古代ギリシャ学術的遺産を護ったのは?ーー木田元『哲学散歩』を読む ― 2015年01月06日
新聞の書評欄を読むと欲しい本がドンドン増えてしまう。先日も木田元『哲学散歩』の書評にあった「服装にも髪型にも凝りすぎで、指輪を幾つもはめて自慢していた」というアリストテレスが気になり読んでいく内に、私が以前から気になっていた問題を書いたエッセイを見つけた。
それは、キリスト教が席巻した後に捨てられ失われた古代ギリシャ・ローマの学術的遺産が何者に保護され、如何なる経緯を経てヨーロッパに還流したのか、という問題である。『哲学散歩』にこんな一節があった。
なにをいまさらと笑われそうだが、私たちがなにげなく手にしているプラトンの対話篇やアリストテレスの講義録が、二千三百年以上も昔に古代ギリシアで書かれ、そこからここに来るまでに辿った時空悠久の旅路を思うと、改めて深い感動を覚える。だって、そうではないか。時間だけではない。空間的にだって、ギリシアからローマへ、そしてビザンティンへ、そこからシリア、アラビア、中央アジア、北アフリカ北岸をぐるっとまわり、ジブラルタル海峡を渡ってスペインへ、そしてピレネー山脈を越えたり、シチリア島を経由したりして西欧世界に運ばれたのである。しかも、その間千五百年あまりは、数えきれないほど繰りかえし、手書きで、ギリシア語のまま、あるいはシリア語、アラム語、アラビア語、ヘブライ語、ラテン語に訳されながら写されてきたのである。
ヨーロッパで一度は失われた古代ギリシャ・ローマの学術的遺産は、ヨーロッパ人ではなく、彼らが敵とみなした人々に価値を見出され、沢山の言葉に訳され、時に書き加えられたり、変えられたりしながら、途方もなく沢山の人の手を経て、気が遠くなるほどの長い時間をかけて、回り道をして、再びヨーロッパに還流したのである。
この問題について『寛容の文化』や『中世の覚醒』など、より深く知りたい人向けの本も紹介していたので、これもぜひ読まなくては。他にも哲学者の人間的なエピソードを描いた小品の数々も面白く読んだ。良い本と出会えて幸いだった。
読んだ本
木田元『哲学散歩』(文藝春秋、2014年10月)
艾未未主編の『NewStatesman』中国語版『新政治家』を読む ― 2012年10月24日
艾未未、AiWeiwei(アイ・ウェイウェイ)の中国語読みで国際的に著名な現代美術家である。元々辛口な批評で話題を呼んでいたが、四川大地震の手抜き工事の調査と被害者名簿作成に伴う活動以来、体制批判でも知られるようになった。その彼が客席編集長として、一期限り、政治を中心としたリベラルなイギリスの雑誌 『NewStatesman』の編集長を任された。十月二十日に英文版の雑誌は発行されたが、中国関連の記事のみ集めた六十頁ほどの中国語版『新政治家』はネットで読めると知り、早速読んでみた。
冒頭、「中国は自身を識るべきだ」の大見出しに目を惹かれた。 内容は、抗議の焼身自殺が続き出入りが厳しく管理されるチベットの現状、人権弁護士が語る不公正な裁判や冤罪の多さ及びそれらの裁判に関わった弁護人への仕打ち、インターネット上の監視、都市の美観のために犠牲にされた民家の写真、先日亡命した盲目の人権活動家陳光誠インタビュー、インターネットの世論操作等を専門に行っている「五毛党員」へのインタビュー、艾未未の妻・路青の会社が脱税で検挙され多額の罰金を払わされた脱税裁判などに焦点を当てている。
なかなか強烈な内容だった。何れの記事も当事者でなければ分からない詳細な情報、苦しみと怒りに溢れている。中国の裏側を、西側メディアを使って周知する。一期限りの編集長は誌面の全てをそれにかけている。果たして彼が求める反響は得られるのだろうか?(2012年10月26日改訂)
参考:Wikipedia艾未未http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%89%BE%E6%9C%AA%E6%9C%AA
艾未未主編『NewStatesman』の中国語版『新政治家』 http://www.newstatesman.com/sites/default/files/files/AWW%20New%20Statesman.pdf
『NewStatesman』英語版はこちら http://www.newstatesman.com/
「四川大地震の手抜き工事を調査した人達に起きていること」(本ブログ2010年1月25日記事) http://youmei.asablo.jp/blog/2010/01/25/4837437
敗者復活が難しいフランスの学校制度 ― 2011年09月29日
昨日は安達功『知っていそうで知らないフランス』を一気読みしてしまった。この本の副題「愛すべきドンデモ民主主義国」に惹かれて手に取ったら、面白くてついついとまらなくなってしまったのだ。
大まかに言って、内容の半分はフランスの社会や文化史、レジスタンスの歴史やフランス人の人権や環境等についての価値観、半分は記者である著者安達氏が見たフランス政界の内側について書かれている。この中で私が最も興味深く読んだのは、第2話「エリートとグランゼコール」である。
フランスではエリートと庶民が明白に分かれており、どの地域で小学校に入るか、で大学に行けるかどうかがほぼ決まるという。例えばパリなら郊外や下町はチャンスは少なく、中心部の方がチャンスが格段に多い、つまり庶民には大学進学のチャンス自体が元々少ないということである。更に職業高校へ行ったら、大学へ入学するチャンスは全く無い。人生の全てが出身家庭や進んだ高校で決まる…のは日本も同じようなものだが、日本の場合は、高校を中退しても大検を受ければ大学に進学できるし、公務員試験や司法試験だって年齢制限等をクリアできれば受験できるから、まだリベンジの機会は残されているように思う。フランスのように、18歳までの経歴で進路が固定され、その後伸びるかも知れない人にチャンスが与えられないとしたら…なんと大きな損失だろう。反対に大学に入ってから、職人の道へ進もうと思っても、それも許されないという。幸い「留学」という手段があるから、道は残されていると言えなくはない。少なくとも、日本と比べてフランス社会に敗者復活の機会が少ないことは明らかである。フランスのエリート社会についての話は折に触れて聞いていたが、ここまでの「単線構造」の社会だったとは!正直驚いた。
では、「単線構造」の頂点にいるエリートとはどういう存在なのだろうか。エリート中のエリート「グランゼコール」出身者は政・官・財・学の全ての分野で特権的な地位をほぼ独占している。グランゼコールとはフランス独自の高等教育専門機関である。大学入学資格取得のための統一試験・バカロレア試験を受けて特に成績優秀な者のみがグランゼコール準備学級(2年間)に進んで1/4ほどに選抜され、卒業後にグランゼコール選抜試験にのぞみ、合格した者だけがグランゼコールに進む。グランゼコールの学生は公務員扱いなので給料も支払われる。卒業後は専攻分野のエリートとして扱われることになる。一般大学出身者とは明白な区別があるらしい。更にグランゼコールはフランス全土に200校ほどあり、その卒業生はエリート中のエリートだが、実は本当の特権階級を形成しているのはグランゼコールの名門数校の卒業生であるという。彼らこそが今のフランスの貴族階級のようなものだ。制度上、誰にでも開かれているように見えながら、実際には庶民には閉ざされているエリートへの道、科挙みたいだ。
そうだ、そもそも、このエリート選抜方法は、どうやら中国の科挙に似ている。つまり、一般大学出身者は科挙の郷試にまで受かった人達、グランゼコール出身者は科挙の殿試にまでいった人達、というところ。そういえば、17-18世紀にかけて、ヨーロッパと中国は貿易商や宣教師を通じた文化交流があり、シノワズリと呼ばれる中国趣味の美術様式が流行った時代があったことはよく知られている。そういえば、乾隆帝に仕えたイエズス会の宣教師が科挙をフランス国王に紹介していたような気がする。うーん、ちょっと調べれば、誰かがきっと何か書いてくれているに違いない。これは今の仕事が終わってから「ちょっと調べ」ようっと。
読んだ本:安達功『知っていそうで知らないフランスー愛すべきトンデモ民主主義国』(平凡社新書)
北野武『たけしくん、ハイ!』を読む ― 2011年09月22日
図書館で見つけて、何気なく手に取った『たけしくん、ハイ!』。地の文が、北野武氏の口調で書かれていて、なんとも微笑ましく、ページをめくる内にいつの間にか引き込まれてしまった。
子供時代の生活の描写は素朴でありつつ、細かい部分を適切に捉えている。登場するのは、ほろ苦い思い出ばかりだが、彼独特の口調で語られるとき、何かおかしみも感じさせる。子供だった彼の表情や、彼が見た様々な事物が、目に見えるようである。さすがに喋ることを生業にしている人だけのことはある。
気づくのは、生活の背景にある当時の日本の貧しさや金持ちと貧乏人の格差がヒシヒシと感じられたことである。彼の家庭も貧しいけれど、同級生にもボロボロの家に住み学校にもまともに通えない子、兄弟の子守をしながらも野球をする子等がいる。かつて、両親にも、戦後の貧しい日本についていろいろと聞いたのを、この本のおかげで思い出した。
北野武『たけしくん、ハイ!』(太田出版、1992)
『チャイナ・ドリーム-世界最大の市場に魅せられた企業家達の挫折』(上)を読む1 ― 2011年09月21日
娘の夏休みが終わり、やっと時間が出来て、ジョー・スタッドウェル『チャイナ・ドリーム-世界最大の市場に魅せられた企業家達の挫折』を読んでいます。この本の著者はジャーナリスト、欧米的な価値観でみる中国と中国市場は、我々の従来の中国像とは、全く違うことに気づかされます。
その意味で、私にとって特に興味深かったのは第一章「歴史を貫く夢」でした。日本人は黒船から始まる近代の記憶があるだけに、中国人の近代における欧米列強への被害意識に共鳴する面がありますけれど、『チャイナ・ドリーム』冒頭にみる欧米の中国進出の歴史は、黄金の眠る別世界に挑む冒険家の一代記のようです。
第二章は、改革開放を演出した鄧小平について、第三章以降は前世代でなしえなかった巨大市場中国への進出を目指し、新たなる冒険を開始した企業家達の挑戦の軌跡です。10億人以上の人口を有する中国は、他とは比べものにならない巨大な市場であり、それゆえに経済開放政策が始まると、国内外の企業家が「チャイナ・ドリーム」に資金と精神力と時間を惜しげも無くつぎ込んできました。この本には…欧米諸国の企業家に限らず、国を挙げて中国進出をバックアップした例、日本、台湾と香港、東南アジアの華人企業家も登場します。しかしながら、真に成功を勝ち得たのはごく僅かだといいます。沢山の実例が挙げてあるので、世界に名だたる多くの大企業家による中国市場への挑戦と挫折の経緯が分かります。
考えられるあらゆる手を打ち、国を動かし、マスコミ向けには成功を演出していても、中国国内と競合しない分野や輸出業等ごく一部の例外を除けば、ほとんどが投資に見合った成功を収めていないというのです。なぜそんなことになったのでしょう。以降下巻の感想で。
読んだ本:
ジョー・スタッドウェル 著/鬼沢忍・伊東奈美子 訳『チャイナ・ドリーム-世界最大の市場に魅せられた企業家達の挫折』(上)(早川書房、2003年)
参考:
ジョー・スタッドウェル氏のブログ http://joestudwell.com/
塩野七生『わが友マキアヴェッリ』を読む ― 2011年04月19日
塩野七生『わが友マキアヴェッリ-フィレンツェ興亡』を読んでいる。実は欧米社会におけるチェーザレ・ボルジアの存在の大きさがずっと謎だった。『君主論』によって、彼が「歴史上の人物から理論上の象徴になった」というのは分かっていたけれど、果たしてチェーザレ・ボルジアはそれほどの人物だったのか、マキアヴェッリは彼のどこに理想の君主を見いだしたのか、塩野七生『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』を読んだときには、まだ分からなかった。彼の冷酷さや豊かな才能、周囲を彩るスキャンダル、そして栄華とあっけない衰退はあまりにもドラマティックで、こちらに気を取られ、本質を見極められなかったせいだと思う。
でも合わせて『わが友マキアヴェッリ』を読むと、マキアヴェッリのフィレンツェの書記官としての働きぶり、フィレンツェの次席外交官としてチェーザレ・ボルジアと直接接した経緯、当時のフィレンツェの国際的な立場などが分かる。チェーザレ・ボルジアの卓越した政治能力にイタリアを統一しうる君主の理想を見いだしたマキアヴェッリがようやく理解できた。長年の疑問がようやく解けたような気がしている。
読んだ本:塩野七生『我が友マキアヴェッリ』(新潮文庫)
中国・清末、日本女性が初代園長を務めた中国初の公立幼稚園「湖北幼稚園」 ― 2010年05月16日
清末の日本人教習について調べていたとき、中国最初の公立幼稚園の初代園長が日本人女性であったことを知った。その時点では詳しいことまでは分からずそのままにしていたのだが、就学前教育史を調べる中で少し詳細が分かったので覚え書きとして残しておこうと思う。
中国最初の公立幼稚園は湖北省の武昌で1904年2月に開園した湖北幼稚園である。元来設置を計画したのは湖広総督・張之洞(洋務運動、「中体西用」論等で知られる)であった。但し、張之洞は南京へ赴任することになったため、実際に幼稚園開設にあたったのは湖北巡撫と湖広総督を兼任することになった端方である。
1903年春、端方は任憲吉を幼稚園の監督に任命して日本に派遣、教材教具の購入及び保母の招請にあたらせた。そして同年秋、日本人教習3名(戸野みちゑ・丹雪江・武井ハツ)着任を待って開設を準備、1904年2月に湖北幼稚園は正式に開園したのであった。戸野は2年間湖北幼稚園の園長を務め、丹・武井が補佐した。更に幼稚園内に非公式に付設された女学堂の運営にも参画したという。なお、幼稚園の編成や組織、保育項目などについて規定した「湖北幼稚園開弁章程」も戸野等の建議により作成された。「湖北幼稚園開弁章程」は日本の「幼稚園保育及設備規程」(1899年・明治32年公布)を元に作成されたものであるらしい。
「湖北幼稚園開弁章程」は「幼稚園は保育科を附設する」と規定しており、幼児教育の人材を育成する場としても機能し、女子の公教育先鞭をつけた。ちなみに湖北幼稚園を開設した端方は、1905年に海外視察後、西太后に女子教育の必要性を説いて女学堂開設の勅許を得た。これがきっかけになって、後に「女子師範学堂章程」「女子小学堂章程」が公布された。直接的にも「湖北幼稚園開弁章程」は、「蒙養院を以て家庭教育を補助する」として中国史上初めて公的な幼児教育制度を規定した1904年1月(光緒29年11月)頒布の「奏定学堂章程及家庭教育法章程」の基礎になった。湖北幼稚園が中国の就学前教育史上、女子の公教育史上重要な位置を占めている所以である。
ところで、戸野みちゑは1890年に東京女子高等師範学校(お茶大の前身)を卒業後、京都府師範学校をへて、彦根、長野、名古屋などの高等女学校の教諭を歴任、当時は母校で教鞭をとっていたという。帰国後も主に女子教育や中村高等女学校、文華女学校など東京市内の女学校の校長を歴任、十文字学園の創設者の一人としても名を連ねている。国会図書館の蔵書にも戸野みちゑの著書が三冊あるが、『新日本』『校外読本新日本』『実用女子作文全書』であり、この経歴と著書を見る限り学校経営や女子教育の専門家ではあっても幼児教育の専門家ではなさそうだ。丹雪江・武井ハツの二名が保母だったのだろう。この日本人教習三名の選考過程も気になる。関連の研究や、実際の仕事等に関するエッセイ等があれば読んでみたい。
もっとも実際のところ、湖北幼稚園以前の中国に幼稚園が無かったわけではない。19世紀末、キリスト教宣教師に設立されたミッション系の学校内に附設された幼稚園が開港地にあった。これについてはまた今度。
参考:
阿部洋『中国の近代教育と明治日本』(龍渓書舎、1990)
荊楚網‧張之洞督鄂115周年 http://www.cnhubei.com/200412/ca636643.htm (中文 湖北幼稚園の教員と園児の写真)
「我国首所公立幼教機構創立的歴史背景意義」(小精霊児童博客)http://www3.060s.com/site/html/19/n-12919.html (中文)
冲方丁『天地明察』を読む ― 2010年05月11日
最近本屋大賞をとって話題の冲方丁(うぶかたとう)『天地明察』、日本独自の暦を作った渋川春海を描いた小説だという。以前暦を調べたときに渋川春海という人物に興味も持ったのを思い出し、早速読んでみた。474ページもの大部の著作であるが、読み応えがあり、面白かった。渋川春海が生きた江戸時代初期という時代、彼を取り巻く人間達、暦にかける情熱など、読んでいて爽快だった。江戸時代、こんな人達がいたのだと、とても嬉しかった。数学を楽しんでいる人達が作り出す、何とも言えない幸せな空間と時間を感じ気持ちが良かった。
但し、小説としては面白いが、記述されている天文学や数学、暦の知識には残念ながら作家の理解不足が感じられる。
私が知っている限りでも…授時暦は天下の名暦であるが、実際のところ、中国の暦ではマテオ・リッチの後輩のイエズス会の宣教師(アダム・シャール等)が中心となって明朝末期に編纂が開始され清朝初期に頒布された「時憲暦」以前、「食」を分秒単位で当てることはできなかった。それを可能にしたのは西洋天文学である。本書にも僅かに『天経或問』を入手して西洋の視点を取り入れた記載があるが、その重要さには言及していない。大和暦が宣明暦と授時暦と食予報で優位に立てたのは、マテオ・リッチが中国で紹介した西洋天文学の知識を渋川春海が取り入れたのが大きいと思う。
とはいえ、天文学や数学等に相当通暁した専門家でもなければ、この本に書かれた内容の全てを完全に正しく書くのは困難であろうし、専門家がこの爽快な人間模様を描き出せるとも思えない。むしろこの難しいジャンルに挑戦した作家の勇気を称えたい。
読んだ本:冲方丁『天地明察』(角川書店、2009)
『テルマエ・ロマエ』でほっこり ― 2010年03月23日
一ヶ月ほど前に、ローマ帝国ハドリアヌス帝時代の建築技師が日本のお風呂にタイムスリップするマンガがあることを知った。長らく読み続けている塩野七生『ローマ人の物語』がちょうど賢帝の時代にさしかかったときだった。『ローマ人の物語』でも、皇帝が街のお風呂に出かけたときの面白いエピソードが紹介されていたから、興味をそそられた。
さて、この『テルマエ・ロマエ』、ちょっと怪しい表紙だな~と思いつつ、読みはじめたのだが――すごく面白い!なによりローマ帝国の市民社会と日本のお風呂文化を合体させた発想には驚かされる。ローマ市民としての誇りを持つ主人公の建築技師が、日本のお風呂のエッセンスをローマに持ち込むのがこれまた絶妙である。1900年も前のローマの文化水準の高さやローマ人のお風呂好きを肌で捉えて書いている感じがいい。日本の銭湯や温泉への愛も感じられて、とっても新鮮な感覚である。
まだ一巻しか出ていないのだが…スーパー銭湯とか温泉旅館にもぜひ行って欲しい、ラテン語が出来る日本人のお風呂好きをローマに連れて行って欲しい、と勝手に想像をふくらませながら、続きを楽しみにしている。
ネットのニュースを見ていたら、この『テルマエ・ロマエ』がマンガ大賞2010(3月17日授賞式)を獲ったというではないか。ファンの一人として、とても嬉しい。
読んだ本:ヤマザキマリ『テルマエ・ロマエ』(エンターブレイン、2009)
論文・今井航「壬戌学制制定過程にみられる胡適の果たした役割」を読む ― 2010年03月03日
2009年5月12日の当ブログの記事「中国・民国期、日本学制からアメリカ学制へ」で書いたように、デューイ訪中以降のアメリカ式学制への関心の高まりから、一九二二年にアメリカ学制を導入した「壬戌学制」(正式名称は「学校系統改革案」)が制定されたと理解していた。それは間違いではないのだが、最近、今井航氏の論文「壬戌学制制定過程にみられる胡適の果たした役割」を読んで、この学制制定にあたり、胡適が積極的に関わっていたことを知った。
この論文によれば、壬戌学制は一九二二年十月に済南市で開かれた第八回全国教育連合会で議決された学制系統案をほぼ踏襲したものである。この学制系統案、実は次の三つの案が土台となっていた。
一つ目は一九二二年九月に教育部主催の学制会議で議決された学校系統改革案
二つ目は一九二一年十月末から十一月初旬にかけて広州市で開かれた第七回全国教育会連合会で議決された学制系統草案
三つ目は江蘇新学制草案討論会で議決された学制系統草案修正案
中でも一つ目と二つ目の二案の折衷・調整が難航し、このとき調停に動いたのが胡適であったらしい。結局「審査会の進行を渉らせるため」胡適が三案を参酌して調停案をまとめ、底本とする書面を起草した。
この底本に基づいて第3-5回までの甲組審査会で審議が行われ、幾つかの点を変更した以外はほぼそのままの形で議決されたというから、今井氏が指摘するように、胡適は壬戌学制(
学校系統改革案)制定において重要な役割を果たしたといえるだろう。
中国近代の六・三・三制導入について今井氏の本が出ているようなので、こんど読んでみたい。
読んだ論文:今井航「壬戌学制制定過程にみられる胡適の果たした役割」(『広島大学大学院教育学研究科紀要』第三部第五十五号、2006。) http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/metadb/up/kiyo/AA11625039/AA11625039_55_61.pdf 参照
最近のコメント