近代教育に始まる「唱歌」「体操」――日本の教育法令の歴史6 ― 2008年11月23日
明治14年・1881年5月「小学校教則綱領」あたりから次第に小学校の教科として取り入れられたのが、「唱歌」「体操」である。明治5年・1872年「学制」において正式科目とされながら「当分コレヲ欠ク」して実施されていなかったのである。いずれも、アメリカ留学で音楽教育及び体操教育の重要性に目覚めた伊沢修二等の建言と文部大輔・田中不二麿の努力で、文部省にそれぞれ専門部署が設けられ、更にそれまで日本になかった教科であったので、外国から専門家が招かれた。
音楽の方は、明治12年文部省に音楽取調掛(東京芸術大学音楽部の前身)がおかれ、翌年音楽教育の専門家アメリカ人のメイソン(L.W.Mason)が招かれた。メイソンは伊沢がアメリカ留学中に知り合って影響を受けた人物である。日本の音楽教授はここに始まる。唱歌の教科書としては伊沢等により『小学 唱歌集』(全三巻、明治14年・1881年、文部省)が編集された。
一方、体操の方は文部省が明治11年体操伝習所を設けアメリカからリーランド(G.A.Leland)を招いて洋式体操を取り入れた。リーランドはアマースト大学卒業後ハーバード大学で医学を学んだ人物であるが、アマースト大学在学中はアマースト身体教育の主唱者であるヒッチコックに体操の指導を受けたことがあるらしい。このリーランドの体操伝習所における講義を日本語でまとめたの『李蘭土氏講義體育論』が筑波大学の図書館に所蔵されているそうだ。この講義録の筆者は坪井玄道と推察されている。坪井玄道は、後に田中盛業(体操伝習所第一回卒業生、同教官)との共著で小学校体操指導書として始めて刊行された『小学普通体操法』(上下巻、金港堂、明治17年・1884年)を著している。
なお、『小学普通体操法』は中国で『蒙学体操教科書』(無錫 丁錦・訳、上海・文明書局、光緒29年・1903年初版)翻訳が出版されている。(2008年5月12日の記事「いつ着替えたの?――『蒙学体操教科書』」参照) いよいよ中国の教科書と繋がってきた(^^)
参考:海後宗臣/著 仲新/著 寺崎昌男/著『教科書でみる 近現代日本の教育』(東京書籍、1999)
つくばね Vol.25 No.3: 体操伝習所旧蔵書が語るもの
https://www.tulips.tsukuba.ac.jp/pub/tsukubane/2503/okuma.html
上記で紹介した教科書は国会図書館近代デジタルライブラリーの以下のURLで画像を見ることが出来ます。↓
音楽取調掛『小学 唱歌集』
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=53012229&VOL_NUM=00001&KOMA=15&ITYPE=0
↓坪井玄道,田中盛業編『小学普通体操法』
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40075688&VOL_NUM=00001&KOMA=1&ITYPE=0
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音楽の方は、明治12年文部省に音楽取調掛(東京芸術大学音楽部の前身)がおかれ、翌年音楽教育の専門家アメリカ人のメイソン(L.W.Mason)が招かれた。メイソンは伊沢がアメリカ留学中に知り合って影響を受けた人物である。日本の音楽教授はここに始まる。唱歌の教科書としては伊沢等により『小学 唱歌集』(全三巻、明治14年・1881年、文部省)が編集された。
一方、体操の方は文部省が明治11年体操伝習所を設けアメリカからリーランド(G.A.Leland)を招いて洋式体操を取り入れた。リーランドはアマースト大学卒業後ハーバード大学で医学を学んだ人物であるが、アマースト大学在学中はアマースト身体教育の主唱者であるヒッチコックに体操の指導を受けたことがあるらしい。このリーランドの体操伝習所における講義を日本語でまとめたの『李蘭土氏講義體育論』が筑波大学の図書館に所蔵されているそうだ。この講義録の筆者は坪井玄道と推察されている。坪井玄道は、後に田中盛業(体操伝習所第一回卒業生、同教官)との共著で小学校体操指導書として始めて刊行された『小学普通体操法』(上下巻、金港堂、明治17年・1884年)を著している。
なお、『小学普通体操法』は中国で『蒙学体操教科書』(無錫 丁錦・訳、上海・文明書局、光緒29年・1903年初版)翻訳が出版されている。(2008年5月12日の記事「いつ着替えたの?――『蒙学体操教科書』」参照) いよいよ中国の教科書と繋がってきた(^^)
参考:海後宗臣/著 仲新/著 寺崎昌男/著『教科書でみる 近現代日本の教育』(東京書籍、1999)
つくばね Vol.25 No.3: 体操伝習所旧蔵書が語るもの
https://www.tulips.tsukuba.ac.jp/pub/tsukubane/2503/okuma.html
上記で紹介した教科書は国会図書館近代デジタルライブラリーの以下のURLで画像を見ることが出来ます。↓
音楽取調掛『小学 唱歌集』
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=53012229&VOL_NUM=00001&KOMA=15&ITYPE=0
↓坪井玄道,田中盛業編『小学普通体操法』
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コメント
_ 三田裕次 ― 2011年03月17日 18時29分41秒
「唱歌校門を出ず」という俚諺?があるらしいが、私が知っている台湾のご老体(複数)は戦後半世紀以上経っても「唱歌」を覚えている。具体例が必要であれば、提供します。
_ 三田裕次 ― 2011年03月17日 18時30分29秒
「唱歌校門を出ず」という俚諺?があるらしいが、私が知っている台湾のご老体(複数)は戦後半世紀以上経っても「唱歌」を覚えている。具体例が必要であれば、提供します。
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_ 男子新体操のブログ - 2009年11月15日 14時29分39秒
明治以降の体育の変遷
1878年(明治11年)10月24日、文部省直轄として体操伝習所の設立を見たのが、日本における体操教育のスタートとなります。
それまでの日本の教育には武道はあっても体操というものはありませんでした。
1876年(明治9年)、時の文部大輔田中不二麿が、アメリカボストン州のアマスト大学を視察した時、同大学学生の体操訓練と、その体育に及ぼす効果に痛く感動し、帰朝後文部省とも打合せて、日本の教育にも是非体操を実施すべきだと主張したので、身心鍛錬の立場から誰一人として異議を唱える者は居ませんでした。
そこで話はトントン拍子に進んで、その指導役としてやはりアマスト大学から招聘しようという事になり、文部省から正式に同大学に申込むと間もなく、明治11年6月には、同大学の卒業生ジョージ・リーランドが、遥々太平洋の彼方からやって来ます。
しかしせっかく良師を得ても適当な通訳が無かったので、田中不二麿の知人で当時仙台の英語学校に教鞭を執っていた坪井玄道という人を東京に呼び寄せ、専らリーランドの通訳として、10月24日には体操伝習所が設置され、25名の伝習生が養成されました。
1878年(明治11年)11月2日には、東京女子師範学校生徒に体操教育が実施されており、これが日本最初の学校体操でありました。
その翌年の4月2日から東京師範学校、即ち今の東京高等師範学校に実施されるに至り、教育界でも相当に重視されるようになったので、それから大学予備門、東京外国語学校でも体操教育を取入れるようになります。
当時の体操はアメリカ式というよりドイツのヤーンの流れを汲んだもので、徒手(としゅ)、亜鈴(あれい)、球竿(きゅうかん)、器械体操の種類で、年月を経ると共に次第に全国に拡がり益々盛んになりました。
その後リーランドの通訳官坪井玄道は、1902年(明治35年)にドイツの遊戯体操を学んで帰朝、川瀬元九郎はスウェーデンの体操を習得して帰ると両人ともその紹介に努め、従来のリーランド式体操も変わって漸く多角的になります。
引用
1http://meiji.sakanouenokumo.jp/blog/archives/2008/10/post_699.html
2http://www.osaka-c.ed.jp/hensenpdf/webcur/wc08taii/w
1878年(明治11年)10月24日、文部省直轄として体操伝習所の設立を見たのが、日本における体操教育のスタートとなります。
それまでの日本の教育には武道はあっても体操というものはありませんでした。
1876年(明治9年)、時の文部大輔田中不二麿が、アメリカボストン州のアマスト大学を視察した時、同大学学生の体操訓練と、その体育に及ぼす効果に痛く感動し、帰朝後文部省とも打合せて、日本の教育にも是非体操を実施すべきだと主張したので、身心鍛錬の立場から誰一人として異議を唱える者は居ませんでした。
そこで話はトントン拍子に進んで、その指導役としてやはりアマスト大学から招聘しようという事になり、文部省から正式に同大学に申込むと間もなく、明治11年6月には、同大学の卒業生ジョージ・リーランドが、遥々太平洋の彼方からやって来ます。
しかしせっかく良師を得ても適当な通訳が無かったので、田中不二麿の知人で当時仙台の英語学校に教鞭を執っていた坪井玄道という人を東京に呼び寄せ、専らリーランドの通訳として、10月24日には体操伝習所が設置され、25名の伝習生が養成されました。
1878年(明治11年)11月2日には、東京女子師範学校生徒に体操教育が実施されており、これが日本最初の学校体操でありました。
その翌年の4月2日から東京師範学校、即ち今の東京高等師範学校に実施されるに至り、教育界でも相当に重視されるようになったので、それから大学予備門、東京外国語学校でも体操教育を取入れるようになります。
当時の体操はアメリカ式というよりドイツのヤーンの流れを汲んだもので、徒手(としゅ)、亜鈴(あれい)、球竿(きゅうかん)、器械体操の種類で、年月を経ると共に次第に全国に拡がり益々盛んになりました。
その後リーランドの通訳官坪井玄道は、1902年(明治35年)にドイツの遊戯体操を学んで帰朝、川瀬元九郎はスウェーデンの体操を習得して帰ると両人ともその紹介に努め、従来のリーランド式体操も変わって漸く多角的になります。
引用
1http://meiji.sakanouenokumo.jp/blog/archives/2008/10/post_699.html
2http://www.osaka-c.ed.jp/hensenpdf/webcur/wc08taii/w