経験があり(アラビア語)、またフランス・パリ大学、アメリカ・ハーバード大学、ドイツ・ハンブルク大学やルール大学でも教えたこともある人物で、欧米の東洋学についても造詣が深く、視野が広い。用語には旧いものも見受けられるが、その思考・論考は旧くなっていないと思う。
今回読み返したくなったのは『11 中国のめざめ』に日本に留学した学生の間で革命運動が盛り上がった理由として、こんなことが書いてあったのを思い出したからである。
「義和団事件から日露戦争直後まで、清国政府は多数の留学生を日本に送り、その多くは東京に滞在したが、その数が一時は数万人にも及んだという。ところがこういう新事態に対して、日本側では受け入れ態勢が少しもととのっていなかった。日本人は気が付かなかったが、宿舎も食物も、生活様式も、中国の上流社会の子弟には耐えがたい低水準であった。そのうえに中国人に中華意識があれば、日本人にも神国意識があった。しかも双方ともヨーロッパ諸国に対しては腹の中でコンプレックスを抱いていたから、なおさら事情が複雑である。日本人はロシアに対して戦勝の直後で鼻息が荒く、有色人種の中ではただ自分たちのみ、白人と対等になりえたような自信を獲得し、反面では自己を他の有色人種から区別するような態度をしばしばとった。これに対して中国人は、たとえ白人からはいささか軽蔑の態度を以て迎えられても、それはまったく異なる民族間の関係であるから不問に付するが、同じ有色人種の隣人、しかも従来は朝貢国視していた日本人から侮蔑の眼でみられることは、堪えることのできぬ屈辱と感ぜざるをえなかった。
そこで中国留学生のヨーロッパ、アメリカに滞在した者は多くその地の生活に満足し、良好な印象を得て安住したが、安住しすぎたためにそこでは革命運動はあまり流行しなかった。ところが日本在住の留学生は、心中に抱いている欲求不満が、革命の情熱となって爆発するのであった。革命運動にでも身を投ずるのでなければ、ほかに生き甲斐を感ずることができぬほど、日本の生活は不愉快なものであったらしい。」(p41-42)
以前読んだときは面白い見方があるものだと思っただけだった。でも今読み返してみれば、この時期の清国留学生、前述の京師大学堂の日本人教習・服部宇之吉や岩谷孫蔵が文部省に特別の配慮を依頼して送り込んだのではなかったか。日本人側は特別待遇したつもりだったにも関わらず、中国の上流社会の子弟にとっては日本の留学生活は「宿舎も食物も、生活様式も耐え難い低水準」であり、しかもそれに日本人は「気が付かなかった」というのである。なるほど、と思った。確かにこの時期京師大学堂に入れたのは貴族や官僚及び官僚予備軍といった、多くが広い邸宅で召使いに傅かれて育った上流階級の子弟である。明治の日本人が考えるところの学生宿舎ではとてもその要求に応えられるはずもあるまい。更にそれらの欲求不満が革命運動に結びつき、一方欧米の留学生は生活に満足して安住したから革命運動が流行しなかったという。欧米での生活経験はもとより、鋭い観察力と深い見識があってこそのさりげない文句の一つ一つに宮崎市定氏のすごさを感じる。
参考:宮崎市定『中国文明の歴史 11 中国のめざめ』(中公文庫、2000)
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今回読み返したくなったのは『11 中国のめざめ』に日本に留学した学生の間で革命運動が盛り上がった理由として、こんなことが書いてあったのを思い出したからである。
「義和団事件から日露戦争直後まで、清国政府は多数の留学生を日本に送り、その多くは東京に滞在したが、その数が一時は数万人にも及んだという。ところがこういう新事態に対して、日本側では受け入れ態勢が少しもととのっていなかった。日本人は気が付かなかったが、宿舎も食物も、生活様式も、中国の上流社会の子弟には耐えがたい低水準であった。そのうえに中国人に中華意識があれば、日本人にも神国意識があった。しかも双方ともヨーロッパ諸国に対しては腹の中でコンプレックスを抱いていたから、なおさら事情が複雑である。日本人はロシアに対して戦勝の直後で鼻息が荒く、有色人種の中ではただ自分たちのみ、白人と対等になりえたような自信を獲得し、反面では自己を他の有色人種から区別するような態度をしばしばとった。これに対して中国人は、たとえ白人からはいささか軽蔑の態度を以て迎えられても、それはまったく異なる民族間の関係であるから不問に付するが、同じ有色人種の隣人、しかも従来は朝貢国視していた日本人から侮蔑の眼でみられることは、堪えることのできぬ屈辱と感ぜざるをえなかった。
そこで中国留学生のヨーロッパ、アメリカに滞在した者は多くその地の生活に満足し、良好な印象を得て安住したが、安住しすぎたためにそこでは革命運動はあまり流行しなかった。ところが日本在住の留学生は、心中に抱いている欲求不満が、革命の情熱となって爆発するのであった。革命運動にでも身を投ずるのでなければ、ほかに生き甲斐を感ずることができぬほど、日本の生活は不愉快なものであったらしい。」(p41-42)
以前読んだときは面白い見方があるものだと思っただけだった。でも今読み返してみれば、この時期の清国留学生、前述の京師大学堂の日本人教習・服部宇之吉や岩谷孫蔵が文部省に特別の配慮を依頼して送り込んだのではなかったか。日本人側は特別待遇したつもりだったにも関わらず、中国の上流社会の子弟にとっては日本の留学生活は「宿舎も食物も、生活様式も耐え難い低水準」であり、しかもそれに日本人は「気が付かなかった」というのである。なるほど、と思った。確かにこの時期京師大学堂に入れたのは貴族や官僚及び官僚予備軍といった、多くが広い邸宅で召使いに傅かれて育った上流階級の子弟である。明治の日本人が考えるところの学生宿舎ではとてもその要求に応えられるはずもあるまい。更にそれらの欲求不満が革命運動に結びつき、一方欧米の留学生は生活に満足して安住したから革命運動が流行しなかったという。欧米での生活経験はもとより、鋭い観察力と深い見識があってこそのさりげない文句の一つ一つに宮崎市定氏のすごさを感じる。
参考:宮崎市定『中国文明の歴史 11 中国のめざめ』(中公文庫、2000)
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京師大学堂後の服部宇之吉 ― 2009年02月04日
服部宇之吉は京師大学堂の教習の仕事を終えて帰国後、東大に復帰(1909-、支那哲学講座主任)した。哲学科出身で、ドイツへの留学経験もあり、西洋哲学やその方法論にも詳しかったはずの、服部宇之吉が学術研究のテーマとして選んだのは「礼」の研究であった。(「支那古礼と現代風俗」「井田私考」「宗法考」「礼の思想附実際」など)講義の題目も多くは礼に関するもので、ハーバード大学でも一年間(1915-16年)日本学講座で教授を務めるが、ここでも儒教に関する講義を行っている。
なお、服部宇之吉は九死に一生を得た義和団の乱の賠償金(外務省所管の団匪賠償金)によって運営された中国で行われた東方文化事業、東京に設立された東方文化学院所長(京都にも。こちらは北京篭城で生死を共にした狩野直喜が所長、後の京大人文研)としての仕事にも熱心に取り組んでいる。(東方文化学院は後に東大の東洋文化研究所に吸収合併される)
私見であるが、義和団の乱で二ヶ月間の北京篭城を体験したことが、また京師大学堂の五年間が、服部宇之吉の中の何かを変えたのではないかと思う。中国という不可思議な存在を内側から解明する鍵として「礼」を捉えていたのではないかと想像する。
ところで、服部宇之吉はその後も東大文学部長(1924-1926)、京城帝国大学総長(1926-1928)を兼任、国学院大学総長(昭和4-8)、東方文化学院理事長、同東京研究所長(昭和4-14)になり、また1921年・大正10年からは東宮職御用掛を拝命するなど、順調な出世街道を歩んだ。
ひとつだけ…孫麗青・楊紀国「服部宇之吉和近代中国教育」には、「服部の侵華思想」という見出しもあったのが気になっている。少なくとも京師大学堂時代の仕事にはそのような部分はないと思う。その後のことについては、手元の資料不足でよく分からない。戦前の日本中国学についての何かで見たことがあるような気もする。先行研究がたくさんあるので、もし何か分かれば補足するつもりである。
参考:柴五郎中佐・服部宇之吉『北京篭城日記』(東洋文庫)
孫麗青・楊紀国「服部宇之吉和近代中国教育」(幼児網) http://www.lovety.net.cn/html/show-7316.html (中文)
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なお、服部宇之吉は九死に一生を得た義和団の乱の賠償金(外務省所管の団匪賠償金)によって運営された中国で行われた東方文化事業、東京に設立された東方文化学院所長(京都にも。こちらは北京篭城で生死を共にした狩野直喜が所長、後の京大人文研)としての仕事にも熱心に取り組んでいる。(東方文化学院は後に東大の東洋文化研究所に吸収合併される)
私見であるが、義和団の乱で二ヶ月間の北京篭城を体験したことが、また京師大学堂の五年間が、服部宇之吉の中の何かを変えたのではないかと思う。中国という不可思議な存在を内側から解明する鍵として「礼」を捉えていたのではないかと想像する。
ところで、服部宇之吉はその後も東大文学部長(1924-1926)、京城帝国大学総長(1926-1928)を兼任、国学院大学総長(昭和4-8)、東方文化学院理事長、同東京研究所長(昭和4-14)になり、また1921年・大正10年からは東宮職御用掛を拝命するなど、順調な出世街道を歩んだ。
ひとつだけ…孫麗青・楊紀国「服部宇之吉和近代中国教育」には、「服部の侵華思想」という見出しもあったのが気になっている。少なくとも京師大学堂時代の仕事にはそのような部分はないと思う。その後のことについては、手元の資料不足でよく分からない。戦前の日本中国学についての何かで見たことがあるような気もする。先行研究がたくさんあるので、もし何か分かれば補足するつもりである。
参考:柴五郎中佐・服部宇之吉『北京篭城日記』(東洋文庫)
孫麗青・楊紀国「服部宇之吉和近代中国教育」(幼児網) http://www.lovety.net.cn/html/show-7316.html (中文)
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京師大学堂教習以前の服部宇之吉 ― 2009年02月03日
東京帝大文科教授と文学博士を授与してまで日本政府が送り出し、清朝政府に「異常出力之才」(傑出した働きをした)とまで讃えられた服部宇之吉の京師大学堂以前について、少し詳しく見てみよう。
服部宇之吉(1867-1939)は福島県出身である。生後一ヶ月にして生後を失い、叔父夫婦に引き取られた。戊辰戦争で実父を失い、逃亡中に負傷した傷が元で左目を失明するなど、幼少時は苦労を重ねたようだ。1872年・明治5年頃に養父が東京で職を得て、家族で東京に移ってからは、麻布小学校に通学、卒業後は私塾に通って漢学、数学、英学を修め、1881年・明治14年に東京開成中学校の前身・共立学校に入学、1883年・明治16年に大学予備門(在学中に第一高等中学校になる)に入学、1887年・明治20年に帝国大学文科大学哲学科に入学した。
1890年・明治23年に東京帝国大学文科大学哲学科を卒業、当時は文学士も法学士と同様に高等文官の資格があったので、役人になるか教員になるか迷っていたときに、東京帝国大学の文科大学長外山正一が文部省専門学務局長・浜尾新に推薦、文部省に入省する。この頃に、文科大学の島田重礼教授に見込まれて、三女・繁子と結婚、媒酌は浜尾新であった。翌年には、役人は合わないと浜尾、外山に申し出て教員に転じ、京都の第三高等学校と東京の高等師範学校で教授となる。しかし、1897年・明治30年に文部大臣となった浜尾新の依頼を受けて秘書官をつとめることになった。その後に文部大臣になったのが、外山正一だったので継続して秘書官を務め、外山の辞任と共に、秘書官を辞したのであった。これは本人が望んだというよりは、上司であり、結婚の媒酌人でもあった浜尾の依頼だけに仕方がなかったのだという。
その後、東京高等師範学校教授と東京帝国大学文科大学助教授を兼任、翌年から東京帝国大学文科大学助教授専任となり、1899年に4年間の清国とドイツ留学を命じられた。このとき、清国に派遣されたのは、東京帝国大学の服部宇之吉と京都帝国大学の狩野直喜である。両名は、義和団の乱に遭い、約二ヶ月の北京篭城を体験することになる。清国からの宣戦布告に伴い、1900年6月19日に24時間以内の退去を通告され、20日から公使館区域への攻撃が始まる。攻撃開始から援軍が到着する8月14日までの約2ヶ月間、の篭城であった。外国人は公使館員とその家族、護衛兵、留学生等を合わせ925名、中国人のキリスト教徒が3000名ほど逃げ込んでいた。護衛兵と義勇軍合わせても481名しかいないという状態、しかも連合国の寄り合い状態で恐怖の2ヵ月を乗り切れたのは、実質的に総指揮をとった日本の柴五郎中佐(数カ国語を解したという)の存在、そして中国人キリスト教徒の存在が大きかったと言うが、なによりも敗戦後の連合国の報復を恐れる清国側の不徹底な抗戦姿勢にあったらしい。
九死に一生を得て無事帰国した服部は、12月にはドイツに向かった。ドイツ留学一年半足らずのときに、文部大臣からの電報で急遽帰国、再び北京へ、京師大学堂へ、今度は教習として赴くことになった。このときの心境は如何ばかりであったろう。
参考:江上波夫『東洋学の系譜』(大修館書店、1992)
柴五郎中佐・服部宇之吉『北京篭城日記』(東洋文庫)
「服部宇之吉」(Wikipedia) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%8D%E9%83%A8%E5%AE%87%E4%B9%8B%E5%90%89
「義和団の乱」(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E5%92%8C%E5%9B%A3%E3%81%AE%E4%B9%B1
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服部宇之吉(1867-1939)は福島県出身である。生後一ヶ月にして生後を失い、叔父夫婦に引き取られた。戊辰戦争で実父を失い、逃亡中に負傷した傷が元で左目を失明するなど、幼少時は苦労を重ねたようだ。1872年・明治5年頃に養父が東京で職を得て、家族で東京に移ってからは、麻布小学校に通学、卒業後は私塾に通って漢学、数学、英学を修め、1881年・明治14年に東京開成中学校の前身・共立学校に入学、1883年・明治16年に大学予備門(在学中に第一高等中学校になる)に入学、1887年・明治20年に帝国大学文科大学哲学科に入学した。
1890年・明治23年に東京帝国大学文科大学哲学科を卒業、当時は文学士も法学士と同様に高等文官の資格があったので、役人になるか教員になるか迷っていたときに、東京帝国大学の文科大学長外山正一が文部省専門学務局長・浜尾新に推薦、文部省に入省する。この頃に、文科大学の島田重礼教授に見込まれて、三女・繁子と結婚、媒酌は浜尾新であった。翌年には、役人は合わないと浜尾、外山に申し出て教員に転じ、京都の第三高等学校と東京の高等師範学校で教授となる。しかし、1897年・明治30年に文部大臣となった浜尾新の依頼を受けて秘書官をつとめることになった。その後に文部大臣になったのが、外山正一だったので継続して秘書官を務め、外山の辞任と共に、秘書官を辞したのであった。これは本人が望んだというよりは、上司であり、結婚の媒酌人でもあった浜尾の依頼だけに仕方がなかったのだという。
その後、東京高等師範学校教授と東京帝国大学文科大学助教授を兼任、翌年から東京帝国大学文科大学助教授専任となり、1899年に4年間の清国とドイツ留学を命じられた。このとき、清国に派遣されたのは、東京帝国大学の服部宇之吉と京都帝国大学の狩野直喜である。両名は、義和団の乱に遭い、約二ヶ月の北京篭城を体験することになる。清国からの宣戦布告に伴い、1900年6月19日に24時間以内の退去を通告され、20日から公使館区域への攻撃が始まる。攻撃開始から援軍が到着する8月14日までの約2ヶ月間、の篭城であった。外国人は公使館員とその家族、護衛兵、留学生等を合わせ925名、中国人のキリスト教徒が3000名ほど逃げ込んでいた。護衛兵と義勇軍合わせても481名しかいないという状態、しかも連合国の寄り合い状態で恐怖の2ヵ月を乗り切れたのは、実質的に総指揮をとった日本の柴五郎中佐(数カ国語を解したという)の存在、そして中国人キリスト教徒の存在が大きかったと言うが、なによりも敗戦後の連合国の報復を恐れる清国側の不徹底な抗戦姿勢にあったらしい。
九死に一生を得て無事帰国した服部は、12月にはドイツに向かった。ドイツ留学一年半足らずのときに、文部大臣からの電報で急遽帰国、再び北京へ、京師大学堂へ、今度は教習として赴くことになった。このときの心境は如何ばかりであったろう。
参考:江上波夫『東洋学の系譜』(大修館書店、1992)
柴五郎中佐・服部宇之吉『北京篭城日記』(東洋文庫)
「服部宇之吉」(Wikipedia) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%8D%E9%83%A8%E5%AE%87%E4%B9%8B%E5%90%89
「義和団の乱」(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E5%92%8C%E5%9B%A3%E3%81%AE%E4%B9%B1
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中国・清末、京師大学堂の日本人教習・服部宇之吉 ― 2009年02月01日
北京大学の前身・京師大学堂が1901年12月に再開したとき、京師大学堂管学大臣・張百熙は正式に日本駐清国公使・内田康哉に対し、京師大学堂仕学館に日本人法学博士、学士各一名、師範館に文学博士、学士各一名の招聘を要望した。このとき、清国側は日本の著名な法学博士(梅謙次郎、一木喜徳郎、織田萬、岡村司、岡田朝太郎→後に招聘、松崎蔵之助、中村進午等)を指名していたが、当時の文部大臣・菊池大麓は東京、京都両帝国大学長との協議を経て、京都帝国大学教授で法学博士の岩谷孫蔵、東京帝国大学教授で文学博士の服部宇之吉をもって招聘に応じた。
もっとも、岩谷孫蔵は1899年から京都帝大法科教授で独逸法講座を担当していたが、服部宇之吉については東京帝大文科助教授でドイツ留学中だったのを電報で呼び戻し、東京帝大文科教授と文学博士を授与して翌月には清国に送り出したのであった。
京師大学堂の速成仕学館は現在で言えば法学部にあたり、岩谷孫蔵はここに総教習として迎えられた。一方、速成師範館は現在で言えば教育学部にあたり、服部宇之吉はここに正教習として迎えられた。(後に総教習)総教習は学部長にあたり、正教習はその下の教授ということになる。両名の当初の待遇の差から見て、清国側は上記の事情を察していたに違いない。
それでも、服部宇之吉は京師大学堂全教習中で最も高い給料600元(月給)を貰っていたというが、その働きは給料に十分見合うものであった。まず、服部宇之吉が速成師範館で担当していたのは、論理学、心理学、日本語の科目である。北京師範大学の心理学部HPには当時の教科書・服部宇之吉選『心理学講義』(1905年初版、1906年再版発行)の写真が掲載され、師範館時代の心理学の授業について簡単な解説がある。これによれば、心理学は1903年から授業科目となったこと、服部宇之吉が師範館で最初に心理学の授業を行った人物でありこれが中国心理学の最初であったと紹介されている。
また服部は仕学館と師範館より34名の学生を選抜し、専攻を指定した上で日本留学へ送り込んでもいる。このとき服部が日本文部省に格別の配慮を願い出たことで、東京第一高等学校がこれらの留学生教育を担当することとなり、予科が設置されたほどだ。京師大学堂はこの時期、日本を頼りにしており、服部宇之吉を通して、希少な専門書や教具、実験用具、実験薬、新聞雑誌等あらゆるものを日本から購入して急場をしのいだらしい。
服部と岩谷の後も、日本からはさまざまな人材が京師大学堂に投入されたが、これも服部を通じて日本に要請したものであったという。京師大学堂の日本人教員の担当科目は、法律、経済、財政、教育学、文学、数学、物理、化学、動植物学、生理学、心理学、鉱物学、歴史学、論理学、美術、そして日本語等、実に広範にわたる。王暁秋氏によれば、日本人教員は25名であった(「国立北京大学20周年記念冊」所載の京師大学堂教職員名簿による)というが、羽根高廣氏のHP所載のエッセー「北京大学創成期に日本人教授」によれば、1902-1915年の外交文書の記録には29名の名前が残っているそうだ。
その服部宇之吉は5年間の教習生活の後、1909年(明治42年)1月に帰国する。服部宇之吉の帰国に際して、清国政府は日本人教習として最高の二等第二宝星を授与、更に「文科進士」の称号を贈り、「異常出力之才」(傑出した働きをした)と功績をたたえている。
人材、器材、あらゆる面について、日本が服部の要請に応じて京師大学堂に全面協力した背景には、中国への影響力を拡大したいという思惑があった。その思惑の実現のためには、服部宇之吉のように日本文部省にも日本教育界にも通じている人材を送り込む必要があったのであり、また、京師大学堂側にもそのような仲介者が必要だった。服部はその役割を十二分に果たしたといえるだろう。
余談だが、服部宇之吉と繁子夫人は女性教育に対して深い関心を持っており、北京の豫教女学堂の設立に深く関わった。中国の有名な女性革命家・秋瑾を日本留学に送ったのは服部繁子であると言われている。
参考:
江上波夫『東洋学の系譜』(大修館書店、1992)
孫麗青・楊紀国「服部宇之吉和近代中国教育」(幼児網) http://www.lovety.net.cn/html/show-7316.html (中文)
「北京大学創成期に日本人教授」(羽根高廣氏HP) http://www.geocities.jp/hanegao/kiji_24.htm
「心理学院歴史沿革」(北京師範大学心理学院HP)http://www.xinlixuekaoyan.com/html/2006-10/19p2.htm
他
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もっとも、岩谷孫蔵は1899年から京都帝大法科教授で独逸法講座を担当していたが、服部宇之吉については東京帝大文科助教授でドイツ留学中だったのを電報で呼び戻し、東京帝大文科教授と文学博士を授与して翌月には清国に送り出したのであった。
京師大学堂の速成仕学館は現在で言えば法学部にあたり、岩谷孫蔵はここに総教習として迎えられた。一方、速成師範館は現在で言えば教育学部にあたり、服部宇之吉はここに正教習として迎えられた。(後に総教習)総教習は学部長にあたり、正教習はその下の教授ということになる。両名の当初の待遇の差から見て、清国側は上記の事情を察していたに違いない。
それでも、服部宇之吉は京師大学堂全教習中で最も高い給料600元(月給)を貰っていたというが、その働きは給料に十分見合うものであった。まず、服部宇之吉が速成師範館で担当していたのは、論理学、心理学、日本語の科目である。北京師範大学の心理学部HPには当時の教科書・服部宇之吉選『心理学講義』(1905年初版、1906年再版発行)の写真が掲載され、師範館時代の心理学の授業について簡単な解説がある。これによれば、心理学は1903年から授業科目となったこと、服部宇之吉が師範館で最初に心理学の授業を行った人物でありこれが中国心理学の最初であったと紹介されている。
また服部は仕学館と師範館より34名の学生を選抜し、専攻を指定した上で日本留学へ送り込んでもいる。このとき服部が日本文部省に格別の配慮を願い出たことで、東京第一高等学校がこれらの留学生教育を担当することとなり、予科が設置されたほどだ。京師大学堂はこの時期、日本を頼りにしており、服部宇之吉を通して、希少な専門書や教具、実験用具、実験薬、新聞雑誌等あらゆるものを日本から購入して急場をしのいだらしい。
服部と岩谷の後も、日本からはさまざまな人材が京師大学堂に投入されたが、これも服部を通じて日本に要請したものであったという。京師大学堂の日本人教員の担当科目は、法律、経済、財政、教育学、文学、数学、物理、化学、動植物学、生理学、心理学、鉱物学、歴史学、論理学、美術、そして日本語等、実に広範にわたる。王暁秋氏によれば、日本人教員は25名であった(「国立北京大学20周年記念冊」所載の京師大学堂教職員名簿による)というが、羽根高廣氏のHP所載のエッセー「北京大学創成期に日本人教授」によれば、1902-1915年の外交文書の記録には29名の名前が残っているそうだ。
その服部宇之吉は5年間の教習生活の後、1909年(明治42年)1月に帰国する。服部宇之吉の帰国に際して、清国政府は日本人教習として最高の二等第二宝星を授与、更に「文科進士」の称号を贈り、「異常出力之才」(傑出した働きをした)と功績をたたえている。
人材、器材、あらゆる面について、日本が服部の要請に応じて京師大学堂に全面協力した背景には、中国への影響力を拡大したいという思惑があった。その思惑の実現のためには、服部宇之吉のように日本文部省にも日本教育界にも通じている人材を送り込む必要があったのであり、また、京師大学堂側にもそのような仲介者が必要だった。服部はその役割を十二分に果たしたといえるだろう。
余談だが、服部宇之吉と繁子夫人は女性教育に対して深い関心を持っており、北京の豫教女学堂の設立に深く関わった。中国の有名な女性革命家・秋瑾を日本留学に送ったのは服部繁子であると言われている。
参考:
江上波夫『東洋学の系譜』(大修館書店、1992)
孫麗青・楊紀国「服部宇之吉和近代中国教育」(幼児網) http://www.lovety.net.cn/html/show-7316.html (中文)
「北京大学創成期に日本人教授」(羽根高廣氏HP) http://www.geocities.jp/hanegao/kiji_24.htm
「心理学院歴史沿革」(北京師範大学心理学院HP)http://www.xinlixuekaoyan.com/html/2006-10/19p2.htm
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体操服から軍服に着替えた理由(体操科の教科書) ― 2008年12月08日

以前書いた「いつ着替えたの?――『蒙学体操教科書』(体操科・1903年)」(当ブログ2008年5月12日の記事)では、中国で翻訳された体操科の教科書『蒙学体操教科書』(無錫
丁錦著、上海
文明書局、光緒29年・1903年)と、底本と見られる日本の坪井玄道,田中盛業編『小学普通体操法』(金港堂、1884年・明治17年)第一冊のイラストに、服装の違いがあることを紹介した。
それは具体的には、日本の『小学普通体操法』にはシャツとズボンという体操服らしいものを着た人物が、翻訳書には軍服を着た軍人らしき人物が描かれていることを指していた。このときは「いつ着替えたのだろう?」という疑問符で終わっていた。ただ、1888年・明治21年に改訂された事実だけを述べて、このとき書き換えられた可能性を提示しただけだった。残念ながら、国会図書館の近代デジタルライブラリーには『小学普通体操法』の1888年・明治21年改訂版の画像がないので、確認ができなかった。でも、『近現代日本教育』をじっくり読み直す中で、これに根拠を与える記述を見つけた。
『近現代日本教育』によれば、1886年学校令の施行期、「日本を世界の列強とならぶ第一等国の地位にまで高めることを目標とする教育政策」により、師範学校や小学校に兵式体操を取り入れたことに言及している。これは「軍隊式の教育によって国民の[元気]を育てることを重んじ、生徒に対してもとくに順良・信愛・威重の気質を求め」るものであったという。
『小学普通体操法』は改訂版が1888年・明治21年に出ているが、これは1886年の小学校令に合わせるための改訂であったと考えられるのであり、このとき挿絵の人物が体操服から軍服に着替えたのではないか。それはまさに上記のような教育政策に合わせたものと推察されるのである。
したがって、1888年・明治21年に出た改訂版こそが恐らく中国で翻訳出版された『蒙学体操教科書』の底本であろうと思われる。一応以前も載せた二つのイラストを載せておく。
『小学普通体操法』の1888年・明治21年の改訂版、WEBCATで調べたら、日本の大学に2冊あることが分かった。そのうちの一冊は我が母校に(^^)。これを見れば事実確認ができるので、機会を見つけて確認に訪れたいものである。
参考:海後宗臣/著 仲新/著 寺崎昌男/著『教科書でみる 近現代日本の教育』(東京書籍、1999)
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それは具体的には、日本の『小学普通体操法』にはシャツとズボンという体操服らしいものを着た人物が、翻訳書には軍服を着た軍人らしき人物が描かれていることを指していた。このときは「いつ着替えたのだろう?」という疑問符で終わっていた。ただ、1888年・明治21年に改訂された事実だけを述べて、このとき書き換えられた可能性を提示しただけだった。残念ながら、国会図書館の近代デジタルライブラリーには『小学普通体操法』の1888年・明治21年改訂版の画像がないので、確認ができなかった。でも、『近現代日本教育』をじっくり読み直す中で、これに根拠を与える記述を見つけた。
『近現代日本教育』によれば、1886年学校令の施行期、「日本を世界の列強とならぶ第一等国の地位にまで高めることを目標とする教育政策」により、師範学校や小学校に兵式体操を取り入れたことに言及している。これは「軍隊式の教育によって国民の[元気]を育てることを重んじ、生徒に対してもとくに順良・信愛・威重の気質を求め」るものであったという。
『小学普通体操法』は改訂版が1888年・明治21年に出ているが、これは1886年の小学校令に合わせるための改訂であったと考えられるのであり、このとき挿絵の人物が体操服から軍服に着替えたのではないか。それはまさに上記のような教育政策に合わせたものと推察されるのである。
したがって、1888年・明治21年に出た改訂版こそが恐らく中国で翻訳出版された『蒙学体操教科書』の底本であろうと思われる。一応以前も載せた二つのイラストを載せておく。
『小学普通体操法』の1888年・明治21年の改訂版、WEBCATで調べたら、日本の大学に2冊あることが分かった。そのうちの一冊は我が母校に(^^)。これを見れば事実確認ができるので、機会を見つけて確認に訪れたいものである。
参考:海後宗臣/著 仲新/著 寺崎昌男/著『教科書でみる 近現代日本の教育』(東京書籍、1999)
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日本の「手工科」の影響を受けた中国・清末民初の「手工科」教科書 ― 2008年12月05日

『小学教科書発展史』に面白いものを見つけた。目を引いたのは、これに折り鶴や蛙、アヤメの折り方が載っていたからだ。一つは『小学手工教科書(教師用書)』(光緒34年5月初版9月再版、商務印書館)、清末の「手工科」の教師用の指導書であり、もう一つは『共和國教科書新手工』(中華民国3年・1914年初版、11年・1922年第6版、商務印書館)、中華民国の「手工科」の教科書である。解説によれば、この二冊の教材内容はほぼ同じであるらしい。『小学手工教科書(教師用書)』には「編輯大意」があり、日本の文部省編の『手工教科書』、棚橋氏の『手工教授書』を基礎に編纂したと書かれている。
そこで調べてみると、それらしい本が見つかった。棚橋源太郎,岡山秀吉著『手工科教授書』(東京:宝文館・東洋社、明治38・1905年)である。書名は少し違うが、著者も符合するし、内容を確認すると、中国で出版された教科書と同じイラストが使われていることが分かった。「色板」の説明部分を読み比べたところ、内容はほぼ同じながら、補筆してあるところがあったり、削除してあるところがあったりする。従って中国・清末の『小学手工教科書(教師用書)』は、棚橋源太郎,岡山秀吉著『手工科教授書』の簡訳版というところである。一方、文部省編『手工教科書』については巻7・巻8(大日本図書、明治37年・1904年)しか見つからず、残念ながら同じイラストは確認できなかった。
ところで、同じ出版社である商務印書館から出されているのに、『共和國教科書新手工』には「編輯大意」がない。この教科書が出版されたのは1922年、1915年の日本の対華21条要求、1918年の五四運動、1921年の中国共産党誕生…中国のナショナリズムが一気に高揚した時期である。私の勝手な想像だが、ナショナリズムの気配が強まる中国社会の空気が、日本の教科書の翻訳であることを説明することをためらわせたのではないだろうか。
なお、鹿野公子氏の論文「明治期における手工科の形成過程」によれば、「手工科」はパリ万博(明治11年・1878年)を境に高まった欧米の実業教育科目の学校導入の流れに影響を受けたものであるらしい。技術教育振興の気運が高まっていた日本で制度上「手工科」という科目が登場したのは、明治19年・1886年の第一次小学校令に基づき定められた「小学校ノ学科及其制度」からであった。「小学校ノ学科及其制度」の第3条に高等小学校の加設科目として挙げられている。手工科は日本でも加設科目になったり、随意科目になったりを繰り返した学科で、昭和16年・1941年には「作業」「工作」という名前に変更され、後に中学校の「技術」科・小学校の「図画工作」へと発展したと言われている。
参考:『小学教科書発展史』(国立編訳館、2005、中国語)
鹿野公子「明治期における手工科の形成過程?上原、岡山、後藤、一戸の手工教育観をもとに」(日本大学教育学会 教育学雑誌32、1998)
近代デジタルライブラリーで棚橋源太郎,岡山秀吉著『手工科教授書』(東京:宝文館・東洋社、明治38)を見ることが出来ます。
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40040575&VOL_NUM=00000&KOMA=1&ITYPE=0 表紙
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40040575&VOL_NUM=00000&KOMA=139&ITYPE=0 折り鶴
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そこで調べてみると、それらしい本が見つかった。棚橋源太郎,岡山秀吉著『手工科教授書』(東京:宝文館・東洋社、明治38・1905年)である。書名は少し違うが、著者も符合するし、内容を確認すると、中国で出版された教科書と同じイラストが使われていることが分かった。「色板」の説明部分を読み比べたところ、内容はほぼ同じながら、補筆してあるところがあったり、削除してあるところがあったりする。従って中国・清末の『小学手工教科書(教師用書)』は、棚橋源太郎,岡山秀吉著『手工科教授書』の簡訳版というところである。一方、文部省編『手工教科書』については巻7・巻8(大日本図書、明治37年・1904年)しか見つからず、残念ながら同じイラストは確認できなかった。
ところで、同じ出版社である商務印書館から出されているのに、『共和國教科書新手工』には「編輯大意」がない。この教科書が出版されたのは1922年、1915年の日本の対華21条要求、1918年の五四運動、1921年の中国共産党誕生…中国のナショナリズムが一気に高揚した時期である。私の勝手な想像だが、ナショナリズムの気配が強まる中国社会の空気が、日本の教科書の翻訳であることを説明することをためらわせたのではないだろうか。
なお、鹿野公子氏の論文「明治期における手工科の形成過程」によれば、「手工科」はパリ万博(明治11年・1878年)を境に高まった欧米の実業教育科目の学校導入の流れに影響を受けたものであるらしい。技術教育振興の気運が高まっていた日本で制度上「手工科」という科目が登場したのは、明治19年・1886年の第一次小学校令に基づき定められた「小学校ノ学科及其制度」からであった。「小学校ノ学科及其制度」の第3条に高等小学校の加設科目として挙げられている。手工科は日本でも加設科目になったり、随意科目になったりを繰り返した学科で、昭和16年・1941年には「作業」「工作」という名前に変更され、後に中学校の「技術」科・小学校の「図画工作」へと発展したと言われている。
参考:『小学教科書発展史』(国立編訳館、2005、中国語)
鹿野公子「明治期における手工科の形成過程?上原、岡山、後藤、一戸の手工教育観をもとに」(日本大学教育学会 教育学雑誌32、1998)
近代デジタルライブラリーで棚橋源太郎,岡山秀吉著『手工科教授書』(東京:宝文館・東洋社、明治38)を見ることが出来ます。
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40040575&VOL_NUM=00000&KOMA=1&ITYPE=0 表紙
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日本教科書制度(検定制から国定化)が中国の初期教科書制度に与えた影響――日本の教育法令の歴史11 ― 2008年12月02日
検定制度の実施とともに、文部省では伊沢修二を編集局長として、積極的に教科書の編集を始めている。これは民間の教科書に一つの標準を示すことによって、教科書の改善を図ろうとしたものであったという。
日本の文部省が以上のような意図をもって行った教科書編集は、中国清末の初期の教科書制度に少なからず影響しているようである。清政府も、近代教育導入の初期、1901年12月の時点においては、京師大学堂(北京大学の前身)に編訳書局を設置し、内外の専門家を集めて「学堂章程」の課程計画の規定に基づき、目次を編集、次に目次を学務大臣が審査、その後、「各省の文士が、政府の発行した目次に基づいて教科書を編纂すれば、学務大臣の審査を経て、使用することとする」と檄を飛ばして民間教科書を奨励し、簡単な検定制度の運用を開始している。
ところが翌年明治35年・1902年に、日本では学校の教科書採用をめぐる教科書会社と教科書採用担当者との間の贈収賄事件が発覚する。「教科書事件」或いは「教科書疑獄事件」と呼ばれる教育史上前例のない大不祥事事件であった。40都道府県で200名以上が摘発され、それは県知事、文部省担当者、府県採択担当者、師範学校校長や小学校長、教科書会社関係者などであり、116名が有罪判決を受けるという大事件であり、教科書疑獄事件に関係した会社が発行する教科書は採択禁止となったのである。そこで日本政府はかねてから話題とされていた国定制度をこの機会に一挙に実施する。明治36年・1903年4月、小学校令改正により「小学校ノ教科用図書ハ文部省ニ於テ著作権ヲ有スルモノタルヘシ」(第三次小学校令第24条)と教科書の国定制度が規定されたのであった。
上記のような日本の突然の教科書国定化は、新しくできたばかりの中国清政府の教科書制度にも影響を及ぼしたようである。1904年、京師大学堂の編訳書局は廃止されている。更にそれを引き継いで教科書編集を担ったのは、学部(1905年11月に設立)に1906年6月設置された編訳図書局である。京師大学堂の編訳書局廃止から学部設立までの間には空白がある。これは新しい学制 「奏定学堂章程(癸卯学制)」施行によるものかもしれないが、清政府の教科書編纂機関は一時期なかったことになる。
学部・編訳図書局は、日本の国定教科書のように全国の初等教育を普及し統一することを念頭に、価格を安く抑え、複製も許可していたという。教科書国定化を視野に入れていたと見て良いだろう。もっとも、近代教育を導入して30年になる日本と、近代教育制度を導入したばかりの中国では、情況が全く異なっていた。中国では学部の教科書では間に合わず、民間の教科書を検定して採用するしかなかった。この学部教科書は児童心理に即した内容でないことや、管理、印刷が悪い等々批判が絶えなかったようである。
(なお、中国初期の清政府による教科書編纂事情については、当ブログの記事、2008年10月4日「中国・清末、清政府が設立した京師大学堂編書処による教科書編纂」及び5日「中国・清末、清政府が設立した学部・編訳図書局による教科書編纂」をご参照ください。)
参考:海後宗臣/著 仲新/著 寺崎昌男/著『教科書でみる 近現代日本の教育』(東京書籍、1999)
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日本の文部省が以上のような意図をもって行った教科書編集は、中国清末の初期の教科書制度に少なからず影響しているようである。清政府も、近代教育導入の初期、1901年12月の時点においては、京師大学堂(北京大学の前身)に編訳書局を設置し、内外の専門家を集めて「学堂章程」の課程計画の規定に基づき、目次を編集、次に目次を学務大臣が審査、その後、「各省の文士が、政府の発行した目次に基づいて教科書を編纂すれば、学務大臣の審査を経て、使用することとする」と檄を飛ばして民間教科書を奨励し、簡単な検定制度の運用を開始している。
ところが翌年明治35年・1902年に、日本では学校の教科書採用をめぐる教科書会社と教科書採用担当者との間の贈収賄事件が発覚する。「教科書事件」或いは「教科書疑獄事件」と呼ばれる教育史上前例のない大不祥事事件であった。40都道府県で200名以上が摘発され、それは県知事、文部省担当者、府県採択担当者、師範学校校長や小学校長、教科書会社関係者などであり、116名が有罪判決を受けるという大事件であり、教科書疑獄事件に関係した会社が発行する教科書は採択禁止となったのである。そこで日本政府はかねてから話題とされていた国定制度をこの機会に一挙に実施する。明治36年・1903年4月、小学校令改正により「小学校ノ教科用図書ハ文部省ニ於テ著作権ヲ有スルモノタルヘシ」(第三次小学校令第24条)と教科書の国定制度が規定されたのであった。
上記のような日本の突然の教科書国定化は、新しくできたばかりの中国清政府の教科書制度にも影響を及ぼしたようである。1904年、京師大学堂の編訳書局は廃止されている。更にそれを引き継いで教科書編集を担ったのは、学部(1905年11月に設立)に1906年6月設置された編訳図書局である。京師大学堂の編訳書局廃止から学部設立までの間には空白がある。これは新しい学制 「奏定学堂章程(癸卯学制)」施行によるものかもしれないが、清政府の教科書編纂機関は一時期なかったことになる。
学部・編訳図書局は、日本の国定教科書のように全国の初等教育を普及し統一することを念頭に、価格を安く抑え、複製も許可していたという。教科書国定化を視野に入れていたと見て良いだろう。もっとも、近代教育を導入して30年になる日本と、近代教育制度を導入したばかりの中国では、情況が全く異なっていた。中国では学部の教科書では間に合わず、民間の教科書を検定して採用するしかなかった。この学部教科書は児童心理に即した内容でないことや、管理、印刷が悪い等々批判が絶えなかったようである。
(なお、中国初期の清政府による教科書編纂事情については、当ブログの記事、2008年10月4日「中国・清末、清政府が設立した京師大学堂編書処による教科書編纂」及び5日「中国・清末、清政府が設立した学部・編訳図書局による教科書編纂」をご参照ください。)
参考:海後宗臣/著 仲新/著 寺崎昌男/著『教科書でみる 近現代日本の教育』(東京書籍、1999)
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検定制度が果たした役割と検定教科書――日本の教育法令の歴史10 ― 2008年12月01日
日本における教科書の検定制度が固まったのは明治時代である。検定制度は、学年別、つまり児童の発達に応じた近代教科書を全国の小学校に普及させるうえで、大きな役割をはたした。
この検定教科書、内容から見ると三期に分けられる。①明治19年の小学校令及び「小学校ノ学科及其制度」に準拠した時期→明治10年代の教科書は訂正版で検定。②明治23年の小学校令及び翌年の「小学校教則大綱」に準拠した時期→「教育勅語」の影響が教科書に。③明治33年の小学校令改正、小学校令施行規則に準拠した時期→字音かなづかい、感じの範囲など、教科書の内容に大きく影響
検定制度改革を転機として、地方出版の教科書が急速に減少、教科書の出版は中央に集中し、検定時代末期には東京の大出版社に集中して、販売競争が激化、教科書事件を引き起こす原因ともなった。
参考:海後宗臣/著 仲新/著 寺崎昌男/著『教科書でみる 近現代日本の教育』(東京書籍、1999)
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この検定教科書、内容から見ると三期に分けられる。①明治19年の小学校令及び「小学校ノ学科及其制度」に準拠した時期→明治10年代の教科書は訂正版で検定。②明治23年の小学校令及び翌年の「小学校教則大綱」に準拠した時期→「教育勅語」の影響が教科書に。③明治33年の小学校令改正、小学校令施行規則に準拠した時期→字音かなづかい、感じの範囲など、教科書の内容に大きく影響
検定制度改革を転機として、地方出版の教科書が急速に減少、教科書の出版は中央に集中し、検定時代末期には東京の大出版社に集中して、販売競争が激化、教科書事件を引き起こす原因ともなった。
参考:海後宗臣/著 仲新/著 寺崎昌男/著『教科書でみる 近現代日本の教育』(東京書籍、1999)
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