カザフスタンの教育制度12010年12月09日

先日カザフスタンの留学生の模擬授業に参加したとき、教育制度を少し紹介していた。私のカザフスタンの印象といえば中央アジアにある遊牧民の国で、記憶にある事といえば日本敗戦後に日本人捕虜が送られ抑留されたこと、同じ時期にソ連領内の朝鮮民族がスターリンによってカザフスタンへ強制移住させられたことだけで、カザフスタン自体について知ろうとしたことはかつてなかった。日本と縁の深い中国とロシアという隣国を持つという意味では日本と共通しているのに、全然知らなかった。模擬授業で聞いたのは小学生向けの簡単な内容であったから、これに私が調べた内容を付け加えて、一応覚え書きとして残しておこうと思う。

カザフスタンの教育制度は、小学校4年、中学校5年、高校2年の11年制(シュコーラという。内、9年間が義務教育)と高等教育機関である大学(4-5年)で成り立っている。新学期は9月からで一学期が9-10月、二学期が11-12月、三学期が1―3月、四学期が4-5月の四学期制なのだそうだ。ちなみに夏休みは6-8月の三ヶ月らしい。成績は五段階で5-4が進学、3が試験、2-1が落第、これは小学校二年生から適用されるという。昼食は自宅でとるか、学内の食堂を利用するとのこと…いずれも基本的な情報だが、これだけでも日本とはずいぶん違うのが分かる。義務教育段階について、アルマティ、アスタナなど大都会における就学率はほぼ100%、地方でも就学率も90%を超える。ただし地方の場合、高校への進学率は60%程度であるらしい。

カザフスタンの人口の半分がカザフ人、残りの半分をロシア人、ウクライナ人、ウズベク人、ドイツ人、タタール人、ポーランド人、朝鮮及び韓国人などが占める。これは19世紀以降の入植及び移住政策等による。歴史的には遊牧国家が興亡した地域であり、チンギス・ハンの子孫が打ち立てたカザフ・ハン国が19世紀まで続き、その後ロシアの支配下に入り、ソビエト連邦の共和国の一つとなった。スターリン時代の遊牧民の強制定住化により百万人以上が犠牲になるなどの悲劇もあった。ソ連崩壊によりカザフスタンが独立したのは1991年である。独立からしばらくはロシア語による教育が主流を占めていたが、独立後の10年間で初・中等教育のカザフ語化が進み、現在ではカザフ語のみで授業を行う学校が増えているらしい。公立学校ではカザフ語が義務化されている。英語学校やカザフ語と英語、ロシア語の言語別のクラスを持つ学校もある。(カザフスタンの留学生さんのコメントにより、2010年12月21日訂正)


中国教育事情の講演会を終えて2010年09月20日

昨日は日本青年会議所教育部会の勉強会で、中国教育事情についてお話ししてきました。教育部会の方は毎年海外ミッションとして外国の教育事情を視察されるそうです。今年は10月に中国北京へ行くとのこと、現地の大学や小中学校、幼児園を視察するそうで、そのための勉強会に講師としてお招きいただきました。

 

講演は一時間でしたので、中国建国以来の教育史、現代の学校制度、その他諸々の教育事情、という3つに絞りました。皆さん、大変興味を持って熱心に聞いてくださり、沢山質問をいただきました。幼稚園経営者が多かったので幼児教育については一番つっこんだ質問があり、そればかりでなく、文化大革命の影響や教科書、現在の中国人のアイデンティティにも興味を持たれているようでした。久しぶりのプレゼンで緊張しましたが、いい聴き手に恵まれて、有意義な時間になりました。

 

中国の幼児教育事情については、この講演のお話をいただいたのをきっかけに調べはじめました。現在の中国の幼児教育は、過渡期にあって、どんどん変化しています。最初は中国教育を専門にしていらっしゃる研究者の著書や論文を参考に全体像をつかもうとしたのですが、変化が激しすぎて、最新のものさえ、時流に追いついていないようでした。そこで、これらの情報を基盤に、新聞記事にあたり、また中国北京のママたちの情報交換サイトなどから口コミ情報にあたるなどして情報を集めました。これもインターネットを利用できるレベルのママ達の情報だとは分かっていたのですが、それでも日本ではうかがい知ることが出来ない貴重な情報が集まりました。まとめはじめてからも、後から後から新しい情報が見つかりました。この機会は私にとっても、いまの中国教育界の変化を知るいい勉強の機会になりました。いろいろと話したいネタもあるので、こういう機会をまたいただければありがたいですね。

 

いま、尖閣諸島の問題等で様々な報道がなされていることもあって、この時期の訪中に不安をお持ちの方もいるようでした。考えてみればもっともなことです。ただ、北京が訪中先なので、恐らく問題はないだろうと思います。これが別の都市でしたら話は別ですが。いい視察旅行になりますように。

明晩は獅子座流星群の極大2009年11月17日

 獅子座流星群の時期になった。今年の獅子座流星群は14日から24日ごろであるらしい。そして、もっとも多く流れ星が見える極大が、17日から18日と予想されている。流星が見える時間帯は23:00から明け方にかけて、見頃は深夜2時頃である。

 以前、野外に友人達と外にシートを敷いて、獅子座流星群を観測したことがあった。この年は流星が少なめだったが、寒い中、星空を無心に眺めたのは懐かしい思い出である。

 今日のお天気は冷たい雨。明日は曇りの予報のようだ。雲間からの観測では物足りない。どうかどうか晴れますように。

天才の育て方――『鳩山春子――わが自叙伝』を読む22009年07月11日

 『鳩山春子――わが自叙伝』の中で、個人的体験もおそらく作用していると思われ、興味深いのが、彼女の「天才の育て方」論である。子供を天才に育てる方法、ではなく、天才肌の子供を育てるに当たっての注意が述べられている。重要と思われる箇所を引用してみよう。

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 「何れにしても幼い時代から、天才には殊に時分で娯楽をせしめそれに高尚なる趣味をもたせておかぬと、成人の後往々にして誤解から堕落するということになります。とにかく子供が天才肌の子供であるならば、それだけより多く、何かそのものに高尚な仕事、即ち娯楽を授けておかぬとその子供の成長の後が危険であります。
 何故ならば、天才というものは鋭い頭脳を激しく使うから、永く頭脳を緊張してはおられない。だから毎日一定の義務の遂行に、一心不乱に頭脳を緊張して居たら、その後は気楽に、娯楽的に少し他のことをして楽しみながら心身を修養する必要があります。また必要がなくとも、天才ゆえ普通の人が五時間かかってする仕事も、その人は二時間位で仕上げて仕舞います。それで三時間という余裕が出来て参ります。これを如何にして使うかということが大きな問題です。
この三時間を善用することを、世の母親たるものが教えておかぬと、その者は人の迷惑も察せず、他人に対して自分勝手な振る舞いをすることになります。」(同書147ページ)
―――

 鳩山春子の天才と娯楽についての考えは、夫が「天才肌」であり、激しい仕事の合間には娯楽を楽しむタイプだったことに感化されたものである。この夫・鳩山和夫は、文部省第一期留学生(コロンビア大学法学士、イエール大学法学博士)であり、日本初の法学博士であり、東京大学法学部で教鞭をとり(後、教授)、早稲田大学の総長にもなり、日本初の弁護士事務所を開設し後に衆議院議員議長にもなった人物である。そしておそらく、自身の二人の子供も父親に似た「天才肌」であったのだろう。長男は鳩山一郎、初代自民党総裁で日本国とソビエト社会主義共和国連邦との二国間の国交回復を成し遂げた内閣総理大臣であり、次男は鳩山秀夫、東京大学法学部教授で一時代の通説を築いた民法学者である。

 彼女が子供に与えた娯楽は具体的には「碁を打つこと、将棋を指すこと、撞球(ビリヤード)」などであったらしく、他にも「あらゆる種類の善良にして心身の練習になる娯楽は、暇のある限り練習」していたという。「それで今日に至り、子供がどれ程それを善用しているか分かりません。妙なもので、人は遊ぶことでも余り何も出来ませんと、馬鹿みた様に他の目に映るものであります。一寸遊が出来ても、その人が怜悧に見えるものです。それも高尚なる娯楽は、幼い時分から練習しておけば、他の知力の増進と共に自然に上手になれるのでありますから、幼児より練習しておく方がよろしいのであります。斯くいろいろの遊をおぼえさせておけば、成人した後も下品な遊に没頭しなくなると思います。」(同書148ページ)

 鳩山家が人材を輩出した基礎には、母親・春子の様々な教育的配慮があったのである。それにしても、「高尚な娯楽」を幼い頃から楽しんで覚えておけば、「下品な遊」に没頭しなくなる、というのは、体験に基づいているらしくもあり、天才肌の子供を育てている方の参考になるかもしれない(^^)尤も、特別な才能のある子供に限らず、娯楽と情報過多の現代であればこそ、こうした親の配慮は必要だとも思える。

読んだ本:『鳩山春子―我が自叙伝』(日本図書センター、1997)

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アン・サリバン先生を考える2009年06月30日

 ヘレン・ケラー関連の本はどれも、アン・サリバン先生を「希に見る素晴らしい教育者」「天才教育者」と絶賛している。もちろん、私もそう思う。ヘレンを育て上げた献身の物語は誰もが感動せずにはいられない。でも、一方で彼女がなぜそれほどに素晴らしい教育者になることができたのか、ということを不思議にも思う。なぜなら、アン・サリバン先生は、その経歴を見る限り、教育者として特別の訓練を受けたわけでもなく、家庭の温かささえ知らずに育ったと思われるからである。ウィキペディア(Wikipedia)と『奇跡の人 ヘレン・ケラー自伝』の解説から、アン・サリバンのヘレンと会うまでの経歴を追ってみよう。
 
 アン・サリバンは、1866年4月14日にマサチューセッツ州ヒルで、アイルランド移民の娘として生まれる。3歳の時に目の病気トラコーマになり、5歳の時にはほとんど目が見えなくなったと言われる。9歳の時に母親が亡くなり、父親がアルコール依存症で家族を養う能力がなかったことから、結核によって体が不自由になった弟ジミーとともに親戚の間を転々とし、10歳になる前に救貧院に送られる。弟はこの救貧院で亡くなり、アン自身も目の病気が悪化して盲目となる。鬱状態になって、食事を拒み、死を願ったアン・サリバンだったが、病院の看護婦にキリスト教の教えを説かれて、徐々に心を開いていったという。1876年には緊張型精神分裂病で精神病棟に入ったというから、弟の死と完全に盲目となったことは、彼女にとって相当の心の打撃だったのだろう。
 
 アン・サリバンは14歳の時にパーキンス盲学校に入学し、「救貧院」からの脱出を果たす。盲学校にいる間に訓練と数度の手術の結果、ある程度視力を回復した。ただし、光に弱く常時サングラスをかけていたという。在学中には、視覚・聴覚障害を克服したローラ・ブリッジマンと友人になったことも、後のヘレンの教育に生かされたといわれる。1886年、20歳のとき、最優秀の成績で盲学校を卒業するが、就職先が見つからなかった。そのアン・サリバンに「目と耳が不自由な子供の家庭教師」の声がかかったのである。この子供こそ、ヘレン・ケラーだった。
 
 上記の経歴を見てもわかるように、アン・サリバンの少女時代は、家庭の温かみを味わうどころか、貧困、家族の死と家庭の崩壊、失明、鬱、精神分裂症…これほどにも幸せとは縁遠いものであったのだ。
 
 そんな彼女がなぜヘレンを救うことが出来たのだろう。温かい家庭生活を知らない彼女にとって、裕福で温かなケラー家の人々との生活は、初めて知った家庭の味だったに違いない。サリバン先生は手紙の中でこう言っている。「自分が世の中の役に立っているとか、誰かに必要とされていると感じることは大変なことです。ヘレンはほとんどすべての点で私を頼りにしてくれますが、このことが私を強くし喜ばせてくれます。」人は誰かに必要とされるということを必要としている。アン・サリバンにとってヘレンは、弟を失って以来はじめての、本当に彼女を必要としている存在だったのではないか。
 
 それにしても、サリバン先生が着任したばかりのころは、非常に厳しかったことが知られている。もしかしたら、アン・サリバンがヘレンの家庭教師になった当初は、まだ人間的には大きな問題を沢山抱えた状態だったのかもしれない。ヘレンを闇からすくい上げるその過程は、彼女自身をも救う過程であったのかもしれない。そして、ヘレンと共に多くのことを学ぶ中で、彼女自身も高い教養を身につけ、豊かな人間性を獲得し、教育者として磨かれていったのかもしれない、と私は想像するのである。
 
参考:ウィキペディア(Wikipedia)「アン・サリバン」
ヘレン・ケラー・著/小倉慶郎・訳『奇跡の人 ヘレン・ケラー自伝』(新潮文庫)
アン・サリバン・著、槇恭子・訳『ヘレン・ケラーはどう教育されたか ――サリバン先生の記録――』(明治図書出版、1973)。 
 
読んだ本:ヘレン・ケラー・著/小倉慶郎・訳『奇跡の人 ヘレン・ケラー自伝』(新潮文庫)
 
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パソコンのトラブル2009年06月14日

 パソコンのトラブルが続いていたので、思い切って新しいノートパソコン購入、この週末、がんばってセットアップした。Windows Vistaになって、セキュリティの認証等いろいろと戸惑う部分もあった。無線LANにしたので、ネットワークの設定などもしたが、これもいままで夫に任せたままだったので、自分でわかるいい機会になった。やっと、データを移行し、ソフト類のインストールして、セットアップ完了。ところがほっとしたのも束の間、重大なトラブルが発生した!

 ポータブルHD関連のソフトをインストール・フォーマットをした後、パソコン本体にシステムエラーが出てしまったのである。ポータブルHDのソフトをインストールしたのが原因なのか、ほかの原因があるのかわからない。起動すると青い画面が出て、再起動になり、さらにセーブモード選択画面になる。セーブモードを選んで立ち上げても青い画面が出て再起動してしまう。新しいパソコンのセットアップでこんな重大なシステムエラーを出してしまうとは、私のセットアップに問題があったのか、それとも初期不良なのか?頭を抱えてしまった。

 でも、大丈夫。これまでなら、何とか自分で解決しなければならなかったが、今度のパソコンはNECにしたので、サポートセンターに連絡して相談することができたのである。相談しても、原因は特定できなかったが、結果的にエラーは解消された。教えてもらったのは、「前回正常起動時の構成」に戻す方法である。「詳細ブートオプション」を表示させ、「コンピューターの修復」をする。その後、改めて「前回正常起動時の構成」に戻す操作をした。週末ながら電話もつながるし、対応も親切で、状況を説明し、指示通り操作するだけで、エラーがでなくなった。サポートがいいのは、やはりありがたい。修理に出さずに済んで、今はほっとしている。でも、同様のエラーが出る可能性を考えると、しばらくはディスクトップのパソコンからデータを消すことはできないし、まめにバックアップをとる必要がありそうだ。 

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ゲームの翻訳と思索の時間2009年05月02日

 4月に入ってから、しばらく過去のブログ記事の整理とゲームの翻訳をしていて、ブログへの書き込みが滞ってしまった。でも、その間、友人のおかげで翻訳についていろいろ勉強させてもらったこと、思索の時間を持てたことは有り難かった。

 今回の翻訳を通じて、訳が正しいことだけが大切なのではなく、中国語と日本語の違いをきちんと認識しつつ、くどい部分を削り、平易で分かりやすく、難しい漢字や言葉を避け、リズミカルに、変化をつけるなど、いろいろ心がけることがあることがわかった。自分でも意外な発見は、それらを考えながら、いろいろなシーンを思い浮かべて訳すのが楽しかったことだ。また機会があればチャレンジしてみたいものである。そうそう、今回のゲームもオンラインゲームらしいので、公開されたら、ぜひ自分でもやってみたい(^^)

 一方、思索の時間の方もなかなか貴重だった。その間ずっと考えていたのは…清末、学制や教科書、他のあらゆる面で日本教育の影響を受けていた状態から、五四運動後、アメリカ式に大きく転換する経緯である。私が知っている範囲では、五四運動によって、旧来の学校教育への批判が高まり、それが学制改革の気運を醸成したこと、さらに北京大学の招きで訪中したアメリカの教育学者ジョン・デューイの影響があったこと、くらいである。

 でも、気になっているのは、一度日本を模倣した教育がハード、ソフトの両面で固まった後に、そんなにも急激に教育全体をアメリカ式に転換しえたか、ということである。先日ブログの記事にも書いたとおり、五四新文化運動期の女子教育思想の転換などは偶然の要素もありつつも、実際に急激に転換した例である。でも一方で、これも前に述べたが、嫌日の雰囲気が強まる中で教科書の出版社が日本を隠蔽せざるを得ない状況が生まれ、またそうでありながらも日本の影響を受けた教材そのものは使い続けられた状況もあった。このあたり、時代的な様々な事情が絡んでいて、興味深い。新しい研究成果をもっと探してみようと思っている。 

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ふと…2009年04月15日

 ふと、ブログの記事を読み返してみた。子育て日記と読書日記を見ると、この一年の間に、興味を持ったこと、些細な出来事などが次々に思い出される。

 一年余り書き散らした研究関連の記事も、かなりの量になった。ブログを始める前の手元のものを含めると、清末から現代まで、教育史、教科書史を大体なぞるくらいの内容にはなっている。足りない部分を補って、このあたりでまとめておこうと思う。

久しぶりの雨と川島芳子生存説2009年04月14日

 外は雨が降っている。花散らしの雨になってしまって、少々寂しい気もするが…乾いた地面が潤って、植物が水を含んで嬉しそうだ。

 ところで先日、朝日新聞に川島芳子が生存していたという説の記事が載っていた。愛新覚羅家の人の証言だった。詳しく知りたいと思っていた矢先、友人に「川島芳子は生きていた!」というスペシャル番組があったことを聞いた。インターネットで概要を見ることができるというので、早速見た。特集ページには番組のダイジェスト版の映像(7分)をみることができ、証拠品の映像、関係者の証言もあった。本当に生きていたのなら、身代わりを用意してまで彼女を生かしておいた理由を知りたいものだ。

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三つのノーベル賞級を生みだした研究環境――南部陽一郎「素粒子物理の青春時代を回顧する」を読む2009年01月23日

 南部陽一郎氏が日本物理学会誌に書いたエッセー「素粒子物理の青春時代を回顧する」を読んだ。夫に、「もっと知りたいノーベル賞 小林さん・益川さんにとことんQ」で見た南部陽一郎さんのエピソードを話したら教えてくれたのである。これは、物理学会誌に載った物理学者向けのエッセーであるから、専門的で分からない部分もあるが、それでも南部氏の研究人生を垣間見ることができ、考えさせられるところが多かった。

 南部氏は1943年に東京大学の物理学科を卒業した「戦中派」だそうだ。大学2年生のときに太平洋戦争が始まり、3年目は短縮されて陸軍に召集され、宝塚のそばのレーダー研究所に配属されたという。戦後はすぐに東大物理教室の嘱託に赴任、学生や帰還者達のグループに参加した。そして、1947年、ラムシフトとパイオンの大発見のニュースをきっかけにアメリカの学者達との量子電磁力学の完成に向かって激しい競争に巻き込まれた朝永グループに参加する。

 その後、朝永氏の推薦で、東大と阪大から集まった4名(早川幸男・山口嘉夫・西島和彦・中野董夫)と共に、新設の大阪市立大学理工学部に理論グループを作る。年長の教授に気を配ることなく、理論の学生も1-2人で講義の必要もなかったという。完全に5名の若い研究者達だけで共同研究を行い、確実に成果を出していった。その成果の一つとして紹介されているのが「ストレンジ粒子の対発生理論」である。南部氏は「私は今でも大阪市大の3年間を振りかえると感傷に耐えない」「われわれのような新参者でも世界の学者たちに先んずる仕事ができることを発見したのは大きな驚きだった」と述べる。3年の自由な研究生活が、南部氏の才能を開花させ、独創的研究に目を開かせたようだ。

 しかし、大阪市大のグループはその成功のおかげで長続きせずバラバラになってしまった。南部氏自身も朝永氏の推薦によって、木下東一郎氏とともにプリンストンの高等研究所(IAS)にいくことになったのである。

 IASの当時の所長はオッペンハイマーであったし、アインシュタイン、パウリ、パイス、ダイソン他、著名な物理学者が集まっていた。この夢のような環境は、同時に猛烈な競争を意識させ、南部氏を却って萎縮させてしまったようだ。「予期に反して、プリンストンでの2年は天国と地獄の混じったようなものとなってしまった」2年の滞在期間中、計画していた研究テーマ「核力の飽和性とspin-orbit forceの起源の追求」は一向に上手くいかなかった。このときの心境を南部氏は石川啄木の「友がみな、われよりえらくみゆる日よ…」と同じであったと述懐している。

 2年のプリンストンで成果をあげられなかった南部氏は、しばらくアメリカの一流大学に滞在して何か立派な業績をあげたいと考えた。1954年、ゴールドバーガーの誘いを受け、シカゴ大学の核物理研究所(INS=原子核科学研究所)に着任するのである。

 このシカゴ大学核物理研究所の雰囲気は南部氏にとっては天国のようであったという。南部氏は再び自由な研究環境に恵まれ、適度に研究意欲を刺激してくれる同僚を得た。「万能物理学者Fermiの伝統によって、毎週INS全体のセミナールが開かれた。Quaker Meeting とも呼ばれた理由は、プログラムを決めず、誰でも思いつくままに立ち上がって、自分が考えてまだ完成していないことでも自由に発表したり議論したりすることを奨励されていたからである。原子核、素粒子、宇宙線、太陽系物理、天体物理、宇宙化学など研究所のすべての分野がトピックスとなった。これは私にはたいへんな刺激であった。」と当時をふりかえっている。南部氏は、分散理論の数学的構造に魅せられて、過去2年の悪夢を忘れることができ、次々に共同研究及び独自の研究で成果を出していったのである。かくして、三つのノーベル賞級と言われる研究はシカゴで生まれた。

 以上のエピソードを見ると、南部氏の研究生活において、大阪市立大学とシカゴ大学での自由でストレスの少ない適度な知的刺激のある研究環境が、いい研究に繋がったことは明らかである。独創的な研究を行う研究者にとっては、自由でストレスの少ない、適度に知的刺激のある研究環境が理想だと思う。無論、個人によって、差異はあるだろうが、現在の大学の研究者は教育や大学・学会の雑務に追われて十分な研究の時間をとれないでいるような気がする。日本の研究者の研究環境がより理想的になれば、もっともっと素晴らしい研究が日本で行われるようになるに違いない。

参考:南部陽一郎「素粒子物理の青春時代を回顧する」(日本物理学会誌、Vol.57,No 1,2002)

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