中華人民共和国、ソ連一辺倒の教育――第一次五カ年計画期2010年07月09日

建国後最初の学制「学制改革に関する決定」(1951年10月1日政務院公布)は、ソ連の学制を全面的に移植したものであった。第一次五カ年計画期、特に1953~56年にかけては小学校から大学まで「ソ連に学ぼう」の空気が教育の現場を支配した。55~56年にかけて教育部は全国の小中学校教員による「ソ連教育視察団」を編成、派遣しているし、その後も高等教育機関の教員や行政関係者をソ連に派遣した。

ソ連から専門家が多く訪中し、ロシア共和国教育科学アカデミー総裁カイーロフが中心に編集した『教育学』が教職教育、教育理論研究のテキストになったし、カイーロフ自身も57年に訪中して北京や上海等で講演している。また、1955年から56年にかけて出版された「文学」教科書にも多くソ連の作家の作品が採られた。ちなみにこの「文学」教科書には小林多喜二の蟹工船が選ばれている。しかしながら、ソ連から移植した新しい教育体制は中国の実情に適合せず、問題が続出、5年一貫制プランも実験中途で打ち切りとなった。

そして1958年10月、毛沢東自ら代表団を率いて参加したモスクワ会議をきっかけに、中ソの相違が明らかになり、中国は徐々に独自化への道を歩み出す。特に、1960年にはソ連が中国に滞在していた専門家を引き上げさせ、中ソ同盟の決裂が必至となると、ソ連に学ぶ教育体制は改められ、中国独自の社会主義教育を目指すようになる。ただし、この時期に導入されたソ連式教育の一部、例えば中国少年先鋒隊や再教育、幹部教育制度などは、いまも中国の教育のなかに息づいている。

 

参考:齊藤秋男『中国現代教育史』(田畑書店、1973)