若冲という名前にみる大典大師の慧眼2016年06月11日

 相国寺では6月14日まで伊藤若冲生誕三百年を記念して、若冲が弟二人の供養と自身の永代供養のために1765年に寄進した釈迦・文殊・普賢の3副と動植綵絵30副(複製)を公開しています。
 相国寺第113世住職・梅荘顕常(ばいそうけんじょう・大典大師とも)と伊藤若冲の縁は深く、若冲を人間として絵師として高く評価し将来性を見いだしたのも、「若冲」の名をつけたのも梅荘顕常です。
 「若冲」は『老子』の第四十五章「大成若缺 其用不弊 大盈若冲 其用不窮 大直若屈 大巧若拙」の部分から取ったと言います。「伊藤若冲の「冲」字考」の訳によればこんな意味です。「本当に完成しているものは、どこか欠けているように見えるが、いくら使ってもくたびれがこない。本当に満ち充実しているものは、一見、無内容(からっぽ)に見えるが、いくら使っても無限の効用をもつ。真の意味で真っ直(す)ぐなものは、かえって曲がりくねって見え、本当の上手はかえって下手くそに見える。」
 伊藤若冲生誕300年の今日、若冲の作品を見ても全く古びていないのを見ると、この名をつけたという梅荘顕常の慧眼に敬服せざるを得ません。


中国で環境問題を問う難しさ--柴静の「穹頂之下」に思う2015年03月23日

このところ、2015228日に公表された柴静の「穹頂之下」が気になっている。いろいろな見方が登場するなかで、柴静に対する自分の見方に偏りがあるように思えてきた。この辺りで経緯と考えを整理しておこうと思う。

私が柴静に興味を持ったのは数年前、この「穹頂之下」を発表するよりも前に、彼女がメインキャスターを務める番組「看見」「新聞調査」を見たのがきっかけだった。この時は柴静自身ではなく、番組が取り上げる事件や出来事の方に注目していたのだけれど、彼女が2013年に出版した『看見』を、中国で話題になっている本があると知って手に取った時、表紙の写真を見て遅ればせながら、気がついた。以来、体制内のジャーナリストの中では気骨がある人だと、好意的に見てきた。

柴静の報道番組は普通人にはとても立ち入れない危険なところ、奥地、政府機関、会社の上層部、闇社会の末端に潜入し、真相を知る関係者に鋭い質問を投げかけるのが見どころだ。彼女を一躍有名にしたのはSARSの取材だが、他のもなかなかすごい。例えば「新聞調査」の中でも、中国音楽学院の不正入試を暴いた「運命の琴線」では、実力と実績がありながら不合格となった受験者と家族、試験関係者や専門家へのインタビューや調査を通して、大学入試「高考」の不正の有り様を暴いてみせた。(中国国内では放送禁止になったが、今でもYouTubeでみることができる。)もちろん、そんな取材ばかりではないのだけれど、印象深い取材が他にもいくつもある。

彼女が201310月にアメリカで出産、これを芸能誌に暴露されマスコミに叩かれ、ファンの顰蹙を買ってしまった経緯もドキドキして見守ってきた。批判する側は「国を愛しているんじゃなかったのか?裏切り者」的な文脈で彼女を責め立てた。

この後、しばらく柴静の話題が出なくなった。残念に思っていたところ、20144月、日本で「看見」の訳書が出版された。冒頭にはインタビューが載っていて、柴静の健在ぶりが分かり嬉しくなった。

ところが2014年秋、柴静が2014年初めには中央電子台を離れていたという報道を見た。2013年夏におきた担当番組の放送禁止が打撃とかアメリカでの出産を攻撃されたせい等と憶測が飛び交った。この時は柴静は沈黙を守ったので、本当のところはわからなかった。

沈黙が破られたのは、2015228日である。人民網と優酷で公開された大気汚染問題をレポートした「穹頂之下」で、彼女が私費を投じ一年をかけて大気汚染問題に取り組んできたこと、それが子どもの腫瘍がきっかけだったこと、また子どもの看病のために辞職したこと、などが明らかにされた。柴静が活動を休止していたように見えた一年間の中身がここで明らかにされたのであった。曾て柴静の評判を地に落とすきっかけとなった出産が、このプレゼンにより全く別の意味に変質した。柴静にとってはいわば名誉回復の場でもあったといえるだろう。

微博で「柴静看見」をフォローしていたおかげで、私は1時間40分の動画も人民網のインタビュー記事も公開当日に見た。一番始めに見たときはとても感動したし、感心もして、興奮もした。今振り返ると、柴静の復活を喜ぶファン意識も影響していた。ただ、これだけの取材と公表がCCTVを辞めたフリーの記者にできるのか、疑問に思ったのも確かである。

中国国内の反応を見たくて関連の記事や書き込みとコメントを探した。賞賛の声に混じって、疑問を呈する声、反発の声が登場し、標的にされた鉄鋼石炭関連産業関連者からの批判、次には彼女の私生活批判が始まった。デマや偽文書が飛び交う様子もリアルタイムで見ているとなかなかスリリングだった。現政権の黙認、政府機関がバックにいる等の分析にはたぶんそうなのだろう、とも思った。ところがたった6日で密命により封殺された。中国国内で動画が見られなくなり、公表直後に溢れた賞賛記事なども姿を消してしまった。見事なほどあっという間の消火活動だった。

こうした消火活動を見て、言論統制は怖いと思った。環境問題は政界や産業界と分かち難く繋がっている。例え一部政府機関の支持があっても、大気汚染がいくら深刻でも、強い力が働けば、情報は如何様にも制御出来るのである。でも…問題は情報は制御できても肝心の大気汚染は制御できていないことである。

中国の大気汚染は相当深刻である。急速な経済発展は、過去には簡単に手に入った人間の生存に必要なもの「空気」「食品」「水」「治安」の安全を、とてつもなく高価で手に入りにくいものにしてしまった。国の面子だって危険にさらしている。先日、アメリカから中国に留学する人が減少しているという記事を読んだが、その理由の一つは大気汚染だった。

幸い、柴静たちの活動はいまも続いているようだ。微博「柴静看見」ではその片鱗を見ることが出来る。「大気汚染に宣戦布告する、目的を達するまでは闘うのを絶対にやめない」などの書き込みを見ると、金庸の武侠小説に登場する英雄好漢的な侠気が透けて見えるようである。しかし一方で当初の勢いは影を潜めてしまった。

中国の大気汚染解決に向けて光が射したように感じたのは、ほんの一瞬の幻想でしかなかったのか?柴静のプレゼンは権力闘争に利用されたに過ぎなかったのか?リアルタイムで変化を追っていても、情報が錯綜しているなかでの分析は困難である。冷静に事実を積み上げて分析したくても、情報を消されてしまうとそれも難しい。

少なくとも、今回、柴静のプレゼンと封殺までの経過を見守った経験は、自身の見識不足を実感し、中国の情報統制事情を理解する上で貴重な勉強の機会になった。2015.3.26改訂

中国の語文教科書が2014年秋ダイエットに失敗したわけ2015年03月12日

 2014年の夏も終わる頃、中国の語文教科書(日本の国語にあたる)に関わる、今の中国の教育文化と政治の関係を考える上で、実に興味深い、そして不可思議な出来事が起きた。

経緯を追ってみよう。2014年8月26日、「東方網」に「一年前期『語文』の漢詩が全て削除、一部保護者より“減らしすぎでは”の声」[i]というタイトルの記事が載った。2014年秋の新学期から使われる新版の小学一年前期の語文教科書が、旧版と比べ大幅に薄くなり、元々あった漢詩8首が全て削られたのに気づいた一部の保護者から、漢詩の一つ二つくらいは残しても良かったのでは、という不満が出ていると述べ、削除されたテキストの詳細と一部保護者の意見を採り上げている。もちろん、上海の教科書が薄くなったのは、入学直後の児童の負担を軽くする目的で、上海市教育委員会が慎重な討議を経て行った修訂であるとも伝えている。それでも全体として「減らしすぎ」と述べる保護者の側に立っている印象だ。

(新版の江蘇教育出版社の『語文』小学一年前期の目次は以下の通り。前半はピンインの学習で、後半にテキストの学習という構成になっている。実は中華人民共和国においては、建国から1990年代前半までは、文革期の特殊な教材を除けば、小学校の教科書には古典教材は皆無であった。1990年代後半に古典教材を小学校の語文教科書に試験導入したのは上海である。)


上海の語文教科書・小学1年前期・目次1

上海の語文教科書・小学1年前期・目次2

入学直後の児童は学校に慣れるだけで十分忙しい。前期の学習負担を少し軽くして、後期を充実させるというのは、理解できる修訂理由である。一方、教育熱心な親が教科書のレベル低下を心配する気持ちも分かる。記事が出た時点では、両者の意見に少々の隔たりがある、というだけであったと思う。記事に登場する保護者も、子どもの負担を減らすという上海教育委員会の立場に全面的に反対ではなく、教材の削減幅に対して問題を投げかけていた。

ところが、この記事があちこちに転載される中で、議論の焦点がずれていく。いつの間にか「漢詩は削除するべきか」の議論になり、それが9月2日の人民網の記事「負担を減らすのか伝統文化を減らすのか」[ii]に象徴される「中国らしさを減らすのに断固反対する」的流れになった。注目したいのはこの時点で現政権の「中国らしさ重視」「伝統文化重視」というイデオロギー的価値観が付け加わっている事実である。最終的には9月9日、教師節の前日に北京師範大学を訪問した習近平主席の発言「古詩や散文を教科書から削除するのに私は大反対だ。中国らしさを消してしまうのは実に悲しいことだ。学生の頭の中に古典を埋め込んでこそ、中華民族の基礎が作られる」[iii]がとどめを刺して、「上海は伝統文化を重視する主流に外れた、軽率な教科書修訂を行った」という罪が確定した形になった。

更にこの一連の議論と習近平の発言を受けて、迅速に反応したのが北京だった。[iv]北京師範大学語文教育研究所所長の任翔は、習近平の観点を激賞した上で、来年度9月から北京市義務教育の語文教材の古典教材を現在の6~8篇から22篇に増やすと確約、小学校段階で学ぶ漢詩を100篇以上にすると述べた。2011年版「義務教育語文課程標準」推薦の漢詩75篇を優に超えている!

それにしても…元々は子どもの学習の負担を減らそうとしたのが、却って子どもの負担を大幅に増やしてしまったのは皮肉な結果としか言いようがない。ダイエットに失敗してリバウンドしてしまったようなものだ。

論点をずらして世論を味方につけたり、政治的イデオロギーと結びつけて反駁できなくしたり…こうした世論操作が今の時代あちこちに蔓延っている。こうした手法を見抜く力が求められる時代が日本にもすでに訪れている、かもしれない。


[i]「一年上学期《文》古」(東方早報2014826日・中国語)http://www.dfdaily.com/html/3/2014/8/26/1179747.shtml

[ii]上海小学除古:负还是减传统文化(人民网2014902日・中国語)http://renwu.people.com.cn/n/2014/0902/c357069-25585931.html

[iii]近平“好老”:教第一位是“道” 」(201499日・中国語http://news.xinhuanet.com/politics/2014-09/09/c_1112412661.htm

[iv]「北大学生披露制作“大大”标语故事() 」(中国新聞网2014910日・中国語)http://www.chinanews.com/gn/2014/09-10/6579176.shtml




古代ギリシャ学術的遺産を護ったのは?ーー木田元『哲学散歩』を読む2015年01月06日

 新聞の書評欄を読むと欲しい本がドンドン増えてしまう。先日も木田元『哲学散歩』の書評にあった「服装にも髪型にも凝りすぎで、指輪を幾つもはめて自慢していた」というアリストテレスが気になり読んでいく内に、私が以前から気になっていた問題を書いたエッセイを見つけた。

 

 

 それは、キリスト教が席巻した後に捨てられ失われた古代ギリシャ・ローマの学術的遺産が何者に保護され、如何なる経緯を経てヨーロッパに還流したのか、という問題である。『哲学散歩』にこんな一節があった。

 

 

 なにをいまさらと笑われそうだが、私たちがなにげなく手にしているプラトンの対話篇やアリストテレスの講義録が、二千三百年以上も昔に古代ギリシアで書かれ、そこからここに来るまでに辿った時空悠久の旅路を思うと、改めて深い感動を覚える。だって、そうではないか。時間だけではない。空間的にだって、ギリシアからローマへ、そしてビザンティンへ、そこからシリア、アラビア、中央アジア、北アフリカ北岸をぐるっとまわり、ジブラルタル海峡を渡ってスペインへ、そしてピレネー山脈を越えたり、シチリア島を経由したりして西欧世界に運ばれたのである。しかも、その間千五百年あまりは、数えきれないほど繰りかえし、手書きで、ギリシア語のまま、あるいはシリア語、アラム語、アラビア語、ヘブライ語、ラテン語に訳されながら写されてきたのである。


 ヨーロッパで一度は失われた古代ギリシャ・ローマの学術的遺産は、ヨーロッパ人ではなく、彼らが敵とみなした人々に価値を見出され、沢山の言葉に訳され、時に書き加えられたり、変えられたりしながら、途方もなく沢山の人の手を経て、気が遠くなるほどの長い時間をかけて、回り道をして、再びヨーロッパに還流したのである。

 

この問題について『寛容の文化』や『中世の覚醒』など、より深く知りたい人向けの本も紹介していたので、これもぜひ読まなくては。他にも哲学者の人間的なエピソードを描いた小品の数々も面白く読んだ。良い本と出会えて幸いだった。

 

読んだ本

木田元『哲学散歩』(文藝春秋、2014年10月)







謹賀新年2015年01月02日

年頭にあたり謹んで新年のご挨拶を申し上げます。

2015年賀状

2015年の元旦は雪でした。元旦の雪は大変縁起が良いそうですね。「瑞雪好豊年」、豊作になると言われています。いい年になりますように。


本物の鳥獣戯画を見る2014年11月26日

少し前のことになるが、京都国立博物館の特別展覧会「国宝鳥獣戯画と高山寺」を見に行った。展覧会は二部に分かれており、鳥獣戯画の一度目は前半、二度目は後半を展示するというから二回足を運んだ。なんと言っても今回は東京と京都の国立博物館に二巻ずつ収蔵されているものが一堂に会し、本来は巻物の一部だった「断簡」も展示され、更に今のオリジナルにはない部分が含まれる狩野探幽が模写した「模本」まで見ることが出来るのは、なかなか無い機会である。同じ事を思った人が沢山いたとみえて、展覧会は全期にわたって大盛況、おまけに祝日に出かけたのでとびきり長い行列に並んだのだった。

鳥獣戯画は正式名を「鳥獣人物戯画」、甲・乙・丙・丁の四巻の長~い絵巻物である。絵が描かれた平安時代や鎌倉時代も、時代が下って江戸時代でも、絵を見るのは身分を問わず最高の娯楽であった。いまでこそ国宝になったが、作者は不明、江戸時代までは誰もが頼めば借りて見ることが出来たというこの巻物、今まで一体どれほどの人がこの巻物を見たのだろう。

一番有名なのは平安時代に描かれた甲巻だったのだと今更ながら知った。ウサギとカエルが相撲したり、賭弓したり、カエルが田楽踊りしたり、線が生き生きしていて躍動感があり、表情も豊かである。

なぜこのような作品が生まれたのか考えていたとき、ふと、妙心寺塔頭・退蔵院の副住職に聞いた話が脳裏に甦った。退蔵院には多くの貴重な絵が残されているが、それらは昔、絵師が寺に長逗留して僧侶等と共に過ごしながら描いた絵であり、絵師はそうした環境の中で腕を磨き、寺としても絵師を育てていたという話しである。襖絵を頼まれて寺にやってきた絵師がもしかしたら、時間が空いたときに、小僧相手に楽しい絵を描いて喜ばせたのかも、それとも、寺に身を寄せていた病気の子どもを元気づけるために描いたのかも、などと想像すると、なんともワクワクするではないか。

なお、こちらの展覧会、目玉は鳥獣戯画だが、展示物の多くは高山寺を再興した華厳宗中興の祖・明恵上人にまつわるものであり、なかなか見応えのある内容であった。




京都の通り名のわらべ歌2014年10月06日

お久しぶりです。台風、皆様のお住まいの地域は大丈夫でしたでしょうか?京都は朝方には雨風がおさまって、今日は秋雨の降る少し肌寒い一日でした。

ブログを再開に向けて、リハビリを兼ねて身近な話題など。

京都通り名のわらべ歌をご存知ですか?京都の人は、丸太町通りから九条通りまで東西に伸びる通り名をわらべ歌で覚えるという話しを以前本で読んだことがありました。実際、京都の人と出かけると、待ち合わせ場所もレストランも目的地も、東西と南北の通り名で場所が大体分かるらしいのです。これが、はじめはミラクルに感じられたものでした。

ところで、先日娘が歌詞を見ながら歌っているのを聞いていたら、あ?「まるたけえびすに おしおいけ あねさんろっかく たこにしき しあやぶったか まつまんごじょう せったちゃらちゃら うおのたな  ろくじょうさんてつ とおりすぎ  ひっちょうこえれば はっくじょう じゅうじょうとうじで とどめさす」と歌っているではありませんか。

聞けば、今年の運動会のダンスはこの京都の通り名のわらべ歌をアレンジした曲で踊るのだそうです。考えてみると、京都の子どもは学校で通り名のわらべ歌をマスターするのですね~。娘が歌っていたおかげで、私まで覚えられてラッキーです~。

そういえば、この同じ歌詞を使って、ベートーベンの第九に合わせて歌うのを、先日イベントで聞きました。歌詞と曲が合っていて、これもなかなか良かったです。 


功参造化--御室仁和寺2014年04月26日

 新緑の季節ですね。爽やかな陽気に誘われて、竜安寺ときぬかけの路、御室仁和寺に行って参りました。眩しい緑とほのかに薫る花の香気の中を散策すると心が軽くなるように感じます。

御室仁和寺白書院の庭


 御室仁和寺の白書院に「功参造化」の額を見つけました。天のなせる業(わざ)といってもいいほどの絶妙な神業、というような意味です、多分。この庭は確かに美しいですけれど、この言葉はさすがに大げさ、と思ってよく見ると、右には「光緒丁亥季春 毅旦」、左には「総統毅軍四川提督宋慶敬立」とあるではありませんか。中国の清朝末期、四川提督だった宋慶敬という人物が中国のどこかのお寺に奉納したもの?その額がどのような経緯を経て日本のお寺に飾られることになったのか、これもちょっとした歴史のミステリーですね。


御室仁和寺で見つけた額




台湾の立法院から学生が退去して一段落2014年04月11日

 昨日午後6時過ぎ、学生達はヒマワリの花を手に立法院を退去しました。今回は立法院長・王金平の大人の知恵が功を奏した形で、これにて一段落、ですね。でも、討議はこれから、国民党と民進党の話し合いが不調に終われば(たぶんその可能性が高いですよね)、学生達は次の手段に訴えるでしょう。次も学生が民衆や国際世論を味方につけられるかどうか。これからが大変です、たぶん。

学生による台湾立法院占拠、王金平立法院長の声明で平和裏に幕か2014年04月08日

台湾立法院の占拠は暑い中3週間にも及びましたが、王金平立法院院長の声明を受けて、学生代表は立法院を10日午後6時に立ち退くと発表しました。馬英九総統も会見の中で、王院長の声明に「感動」したと述べ、感謝の意を表しています。国民党からは批判の声が聞こえますが、国際的に注目されていた事件だけに、馬総統としては最低限の条件で、学生を立法院から退去させる方が優先事項だったに違い有りません。立法院長の権限をもつ大物政治家が自ら立法院を訪ねて学生に語りかけ、学生と政府双方の面子を立てて、学生が退去できるようきっかけを作ったことで、最悪の事態は免れました。何とか平和裏に解決しそうで一安心、ですが、退去に反対しているグループもいるようで、退去が無事済むまでは気が抜けそうにありません。(2014年4月9日改訂)