中国・民国期、蔡元培の機転と大学の女性への門戸開放 ― 2009年03月22日
前述のように、五四運動期の「教育の男女平等」の獲得で、最も注目を浴びたのは、女性への大学の門戸開放だった。引き続き『中国女性運動史1919-49』を見てみる。
北京大学の女性への門戸開放に向けて、甘粛省循化県出身(現在の青海省)の女子学生・鄧(とう)春蘭が1919年4月に北京大学校長・蔡元培へ北京大学が女子学生を受け入れることを要求する内容の手紙を出し、北京女子高等師範に合格した蘭州の女子学生とともに北京へ向かい、到着後は新聞に「全国の女子小中学校卒業生に告ぐるの書」を発表して同志を募り、大学の女性への門戸開放を求める請願グループを組織、世論の注目を集めることになる。更に「大学の女性への門戸開放を求める声が日増しに高まる」なかで、江蘇出身の女子学生・王蘭が1920年春に、初めて北京大学教務長の陶孟和に哲学科の聴講を求めた。これらの一連の請願活動は、北京大学側の校長・蔡元培や教務長・陶孟和、文学院教授・胡適の支持を得て、早期に実を結んだ。そればかりか、このときの蔡元培の発言によって、大学の女性への門戸開放は一気に全国に波及するのである。
それはこんな発言であった。鄧(とう)春蘭たちが北京大学入学の希望を出した後、蔡元培は上海『中華新報』の記者に答えて「大学の女性への開放の問題について、私は態度表明する必要はないと考えます。というのは教育部の規定では、選挙法における選挙権のように、大学生を男子に限るという規定はもともとないからです。しかも欧米各国を見ると、男女ともに募集していないところはありません。ですから私は、女性に対して解禁するかどうかは問題なく、たとえば来年北京大学での学生募集の際、それ相応のレベルがある女子学生ならば、皆受験できる。合格レベルに達していれば、入学を許可してもいいと考えています。」
教務長・陶孟和は蔡元培の主張を実行に移した。1920年冬休み明けには鄧(とう)春蘭、王蘭を含む9名の女子学生が、それぞれ「北京大学の哲学科、国文科、英文科の一年次に入って聴講することとなり、中国の国立大学の最初の女子大生となったのである。」 更に、南京高等師範学校、北京高等師範学校も女子学生の募集を開始、1920年10月には広東高等師範学校が男女共学の実施に踏み切った。「資料統計によれば、21年までに北京では、7か所の公立大学が女子学生を募集し、私立の民国大学や新華大学も女学生に門戸を開いた。22年になると、全国の大学で学ぶ女子学生の数は665名に達し、そのうち国立大学が414名、省立大学が45名、私立大学が206名であった。この665名の女子大学生は同じ年の大学生総数の2.1%にすぐなかったが、それでもやはりこれは新しい始まりであり、一つの大きな進歩であった。」
中国の国立大学の男女共学のきっかけが、政府の英断を待つまでもなく、北京大学校長・蔡元培の機転と進歩的な教授陣によって与えられ、早期に大学の女性への門戸開放が実現したのは興味深い事実である。 (修正日:2009年3月23日)
参考:中華全国婦女連合会/著、中国女性史研究会 /翻訳『中国女性運動史1919-49』(論創社、1995)
北京大学の女性への門戸開放に向けて、甘粛省循化県出身(現在の青海省)の女子学生・鄧(とう)春蘭が1919年4月に北京大学校長・蔡元培へ北京大学が女子学生を受け入れることを要求する内容の手紙を出し、北京女子高等師範に合格した蘭州の女子学生とともに北京へ向かい、到着後は新聞に「全国の女子小中学校卒業生に告ぐるの書」を発表して同志を募り、大学の女性への門戸開放を求める請願グループを組織、世論の注目を集めることになる。更に「大学の女性への門戸開放を求める声が日増しに高まる」なかで、江蘇出身の女子学生・王蘭が1920年春に、初めて北京大学教務長の陶孟和に哲学科の聴講を求めた。これらの一連の請願活動は、北京大学側の校長・蔡元培や教務長・陶孟和、文学院教授・胡適の支持を得て、早期に実を結んだ。そればかりか、このときの蔡元培の発言によって、大学の女性への門戸開放は一気に全国に波及するのである。
それはこんな発言であった。鄧(とう)春蘭たちが北京大学入学の希望を出した後、蔡元培は上海『中華新報』の記者に答えて「大学の女性への開放の問題について、私は態度表明する必要はないと考えます。というのは教育部の規定では、選挙法における選挙権のように、大学生を男子に限るという規定はもともとないからです。しかも欧米各国を見ると、男女ともに募集していないところはありません。ですから私は、女性に対して解禁するかどうかは問題なく、たとえば来年北京大学での学生募集の際、それ相応のレベルがある女子学生ならば、皆受験できる。合格レベルに達していれば、入学を許可してもいいと考えています。」
教務長・陶孟和は蔡元培の主張を実行に移した。1920年冬休み明けには鄧(とう)春蘭、王蘭を含む9名の女子学生が、それぞれ「北京大学の哲学科、国文科、英文科の一年次に入って聴講することとなり、中国の国立大学の最初の女子大生となったのである。」 更に、南京高等師範学校、北京高等師範学校も女子学生の募集を開始、1920年10月には広東高等師範学校が男女共学の実施に踏み切った。「資料統計によれば、21年までに北京では、7か所の公立大学が女子学生を募集し、私立の民国大学や新華大学も女学生に門戸を開いた。22年になると、全国の大学で学ぶ女子学生の数は665名に達し、そのうち国立大学が414名、省立大学が45名、私立大学が206名であった。この665名の女子大学生は同じ年の大学生総数の2.1%にすぐなかったが、それでもやはりこれは新しい始まりであり、一つの大きな進歩であった。」
中国の国立大学の男女共学のきっかけが、政府の英断を待つまでもなく、北京大学校長・蔡元培の機転と進歩的な教授陣によって与えられ、早期に大学の女性への門戸開放が実現したのは興味深い事実である。 (修正日:2009年3月23日)
参考:中華全国婦女連合会/著、中国女性史研究会 /翻訳『中国女性運動史1919-49』(論創社、1995)

最近のコメント