キュリー夫人と友人が作った「組合学校」の教育――『キュリー夫人伝』『イレーヌ・ジュリオ=キュリー』を読む2009年04月02日

   『イレーヌ・ジュリオ=キュリー』の本を読んだ。イレーヌ・ジュリオ=キュリーは、ラジウムとポロニウムを精製、発見しノーベル賞を受賞したことで著名なキュリー夫妻の長女である。そして実はこのイレーヌも、夫・フレデリックと共に世界初の放射性同位元素の製造に成功し、ノーベル化学賞を受賞した著名な科学者である。今回特にキュリー夫妻の長女イレーヌ・ジュリオ=キュリーの伝記を読もうと思ったのは、エ-ヴ・キュリー(キュリー夫妻の次女)が書いた『キュリー夫人伝』で読んだある印象的なエピソードを思い出したからである。それはキュリー夫人と友人の研究者が学校のようなものをつくり、それぞれの得意分野で子ども達を教育したというエピソードである。『キュリー夫人伝』で語られる「教育組合」と『イレーヌ・ジュリオ=キュリー』で語られる「組合学校」は少しばかり描き方のニュアンスが違うから、両方を見ることで、よりそれがどのようなものであったか、分かるかもしれない。まず、『キュリー夫人伝』から該当部分を引用しよう。

 彼女は、イレーヌに、ほんのちょっぴりで、しかも非常にうまく、勉強させたいと思った。彼女は熟考し、その友人たち――彼女と同じくソルボンヌの教授で、そして彼女と同じく家の長である友人たち――に相談した。彼女のきもいりで一種の教育組合の計画がうまれ、そこでえらい人たちが、その子供たちを集めて、これに新しい教育法をほどこすことになる。
 十人ばかりの子供たちのために、胸がわくわくするような、すごくたのしい一つの時代がひらけた。少年少女たちはえりぬきの先生の講義を一つだけききに毎日でかけた。ある朝、かれらはソルボンヌの実験室におしかける。と、ジャン・パランがかれらに化学を教える。翌日、この小部隊はフォントネー・オー・ローズに移動する。ポール・ランジュヴァンのやる数学の時間である。ペラン夫人とシャヴァンヌ夫人、彫刻家のマグルー、それからムートン教授が、文学、歴史、現代語、自然科学、模型製作、デッサンを教える。最後に、物理学校のある払いさげ建物のなかで、マリー・キュリーが木曜日の午後をさき、このへやの壁がかつて聞いたうちでもいちばん初歩な物理の講義をする。
 彼女の教え子たちは――そのうちの幾人かはゆくゆくえらい学者になるひとたちであるが――彼女の熱にあふれた課業や、そのしたしみにみちたやさしい態度の、まぶしいほどな思い出をいつまでも忘れないであろう。彼女のおかげで、教科書に記してある抽象的でたいくつな現象も、絵のようにとてもわかりよい解説がくわえらえる。インキにひたした自転車のベアリングの球をいくつかある斜面上で横にパッところがすと、それは放物線をえがいて物体落下の法則を証明した。振子はその規則ただしい振動をばい煙紙のうえに記した。生徒がくみたててこれに目盛をした寒暖計が、正式の寒暖計に一致した働きをしてくれたので、子供たちはたいへんとくいだった。
 マリーはかれらに科学愛と努力趣味とを伝えた。彼女はまた自分の勉強法をかれらに教えた。暗算の名人であった彼女は、少年少女にもぜひそれをやるようにすすめた。《けっしてまちがわないようにしなければいけません》彼女はきっぱりいった。《あまりいそいでやらないことがかんじんです。》…(250-251頁)

次に『イレーヌ・ジュリオ=キュリー』から引用してみよう。

 ピエールの死後も、ペラン夫妻、シャヴァンヌ夫妻、ボレル夫妻、ポール・ランジュヴァンらは、マリーが特に頼まなくても、たびたびキュリー家を訪れる。こんなある日曜日、彼らは(たぶんイレーヌの教育のことを考えていたピエールへの思いからだろう)、自分たちが自分たちの子供たちの先生になるというアイディアを固める。やがて“組合学校”という名前で、それが実現する。
 彼等は、それぞれの好みに応じて教科を分担する。その後二年以上にわたり、当時の最も優れた学者たちが子ども達の先生を務めることになる。マリー・キュリー、エドワール・ジャヴァンヌ(コレージュ・ドゥ・フランス教授)、ポール・ランジュヴァン、ジャン・ペラン、アンリ・ムートンなどだ。特権に恵まれた10人の生徒は、毎週一回ジャン・ペランの研究所に行き、応用化学の授業を受ける。それ以外の日はこんな分担だ。マリー・キュリーの物理学、アンリ・ムートンの博物学、アンリエット・ペランの文学と歴史など。以上の先生たちは、同じ地域に住んでいる。ポール・ランジュヴァンは数学を、エドワール・シャヴァンヌは外国語を教える。この二人はフォントネー・オー・ローズに住んでいる。
 愛らしいおチビさんたちは、アンリエット・ペランやシャヴァンヌ夫人に引率されて、ルーヴルやカルナヴァレ美術館を見学しに行くこともある。こうした折の電車や市電の中で、イレーヌはポーランドの作家ヘンリク・シェンキエーヴィチの『クォ・ヴァディス[何処へ]』をその場で翻訳して聞かせる。
  
 「教育組合」(組合学校)は二年ほどしか続かなかったが、効果は絶大だったようである。上記にあるように、優秀な研究者を幾人も輩出したのだから。教育は時間がかかるけれど結果が出るのが面白いところだ。もっとも、全員に教育効果があったわけでもないらしい。(社会的に成功するという意味で)実際にこの特別な教育を受けたペラン夫妻の娘アリーヌは当時をふりかえって感動とユーモアをこめてこう述懐する。「あのころもう才能を発揮していたイレーヌやフランシスにとっては、凄く良いことでしたよ。でもわたしなんかには、もったいなかったわね。あんなに偉い学者たちが、おっちょこちょいのわたしに構ってくれるなんて。全くひどい話よ。もったいないし、ナンセンスだったわ」いい思い出になっているのなら、それもまた良しである。

参考:エーヴ・キュリー著『キュリー夫人伝』(白水社、1958)
ノエル・ノリオ著/伊藤力司・伊藤道子訳『イレーヌ・ジュリオ=キュリー』(共同通信社、1994)

↓応援クリックお願いします(^^)

にほんブログ村 教育ブログへ

新神戸駅からハーブ園まで歩く2009年04月05日

甘い香りのパイナップルミント
 今日は曇りがちで時々日が射す、花曇りの天気だった。夫の提案&計画で、家族でハイキングに出かけた。

 新神戸駅から、布引の滝や貯水池を経由して、山の上のハーブ園までのコースをひたすら歩く。娘が歩き始めたばかりの階段のところで「疲れた」と言いはじめたので心配したが、その後は桜の花びらをひろったり、歌碑をみつけたり(「お墓?」と聞いていたけど)、ダムのそばで神様を見つけたり、彼女なりに楽しみを見つけながら、大人の足で一時間ほどのハイキングコースを、一時間半ほどで歩ききった。「ロープーウェーがあるなら、あれで登りたかった」と娘が言ったのを、夫が苦笑しながら、自然のなかを歩く良さを話していたのが面白かった。私にとっても、娘の手を引き、山桜の桜色や春の緑を眺めながら、緩やかな坂を歩くのは、なかなか楽しい体験だった。一部きつい階段を上がるのは骨が折れたけれども。

 ゴールの神戸布引ハーブ園で、のんびりハーブティなどいただいて休憩してから、帰りはロープーウェーで下山した。

 帰宅後、記念に一鉢「パイナップルミント」を購入したのを、早速花壇に植えた。それにしても、自然の中を歩くというのは、いいものだ。夫が「今日は目が良くなった気がする」と言っていた。本当にそうかも知れない。

↓応援クリックお願いします(^^)

にほんブログ村 教育ブログへ

キュリー夫人と娘・イレーヌの絆――『キュリー夫人伝』『イレーヌ・ジュリオ=キュリー』を読む22009年04月07日

 夫・ピエールの死後、キュリー夫人は夫の仕事をも引き継ぎ、さらに研究を深め、責任ある仕事をこなす忙しい日々を送るなかで、娘の教育にも気を配っていた。実質上、娘イレーヌとエーヴの教育は祖父(ピエールの父)や叔母、家庭教師に任されていたけれども、イレーヌに数学の才能があることを認めてからはその才能を伸ばすべく、キュリー夫人自ら手紙のやりとりで指導していた。母は娘に問題を出し、娘は手紙で回答を送る。数学は母娘を繋ぐ絆であり、一種の共通言語であったのだ。

 組合学校のアイデアは素晴らしいし、キュリー家を見まもる友人達の絆は素晴らしいと思うが、イレーヌの才能を本当に伸ばしたのは、母親マリーだったのだと、このエピソードを知って思った。

参考:エーヴ・キュリー著『キュリー夫人伝』(白水社、1958)
ノエル・ノリオ著/伊藤力司・伊藤道子訳『イレーヌ・ジュリオ=キュリー』(共同通信社、1994)

↓応援クリックお願いします(^^)

にほんブログ村 教育ブログへ

マリー・キュリーとイレーヌ・ジュリオ=キュリーが生きた時代――『キュリー夫人伝』『イレーヌ・ジュリオ=キュリー』を読む32009年04月08日

 今回『イレーヌ・ジュリオ=キュリー』を読むなかで、初めて実感できたのが、マリー・キュリー、娘のイレーヌ・ジュリオ=キュリーは、学術界で女性が活躍できることをいわば証明し、女性の社会的地位を確立する為に戦った象徴的存在だったことである。

 もっとも、マリー・キュリーは政治に関わることもなかったし、女性解放論者でもなかった。それでも、女性で初めてのノーベル賞受賞者(しかも二回目は単独受賞)の彼女の名声は高く、輝ける存在として大きな影響力を持った。

 一方、イレーヌは直接養育に携わった父方の祖父の薫陶を受けて、政治に強い関心を持っており、人民解放戦線の閣僚にもなったことがある(二ヶ月のみ)し、積極的な女性解放論者でもあった。

 彼女たちが生きた時代のフランスは、非常に保守的で、女性が社会で活躍するには多くの障害があった。それを最も顕著に示しているのが、フランスにノーベル賞をもたらしたマリー・キュリーとイレーヌ・ジュリオ=キュリーという当時最も有名で現代科学に大きな貢献をした二人の女性科学者が、フランスの科学アカデミーの会員に選ばれることはなかったという事実である。

 それでも、イレーヌ・ジュリオ=キュリーは死に際して、国葬とされた。フランスはついに、この女性の科学界及びフランスへの貢献を認めざるを得なかったのである。彼女たちを含む無数の女性の苦悩と絶え間ない努力の上に、今の女性の活躍の場が開かれていったことを痛切に感じた。

参考:エーヴ・キュリー著『キュリー夫人伝』(白水社、1958)
ノエル・ノリオ著/伊藤力司・伊藤道子訳『イレーヌ・ジュリオ=キュリー』(共同通信社、1994)

↓応援クリックお願いします(^^)

にほんブログ村 教育ブログへ

映画「キュリー夫人」を見ました2009年04月09日

美しいキュリー夫人でした
 ここしばらく、私の中で、キュリー夫人ブームが続いている。今度は映画「キュリー夫人」を見たくなって、DVDを探した。古い映画のためか、ビデオレンタル店にはなかったけれど、アマゾンで探したら運良く見つかって早速母娘で鑑賞した。

 映画は、私が小学生の頃、キュリー夫人の伝記を読んだままのイメージであった。ポーランドからパリに留学したマリー=スクロドフスカ(結婚してマリー・キュリー)が屋根裏部屋で貧しい下宿生活を送りながら必死に勉強し、優秀な成績をおさめ、当時すでに名を知られていた物理学者ピエール=キュリーと出会って結婚する。中でも二人が、粗末な実験室で、4年をかけて、過酷な実験を続け、ついにラジウムを取り出すことに成功するエピソードは感動的である。十分な設備もない実験室で、科学者夫婦がアイデアを出し合い、時には挫けそうになりながらも、協力して実験に取り組む姿は素晴らしい。夫婦の絆の深さが感じられる中で、ピエールが交通事故で他界する場面は、眼を塞がないではいられなかった。

 思えば、1903年のキュリー夫妻のノーベル物理学賞受賞、1911年のマリー・キュリーのノーベル化学賞単独受賞、1935年のジュリオ・キュリー夫妻のノーベル化学賞受賞…キュリー家は一族4人で合わせて5つのノーベル賞を受賞したことになる。その記念すべき一つ目は、実験設備も整っていない粗末な倉庫で、助手もなく、実験用具を自作しながら、過酷な実験と思索を続け、夫婦二人で勝ち得たものであることを、映画はよく表現している。ピエールが死去した後のマリーの人生などは描かれなかったし、ノーベル賞受賞の場面さえなかったけれど、二人の愛と栄光を描くには、あの粗末な実験室での日々こそが相応しいと監督は判断したのかもしれない。

見た映画:「キュリー夫人」(DVD)

↓応援クリックお願いします(^^)

にほんブログ村 教育ブログへ

小学校が始まって…2009年04月10日

 今週進級式があって、娘は二年生になった。春休みの二週間は娘と楽しく過ごしたものの、要領がよくない私は自分の時間をほとんど捻出できなかったので、いま少しほっとしている。

 最近、友人の翻訳のお仕事を少しお手伝いしている。通常授業にならないと、なかなか時間がとれないので、まずは少しだけ。なにより私でも出来ることがあって、声を掛けてくれたり、頼ってくれたりするのは嬉しいことだ。ただ、この翻訳、いままでやったのとちょっと趣が違う。なんと、ロールプレイングゲームの翻訳なのだ。難しいところは友人がやっていて、私が担当しているのは、ゲームの登場人物の台詞等の部分である。

 さらっと読んだときは、面白そうだった。でも、いざ訳そうとして、戸惑ってしまった。意味は分かるけれど、訳すとなると、ゲーム独特の言葉遣いがありそうで、安易に手を着けるのが怖くなった。性別や職業などでも、使う言葉が違うはずだ。よく考えてみれば、なかなか難しい。

 とはいえ、始めてみないことには、アドバイスを受けることも出来ないから…まあ、とりあえず、やってみよう。いい翻訳をすることが出来ると良いのだけれど。

↓応援クリックお願いします(^^)

にほんブログ村 教育ブログへ

週末の過ごし方――春の金閣寺2009年04月12日

春の金閣寺
 今日は京都の金閣寺へ行ってきました。京都の最高気温は26℃、暖かい一日でした。金閣寺に着いたのは12時頃だったので、まずは「おむらはうす 金閣寺店」で腹ごしらえ。このオムライスの専門店、中味のご飯にもソースにも工夫があって、とても美味しかったです~。

 さて、金閣寺です。切符売り場にたどりつく前に、金閣寺の鐘をつけるというのに出会いました。「平和の鐘」とあり「ひとつき200円」で金閣寺の絵はがきがもらえるとありました。娘が「鐘をつきたい」と言ったので、夫が一緒に鐘をつくことに。「ゴォォーン」といい音がして、娘は大喜びでした。私はデジカメで写真を撮りながら、昨年の夏に鹿児島の知音の平和公園で「平和の鐘」をついたのを思い出しました。しばらく前、「平和の鐘をならそう」という運動があったように記憶していますが、これが今も続いているのでしょうか?

 話は戻って金閣寺です。今日は天候にも恵まれ、金閣寺は格別の景観でした。桜はあまりないのですが、緑がまぶしい境内でした。ただ…人が多くてびっくり。日本人も外国人も、老いも若きも、参観ルートで思いのままに歩き、写真を撮っています。見どころはどこも人だかり。私はといえば、人の邪魔にならないように、ぶつからないように、娘の手を引っ張るのに気を取られすぎて、庭園を楽しんだり、御抹茶をいただくなどの余裕などがなかったのが残念です。それでもなんとか参観記念に金閣寺の朱印所で御朱印をいただくことはできました。

 休日は出来るだけ外に出るよう仕向けられているおかげで、インドア派の私も少しずつ外歩きに慣れてきました。そのうち金閣寺やきぬかけの道をゆっくり散策してみたいものです。出来れば人が少ないときに。

参考:金閣寺 http://www.shokoku-ji.or.jp/kinkakuji/
オムライス専門店「おむらはうす」http://www.omurahouse.com/index.html 京風創作オムライスのお店

↓応援クリックお願いします(^^)

にほんブログ村 教育ブログへ

久しぶりの雨と川島芳子生存説2009年04月14日

 外は雨が降っている。花散らしの雨になってしまって、少々寂しい気もするが…乾いた地面が潤って、植物が水を含んで嬉しそうだ。

 ところで先日、朝日新聞に川島芳子が生存していたという説の記事が載っていた。愛新覚羅家の人の証言だった。詳しく知りたいと思っていた矢先、友人に「川島芳子は生きていた!」というスペシャル番組があったことを聞いた。インターネットで概要を見ることができるというので、早速見た。特集ページには番組のダイジェスト版の映像(7分)をみることができ、証拠品の映像、関係者の証言もあった。本当に生きていたのなら、身代わりを用意してまで彼女を生かしておいた理由を知りたいものだ。

↓応援クリックお願いします(^^)

にほんブログ村 教育ブログへ

ふと…2009年04月15日

 ふと、ブログの記事を読み返してみた。子育て日記と読書日記を見ると、この一年の間に、興味を持ったこと、些細な出来事などが次々に思い出される。

 一年余り書き散らした研究関連の記事も、かなりの量になった。ブログを始める前の手元のものを含めると、清末から現代まで、教育史、教科書史を大体なぞるくらいの内容にはなっている。足りない部分を補って、このあたりでまとめておこうと思う。

木の葉の手紙2009年04月17日

 小学校の懇談会があった。娘が二年生になって初めての懇談会で、担任と保護者の顔合わせをして、自己紹介をした。そしてクラス委員を選出…去年は投票で委員になったが、今年はポイントがついているので免れたようだ。懇談が予定の時間通り終わって、帰宅すると、ポストに面白いものを見付けた。「おかあさんへ」と書いた木の葉の手紙である。

 木の葉の手紙…まるで物語のなかにでてくる手紙のようだ。以前読んだ『てがみをください』という絵本を思い出した。葉っぱの手紙を書いてお返事を待っているカエルのお話である。

 家の中に入ると、娘が見あたらない。名前を呼んでも出てこないので心配になった。でも…見つかった。我が家の木の葉の手紙の主は、私の帰りを待ちわびていて、待ちきれずに寝てしまったらしかった。

↓応援クリックお願いします(^^)

にほんブログ村 教育ブログへ