敗者復活が難しいフランスの学校制度2011年09月29日

忙しいのに、というか、忙しいから?ついつい本に手が伸びてしまって…
昨日は安達功『知っていそうで知らないフランス』を一気読みしてしまった。この本の副題「愛すべきドンデモ民主主義国」に惹かれて手に取ったら、面白くてついついとまらなくなってしまったのだ。

大まかに言って、内容の半分はフランスの社会や文化史、レジスタンスの歴史やフランス人の人権や環境等についての価値観、半分は記者である著者安達氏が見たフランス政界の内側について書かれている。この中で私が最も興味深く読んだのは、第2話「エリートとグランゼコール」である。

フランスではエリートと庶民が明白に分かれており、どの地域で小学校に入るか、で大学に行けるかどうかがほぼ決まるという。例えばパリなら郊外や下町はチャンスは少なく、中心部の方がチャンスが格段に多い、つまり庶民には大学進学のチャンス自体が元々少ないということである。更に職業高校へ行ったら、大学へ入学するチャンスは全く無い。人生の全てが出身家庭や進んだ高校で決まる…のは日本も同じようなものだが、日本の場合は、高校を中退しても大検を受ければ大学に進学できるし、公務員試験や司法試験だって年齢制限等をクリアできれば受験できるから、まだリベンジの機会は残されているように思う。フランスのように、18歳までの経歴で進路が固定され、その後伸びるかも知れない人にチャンスが与えられないとしたら…なんと大きな損失だろう。反対に大学に入ってから、職人の道へ進もうと思っても、それも許されないという。幸い「留学」という手段があるから、道は残されていると言えなくはない。少なくとも、日本と比べてフランス社会に敗者復活の機会が少ないことは明らかである。フランスのエリート社会についての話は折に触れて聞いていたが、ここまでの「単線構造」の社会だったとは!正直驚いた。

では、「単線構造」の頂点にいるエリートとはどういう存在なのだろうか。エリート中のエリート「グランゼコール」出身者は政・官・財・学の全ての分野で特権的な地位をほぼ独占している。グランゼコールとはフランス独自の高等教育専門機関である。大学入学資格取得のための統一試験・バカロレア試験を受けて特に成績優秀な者のみがグランゼコール準備学級(2年間)に進んで1/4ほどに選抜され、卒業後にグランゼコール選抜試験にのぞみ、合格した者だけがグランゼコールに進む。グランゼコールの学生は公務員扱いなので給料も支払われる。卒業後は専攻分野のエリートとして扱われることになる。一般大学出身者とは明白な区別があるらしい。更にグランゼコールはフランス全土に200校ほどあり、その卒業生はエリート中のエリートだが、実は本当の特権階級を形成しているのはグランゼコールの名門数校の卒業生であるという。彼らこそが今のフランスの貴族階級のようなものだ。制度上、誰にでも開かれているように見えながら、実際には庶民には閉ざされているエリートへの道、科挙みたいだ。

そうだ、そもそも、このエリート選抜方法は、どうやら中国の科挙に似ている。つまり、一般大学出身者は科挙の郷試にまで受かった人達、グランゼコール出身者は科挙の殿試にまでいった人達、というところ。そういえば、17-18世紀にかけて、ヨーロッパと中国は貿易商や宣教師を通じた文化交流があり、シノワズリと呼ばれる中国趣味の美術様式が流行った時代があったことはよく知られている。そういえば、乾隆帝に仕えたイエズス会の宣教師が科挙をフランス国王に紹介していたような気がする。うーん、ちょっと調べれば、誰かがきっと何か書いてくれているに違いない。これは今の仕事が終わってから「ちょっと調べ」ようっと。

読んだ本:安達功『知っていそうで知らないフランスー愛すべきトンデモ民主主義国』(平凡社新書)

カザフスタンの教育制度2(補足)2010年12月22日

 嬉しいことにブログの記事を読んでくださったカザフスタンの留学生の方より、カザフスタンの学校についてより詳しい情報をいただいたので、幾つか補足しておこうと思う。

 2010年9月1日現在、カザフスタンの学校数は約7400校で、内7割が農村学校だそうだ。(ちなみに平成22年度の日本の小学校数は国立74校、公立21713校、私立213校、合計22000校。公立に含まれるが分校は270校)都。会や農村で児童生徒数が定員を上回っている一部学校では、午前と午後の交代制で授業が行われているらしい。

一方、農村学校の約半分は小規模学校である。遠隔地域にある村の学校では一学年の児童生徒数が定員を下回っていると、年齢の近い生徒を一組にして授業を教える方法が採られている。例えば、小1、2、3、4年生で一組、中1、2、3年生で一組、中4、5年生で一組など、である。このような小規模学校は一般的に義務教育段階で終わり、高校段階はないという。小規模学校の卒業生が高校に進学したい場合は、高校段階まである近くの村の学校に編入するか、あるいは地方都市の全寮制学校へ行くという選択肢がある。

なお、カザフ語とロシア語はすべての教育機関(公私、小中高、大学のすべて)で必修科目だそうだ。独立から10年が過ぎて、メディアや教育を通じてカザフ語の普及が進んでいる。それでも現状では、カザフスタンの方はロシア語を話す方が多いらしいし、カザフスタンのカザフ語にもロシア語の影響が色濃いという。

情報をくださったカザフスタンの留学生さんは教育学が専門の大学院生の方です。どうもありがとうございました。日本で得られるカザフスタンの情報は限られていますので、専門家の方の情報提供は大変助かります。今後も何かお気づきの点などあれば、ぜひコメントください。




カザフスタンの教育制度12010年12月09日

先日カザフスタンの留学生の模擬授業に参加したとき、教育制度を少し紹介していた。私のカザフスタンの印象といえば中央アジアにある遊牧民の国で、記憶にある事といえば日本敗戦後に日本人捕虜が送られ抑留されたこと、同じ時期にソ連領内の朝鮮民族がスターリンによってカザフスタンへ強制移住させられたことだけで、カザフスタン自体について知ろうとしたことはかつてなかった。日本と縁の深い中国とロシアという隣国を持つという意味では日本と共通しているのに、全然知らなかった。模擬授業で聞いたのは小学生向けの簡単な内容であったから、これに私が調べた内容を付け加えて、一応覚え書きとして残しておこうと思う。

カザフスタンの教育制度は、小学校4年、中学校5年、高校2年の11年制(シュコーラという。内、9年間が義務教育)と高等教育機関である大学(4-5年)で成り立っている。新学期は9月からで一学期が9-10月、二学期が11-12月、三学期が1―3月、四学期が4-5月の四学期制なのだそうだ。ちなみに夏休みは6-8月の三ヶ月らしい。成績は五段階で5-4が進学、3が試験、2-1が落第、これは小学校二年生から適用されるという。昼食は自宅でとるか、学内の食堂を利用するとのこと…いずれも基本的な情報だが、これだけでも日本とはずいぶん違うのが分かる。義務教育段階について、アルマティ、アスタナなど大都会における就学率はほぼ100%、地方でも就学率も90%を超える。ただし地方の場合、高校への進学率は60%程度であるらしい。

カザフスタンの人口の半分がカザフ人、残りの半分をロシア人、ウクライナ人、ウズベク人、ドイツ人、タタール人、ポーランド人、朝鮮及び韓国人などが占める。これは19世紀以降の入植及び移住政策等による。歴史的には遊牧国家が興亡した地域であり、チンギス・ハンの子孫が打ち立てたカザフ・ハン国が19世紀まで続き、その後ロシアの支配下に入り、ソビエト連邦の共和国の一つとなった。スターリン時代の遊牧民の強制定住化により百万人以上が犠牲になるなどの悲劇もあった。ソ連崩壊によりカザフスタンが独立したのは1991年である。独立からしばらくはロシア語による教育が主流を占めていたが、独立後の10年間で初・中等教育のカザフ語化が進み、現在ではカザフ語のみで授業を行う学校が増えているらしい。公立学校ではカザフ語が義務化されている。英語学校やカザフ語と英語、ロシア語の言語別のクラスを持つ学校もある。(カザフスタンの留学生さんのコメントにより、2010年12月21日訂正)


駒込武・橋本伸也 編『帝国と学校』を読む2009年11月27日

駒込武・橋本伸也 編『帝国と学校』
 『帝国と学校』(昭和堂)を読んでいる。「帝国と学校」、まさにいまの私の興味とぴったりのタイトルにひかれて手に取った。

 序論がいわば総論で、それ以降は「帝国と学校」というテーマを、論者がそれぞれのフィールドで論じる構成となっている。序章の冒頭に「本書は19世紀から20世紀前半にかけてのロシア帝国、ハプスブルク帝国、大日本帝国、大英帝国、アメリカ合衆国の例に即して、世界史的な視野から[帝国と学校]という問題群を考察するための手がかりを獲得することをねらいとしている。」とあるように、とくかくフィールドが広い。

 そして素材が面白い。ロシア帝国におけるユダヤ人の教育問題、モラヴィアのチェコ系とドイツ系住民の民族言語相互習得の問題、ウィーンのチェコ系小学校、日本統治下の朝鮮における非義務教育制と学校の普及の問題、日本統治下の台湾における先住民族児童の就学率と実態、大英帝国統治下のナイジェリアにおけるミッションスクールによるエリート育成の功罪、朝鮮における近代教育の先駈けであるミッションスクールの生成と発展、イギリス帝国と女性宣教師、アメリカ合衆国という帝国と日本女子大学、官立女子高等師範と奈良女子高等師範の満州への修学旅行、など。いずれも興味深い素材を扱っている。

 さらっと読んだが、アジア以外の部分では歴史的背景がつかめない部分もあったので、関連書を図書館で探して、もう少し深く読んでみようと思っている。

読んでいる本:駒込武・橋本伸也 編『帝国と学校』(昭和堂、2007)

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『中国歴史教科書と東アジア歴史対話』を読む3――日中の「南京大虐殺」の議論2008年10月30日

 『中国歴史教科書と東アジア歴史対話』を読む限りでは、『未来をひらく歴史』作成にあたっての議論は、「歴史認識」に関わる、何れも難しい問題を扱っている。執筆期間も3年と短く、実際に集まって議論する機会も数えるほどだったようなので、その議論が尽くされたかどうか気になっていた。本書を読む限りでは、数少なかった直接議論の機会に加え、メールや電話等の媒体をフルに利用し、関係者が最大限の努力をして、真剣に歴史共有を目指したことが感じられた。

 その中で最もデリケートな問題だったのは『未来をひらく歴史』の第三章「第三節 日本軍による中国民衆への残虐行為」で扱われている内容、特に「2.南京大虐殺」であると思う。この節については、原稿執筆と修正を任されたのは中国である。中国側メンバーに南京大虐殺の研究者が多い構成からみて、中国が最も力を入れたかった部分であろう。「南京大虐殺」を議論したのは主に日本と中国の2国であるが、韓国という客観的にこの問題を見て意見を述べることができる第三者の存在は大きかったのではないだろうか。

 本書では、議論の結果として、中国側が虐殺のプロセスや背景をこそ、歴史認識として三国で共有したい内容と判断して、被害の象徴ともいうべき「30万人」という数字を最終的に入れなかった事実を大きく扱っている。本書のこの取り上げ方にはどことなく違和感を覚えるけれども、研究成果の対話等の社会的状況が、従来の「南京大虐殺」被害に対する両国の歴史認識の格差を、矯正しつつあるのだという実感はもった。また、各国間の見方は異なっていても、客観的な歴史研究の結果を教科書の記述に反映させるという形で、歴史の共有をギリギリのところで可能にしたのも、成果といっていいだろう。

 ここでやはり気になるのは、この『未来をひらく歴史』における歴史対話が3国の歴史教科書に反映しうるかということである。

読んだ本:齋藤一晴『中国歴史教科書と東アジア歴史対話』(花伝社、2008年7月)
日中韓3国共通歴史教材委員会 日本・中国・韓国=共同編集『未来をひらく歴史―東アジア3国の近現代史』(高文研、2005年5月)

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『中国歴史教科書と東アジア歴史対話』を読む2――日中韓3国の歴史共有の為の議論2008年10月28日

 本書を読んでいて、最も興味深かったのが、作成過程における議論の内容である。最初に日中韓3国で共同編集した『未来をひらく歴史』を読んだ時点では、先に紹介した日韓歴史共通教材『日韓交流の歴史』が15年の歳月をかけ最新の歴史研究の成果を取り入れて、念入りに作成されたのと比べると、かなり速成であり(もっとも『日韓交流の歴史』は通史で、『未来をひらく歴史』は近現代史のみを扱っているから単純には比べられないが。)、原稿の執筆の担当を各国に割り振り、三国の議論内容に基づいて、執筆担当国が修正するという編集方法で、歴史を共有できるのか、そのあたりが気になっていた。

 本書では「日清戦争」「南京大虐殺」「総力戦体制」「歴史教育のあり方」「戦争の記憶」という5つに集約して説明している。本書を見る前に『未来をひらく歴史』を読んだとき、気をつけて見ていた部分は、誰もが気になる部分と見えて、その多くが、同書に議論された内容として取り上げられていた。同書と合わせながら見てみると、議論の後が濃厚に見えてとても興味深かった。

 あくまでも個人的な感想だが、中でも、議論の成果があったように感じたのが「日清戦争」である。「日清戦争」について、それぞれの自国中心の歴史観が議論により調整されたことで、三国で共有する歴史叙述を見いだせた好例だと思うので、そのプロセスを詳しく記しておくことにする。(46-52頁)


 本書に沿って、「日清戦争」についての議論過程を追ってみたい。日清戦争の節の原稿執筆と三国の意見交換を踏まえての修正を担当したのは中国であった。当初、中国側が用意した原稿は「日本海軍による豊島沖での中国輸送船への奇襲攻撃を戦争の開始と位置づけ、旅順における日本軍の虐殺に多くの紙面を割き、その後に開戦以前の三国関係を述べるという時系列とは異なる歴史叙述」であり「中国がどのように日本にやられたのかに重点が置かれ」たものであったという。

 これについて本書の筆者は「中国にとっての日清戦争とは、あくまでも自国にとっての被害、戦争ということになり、中国を中心とした東アジアにおける伝統的な国際秩序が日清戦争によって崩壊したことを論じる傾向が弱い。」と述べている。そのような視点に基づき日本側は「中国の歴史教科書にみられる自国中心的な歴史叙述をそのまま反映した内容は、『未来をひらく歴史』に相応しくないことを中国側に率直に伝えた」という。

 このとき韓国側は「中国側の提示した原稿に対して真っ向から反対意見を述べ、全面的な修正を求めた」。それは、朝鮮への視野を全く欠いていることや、清の朝鮮への軍隊派遣は自国の防衛の意味があったのにそれが明記されていないことや、当時の清と朝鮮との朝貢関係を暗に是認する叙述となっていることへの痛烈な批判であった。

 中国側は日韓の意見と批判を受けて、何度も加筆・修正した。最終的には、「歴史の流れに沿った歴史叙述」となり、「婉曲な表現ではあるものの、当時の清と朝鮮の関係に言及し、さらに日本の侵略の狙いが何であったのかを簡潔に指摘」し、「下関条約の第一条を明記するなど、歴史の因果関係に重点」をおき、「節の最後にロシアの存在を登場させ、朝鮮をめぐって日露戦争へと発展していく要因について記述し、日本の侵略戦争の全体像を明らかにする姿勢」を示す、というように、議論の内容が叙述に反映された。議論により、3国が共有出来る歴史叙述を見出したわけである。こうしたプロセスが生み出す3国の歴史の共有には、本当の意味の世界史の構築に結びつくものとして、非常に興味を覚える。

読んだ本:齋藤一晴『中国歴史教科書と東アジア歴史対話』(花伝社、2008年7月)
日中韓3国共通歴史教材委員会 日本・中国・韓国=共同編集『未来をひらく歴史―東アジア3国の近現代史』(高文研、2005年5月)

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『中国歴史教科書と東アジア歴史対話』を読む1――日中韓3国共通歴史教材委員会による『未来をひらく歴史』作成の経緯2008年10月27日

齋藤一晴『中国歴史教科書と東アジア歴史対話』(花伝社)読んでます
 先日ヨーロッパにおける歴史教科書対話について書いた『国際歴史教科書対話』を読んで得るものが多かったので、今度は『中国歴史教科書と東アジア歴史対話』を読んでみた。こちらは2002年春から2005年春にかけて日本・中国・韓国の研究者や教師らによって共同編集され、2005年に出版された日中韓共同編集の東アジアの近現代史歴史教材『未来をひらく歴史』の作成経緯(作成方針、作成メンバー、作成経緯と問題設定、作成過程の議論)、刊行後の反応、中国の歴史教科書の近年における変化を紹介したものである。興味を持った部分について覚え書きを残しておくことにする。

 まず、大事なのはメンバー構成だろう。同書の解説を読みつつ「日中韓各国の執筆・編集メンバー一覧」(24,25頁)を見ると、それぞれの国の事情が反映されていることがわかる。日本のメンバーは「子どもと教科書全国ネット21」「歴史教育アジアネットワークJAPAN」等の市民組織が、韓国のメンバーは韓国挺身隊問題対策協議会など「慰安婦」問題の運動に主体的に取り組んできた高校と大学の教員が、中国のメンバーは社会科学研究院、上海師範大学を主とした抗日戦争と南京大虐殺の歴史学者がメンバーである。市民組織が基盤の日本、慰安婦問題の運動組織を基盤とする韓国、国家組織が基盤の中国、という違いはやはり気になるところである。けれど、少数ながら、歴史教科書執筆者は含まれているのは重要である。かつてのヨーロッパにおける教科書対話では、教科書執筆者が対話に参加することが、後の教科書の記述に大きな影響を及ぼしているからである。ちなみに、中国のメンバーには、先日紹介した上海版歴史教科書の主編・蘇智良の名も見える。『未来をひらく歴史』の編集時期は上海版歴史教科書の編集時期と重なるのであり、影響があったことを本書は指摘している。(51頁)できれば、上海版歴史教科書の原本を見て確認してみたいものである。

 次に私が興味を持っていたのは、この教科書がなぜ近現代史に限られたかということだ。本書によれば、「韓国側からは、中国とのいわゆる高句麗問題を念頭に古代史を含む通史の共通教材作成が提案されたこともあったが、にほんの侵略戦争をめぐる歴史事実を三国で共有する、という目的にそって今回は見送られた。」(28頁)とある。即ち、日中韓のメンバーに共通するのは、東アジアの歴史教科書の近現代史記述に対する問題意識であって、それが、この教科書の記述範囲を近現代に限定させたと見て良いだろう。

 最も興味深い作成過程の議論については、長くなるので次回に(^^)

読んでいる本:齋藤一晴『中国歴史教科書と東アジア歴史対話』(花伝社、2008年7月)
日中韓3国共通歴史教材委員会 日本・中国・韓国=共同編集『未来をひらく歴史―東アジア3国の近現代史』(高文研、2005年5月)

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素朴な感想――欧州共通教科書『ヨーロッパの歴史』を読む12008年10月03日

欧州共通教科書『第2版 ヨーロッパの歴史』(
  ヨーロッパ史に本当の意味で興味を持ち始めたのはここ1-2年のことである。世界史は好きな教科だったけれども、「ゲルマン民族の大移動」を学んだとき、なぜこれを歴史上の重大事として学ぶのか、ピンとこなかった。

 いま、欧州共通教科書『ヨーロッパの歴史』で「3 侵入と変動 新しいヨーロッパ成立へ向けて」まで読み進みながら、以前とは違う新鮮な感覚を味わっている。何でも中国に結びつけて恐縮だが…ローマ人とゲルマン人の関係が、中国史で言えば、漢人と匈奴の関係のように見えて仕方がない。

 そもそも、この時期のアジアとヨーロッパの動きには関連がある。匈奴は遊牧民族で東欧や地中海諸国に侵入したフン族と同族との説は有名だ。更に、このフン族(他の草原民族)が他民族を圧迫したことがヨーロッパの民族大移動の契機となったと言われている。

 ヨーロッパもアジアも同じ大陸にあり、これらの歴史にはそれぞれ関わりがある。各国史を組み替えた世界史ではなく、ナショナリズムを抜け出した客観的な歴史の世界史として、語ることもできるはずである。

読んでいる本:フレデリック・ドールシュ・総合編集/木村尚三郎・監修/花上克己・訳 欧州共通教科書『第2版 ヨーロッパの歴史』(東京書籍、1998)

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ヨーロッパ史から世界史の共有へ--『国際歴史教科書対話』を読む22008年10月01日

 近藤孝弘『国際歴史教科書対話』には、教科書対話に積極的だった著者によって書かれた教科書が『ドイツ史(Deutsche Geschichte)』というタイトルゆえに批判を受けたエピソードが紹介されている。「その教科書を鑑定したアンドレ・オペールによれば、歴史教科書のタイトルに『ドイツの』という形容詞を用いること自体がすでにナショナリスティックなのであった」「フランスはもちろんドイツにも、歴史という教科の枠組みのなかに日本史と世界史に対応するような自国史と外国史の区別は存在しない」という。

 一方、近藤氏は『国際歴史教科書対話』において、ヨーロッパ史作成の問題点についても指摘している。ヨーロッパ史作成が始まった頃には、欧州共通教科書の誕生は、世界史を共有するという遠い目標への一過程としてとらえていたが、欧州統合の動きのなかで、その本来的な意味が忘れられているという。また、欧州共通教科書『ヨーロッパの歴史』はその記述がヨーロッパに偏っていることは以前から指摘されており、「ユーロセントリズム」(ヨーロッパ中心主義)の歴史教育への危機感も表明している。

 自国史と世界史を区別しないほど思想的に進んでいるヨーロッパであっても、未だ「ユーロセントリズム」(ヨーロッパ中心主義)からは抜け出していないようだ。遙かに先を行くように見えるヨーロッパでさえ、世界史を共有する遠い目標へ第一歩を踏み出したばかりなのである。

 日本、中国、韓国の三国間及び日本と韓国の二国間で、歴史研究者等により行われた歴史教材を共同編集する試み、お互いを知るという意味で大きな前進があったことは確かではある。しかし、上述のヨーロッパの歴史教科書対話の経緯から判断すれば、いまだ端緒についたばかりであると言えそうだ。東アジアの歴史教育の議論も歴史認識もナショナリズムの渦の中にある。中華思想的ナショナリズムを抜け出して、客観的な世界史を共に紡ぐためには、これから幾多の課題と困難を乗り越える必要がありそうである。

参考:近藤孝弘『国際歴史教科書対話―ヨーロッパにおける「過去」の再編』(中公新書、1998)

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ヨーロッパの歴史教科書再編--『国際歴史教科書対話』を読む2008年09月30日

近藤孝弘『国際歴史教科書対話』
 近藤孝弘『国際歴史教科書対話―ヨーロッパにおける「過去」の再編』(中公新書、1998)はヨーロッパの歴史教育と教科書対話について理解する為にも、『欧州共通歴史教科書』誕生の背景を知る意味でも、今後の歴史教育、教科書を考える上でも、大事な知識と欠かせない視点を与えてくれる本である。

 本書の本題は戦後に加害国ドイツを軸に行われた二つの歴史教科書対話である。一つ目は戦後直後から始まったフランスとの対話。反共主義者だった西ドイツのアデナウアー政権が隣国フランスとの和解を急いでいた、という政治状況もあり、早期に実現した。二つ目は1972年に始まった最大の被害国ポーランドとの対話。この対話は冷戦により(西ドイツが反共政権だったこともあり)大幅に実現が遅れた。

 近藤氏は特に二つ目のポーランドとの対話に重点を置き、1976年の会議で出された26項目の「ドイツ連邦共和国とポーランド人民共和国の歴史と地理の教科書に対する勧告」中の10項目について内容にまで踏み込んで詳細に分析を行っている。そのいずれもが示唆に富む内容であるが、気が付くのは両国間の歴史理解で問題となるのが、ナチスの時代に限らず、ポーランド分割を含む近代史、或いは古代史にまで及んでいることである。更にドイツとフランス、ドイツとポーランドの対話は時に多くの抵抗と反感を引き起こしながらも数々の議論を経て、社会が徐々にこの対話の結果を受け入れていった経緯も興味深い。

 ところで、本書の巻頭にはバートランド・ラッセルのこんな言葉が載っている。「(子どもたちは)自分たちの国家が行なった戦争はことごとく防衛のための戦争で、外国が戦った戦争は侵略戦争なのだと思うように導かれる。予期に反して、自国が外国を征服するときは、文明を広めるために、福音の光をともすために、高い道徳や禁制やその他の同じような高貴なことを広めるためにそうしたのだと信じるように教育される」(バートランド・ラッセル『教育と社会体制』、1932)

 歴史教育の機能を実に上手く表現しているバートランド・ラッセル(1872-1970)の発言は第二次世界大戦前のヨーロッパを念頭に置いたものである。ヨーロッパには戦前から歴史教育に対する問題意識があり、すでに歴史教科書対話が行われ、社会的な関心も強かったのである。北欧ではすでに隣国の教科書の記述を確認しあうことが行われていた。フランスとドイツの間でも対話があった。(このときの対話の結果はフランスの教科書には反映されたが、ドイツではナチスの対外イメージ戦略に利用されただけで教科書に反映されなかったとはいえ)ヨーロッパでは歴史教育の問題がこれほど早くから社会的に認知されていたのだ。だからこそ、戦後間もなく歴史教科書対話が実現したともいえるだろう。

長くなったので、続きはまた明日(^^)

参考:近藤孝弘『国際歴史教科書対話―ヨーロッパにおける「過去」の再編』(中公新書、1998)

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