日食予測-皇帝の寵愛と凋落と西洋暦法の勝利 ― 2010年05月11日
清朝・順治帝の時代、シャールと中国全土の宣教師達は安穏な日々を送った。これはシャールが最初は摂政王・ドルゴン、後に順治帝とその実母・孝荘太后の絶大なる信頼を勝ち得たことが大きい。改暦は実質上摂政王ドルゴンの治世下で行われたが、1650年(順治7年)に13歳で親政した順治帝は、シャールを師と仰ぎ、親しみやすい人柄と深い教養を愛した。その寵愛ゆえに、シャールは数多くの爵位、「通玄教師」という号を授けられ、西洋暦法もその恩恵に浴した。
ところが、1661年(順治18年)、順治帝が崩御し、第三子・玄燁(8歳)が康煕帝として即位すると、保守的な大臣が摂政となり、宣教師達に対する風当たりがにわかに強くなった。康煕3年、中国人で中国古来の暦法の研究家と称する楊光先が、暦の些細な問題を指摘し、更に順治11年に逝去した栄親王の葬儀の日取りがたまたま凶に当たっていたのを申し立て、シャール以下の宣教師等が投獄された。ベルギー出身のイエズス会士、フェルディナント・フェルビーストは、中風で言葉が上手く話せないシャールに代わって弁明に努めたが、審議を担当する官僚には科学的知識がなく、カトリックを邪教と見る保守派の集まりだったから、ほぼ徒労に終わった。康煕4年3月、シャールは死刑の中でも最も重い凌遅斬刑、他の宣教師は杖刑の判決を受ける。
この危急の際、彼らを救ったのは翌月北京で起きた大地震だった。中国の伝統的な考え方に照らせば、天災は天の怒りである。大赦が行われ宣教師は釈放、また判決に怒って大臣を叱りつけた孝荘太后のおかげで、シャールは死刑を免じられ、教宅で軟禁生活を送り、75歳で失意の内に病死した。
シャール等の失脚によって、欽天監の実権は楊光先等保守派が握るところとなる。しかし、時がたつと、楊等の暦算による予測が実際の天文現象と合致しないことが明らかとなった。
康煕帝が親政すると、フェルビーストは楊光先の暦の計算が間違っている旨を上書する。康煕帝は両者の言い分を確かめた上で、1669年(康煕8年)正月に起こるはずの日食についてその時刻を計算させ、当日宮廷に官吏を集めて日食を待った。果たして、フェルビーストが予測した時刻通りに日食が始まった。西洋暦法が勝利した瞬間であった。まもなく、シャールも名誉回復された。
中国で日食予測が確率の世界だった時代は、これで終わりを告げた。時憲暦の地位はその後ゆらぐことはなかった。なお、民間では今でも、時憲暦の置閏法に基づいた暦が「農暦」の名称で使用されている。
参考:
ウィキペディア
藤井旭『日食観測ガイド』学研
平川祐弘『マッテオ・リッチ伝』1-3巻 東洋文庫
後藤末雄著 矢沢利彦校訂『中国思想のフランス東漸』1-2巻 東洋文庫
藪内清『増補改訂 中国の天文暦法』
宮崎市定『中国文明の歴史 9清帝国の繁栄』
閻祟年『正統清朝十二帝』(中文)
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