中国で環境問題を問う難しさ--柴静の「穹頂之下」に思う2015年03月23日

このところ、2015228日に公表された柴静の「穹頂之下」が気になっている。いろいろな見方が登場するなかで、柴静に対する自分の見方に偏りがあるように思えてきた。この辺りで経緯と考えを整理しておこうと思う。

私が柴静に興味を持ったのは数年前、この「穹頂之下」を発表するよりも前に、彼女がメインキャスターを務める番組「看見」「新聞調査」を見たのがきっかけだった。この時は柴静自身ではなく、番組が取り上げる事件や出来事の方に注目していたのだけれど、彼女が2013年に出版した『看見』を、中国で話題になっている本があると知って手に取った時、表紙の写真を見て遅ればせながら、気がついた。以来、体制内のジャーナリストの中では気骨がある人だと、好意的に見てきた。

柴静の報道番組は普通人にはとても立ち入れない危険なところ、奥地、政府機関、会社の上層部、闇社会の末端に潜入し、真相を知る関係者に鋭い質問を投げかけるのが見どころだ。彼女を一躍有名にしたのはSARSの取材だが、他のもなかなかすごい。例えば「新聞調査」の中でも、中国音楽学院の不正入試を暴いた「運命の琴線」では、実力と実績がありながら不合格となった受験者と家族、試験関係者や専門家へのインタビューや調査を通して、大学入試「高考」の不正の有り様を暴いてみせた。(中国国内では放送禁止になったが、今でもYouTubeでみることができる。)もちろん、そんな取材ばかりではないのだけれど、印象深い取材が他にもいくつもある。

彼女が201310月にアメリカで出産、これを芸能誌に暴露されマスコミに叩かれ、ファンの顰蹙を買ってしまった経緯もドキドキして見守ってきた。批判する側は「国を愛しているんじゃなかったのか?裏切り者」的な文脈で彼女を責め立てた。

この後、しばらく柴静の話題が出なくなった。残念に思っていたところ、20144月、日本で「看見」の訳書が出版された。冒頭にはインタビューが載っていて、柴静の健在ぶりが分かり嬉しくなった。

ところが2014年秋、柴静が2014年初めには中央電子台を離れていたという報道を見た。2013年夏におきた担当番組の放送禁止が打撃とかアメリカでの出産を攻撃されたせい等と憶測が飛び交った。この時は柴静は沈黙を守ったので、本当のところはわからなかった。

沈黙が破られたのは、2015228日である。人民網と優酷で公開された大気汚染問題をレポートした「穹頂之下」で、彼女が私費を投じ一年をかけて大気汚染問題に取り組んできたこと、それが子どもの腫瘍がきっかけだったこと、また子どもの看病のために辞職したこと、などが明らかにされた。柴静が活動を休止していたように見えた一年間の中身がここで明らかにされたのであった。曾て柴静の評判を地に落とすきっかけとなった出産が、このプレゼンにより全く別の意味に変質した。柴静にとってはいわば名誉回復の場でもあったといえるだろう。

微博で「柴静看見」をフォローしていたおかげで、私は1時間40分の動画も人民網のインタビュー記事も公開当日に見た。一番始めに見たときはとても感動したし、感心もして、興奮もした。今振り返ると、柴静の復活を喜ぶファン意識も影響していた。ただ、これだけの取材と公表がCCTVを辞めたフリーの記者にできるのか、疑問に思ったのも確かである。

中国国内の反応を見たくて関連の記事や書き込みとコメントを探した。賞賛の声に混じって、疑問を呈する声、反発の声が登場し、標的にされた鉄鋼石炭関連産業関連者からの批判、次には彼女の私生活批判が始まった。デマや偽文書が飛び交う様子もリアルタイムで見ているとなかなかスリリングだった。現政権の黙認、政府機関がバックにいる等の分析にはたぶんそうなのだろう、とも思った。ところがたった6日で密命により封殺された。中国国内で動画が見られなくなり、公表直後に溢れた賞賛記事なども姿を消してしまった。見事なほどあっという間の消火活動だった。

こうした消火活動を見て、言論統制は怖いと思った。環境問題は政界や産業界と分かち難く繋がっている。例え一部政府機関の支持があっても、大気汚染がいくら深刻でも、強い力が働けば、情報は如何様にも制御出来るのである。でも…問題は情報は制御できても肝心の大気汚染は制御できていないことである。

中国の大気汚染は相当深刻である。急速な経済発展は、過去には簡単に手に入った人間の生存に必要なもの「空気」「食品」「水」「治安」の安全を、とてつもなく高価で手に入りにくいものにしてしまった。国の面子だって危険にさらしている。先日、アメリカから中国に留学する人が減少しているという記事を読んだが、その理由の一つは大気汚染だった。

幸い、柴静たちの活動はいまも続いているようだ。微博「柴静看見」ではその片鱗を見ることが出来る。「大気汚染に宣戦布告する、目的を達するまでは闘うのを絶対にやめない」などの書き込みを見ると、金庸の武侠小説に登場する英雄好漢的な侠気が透けて見えるようである。しかし一方で当初の勢いは影を潜めてしまった。

中国の大気汚染解決に向けて光が射したように感じたのは、ほんの一瞬の幻想でしかなかったのか?柴静のプレゼンは権力闘争に利用されたに過ぎなかったのか?リアルタイムで変化を追っていても、情報が錯綜しているなかでの分析は困難である。冷静に事実を積み上げて分析したくても、情報を消されてしまうとそれも難しい。

少なくとも、今回、柴静のプレゼンと封殺までの経過を見守った経験は、自身の見識不足を実感し、中国の情報統制事情を理解する上で貴重な勉強の機会になった。2015.3.26改訂