女子教育制度の確立「奏定女子学堂章程」 ― 2008年04月01日
中国人創立による初めての女子校は、康有為や梁啓超ら変法派によって1898年上海に開設され、当時の上海政財界の大物・経元善の経営になる「経正女学」(又の中国女学会書塾)である。進歩的な思想で運営されたが、クーデターで変法運動が失敗するとすぐさま閉鎖された。 女子教育が合法的な地位を獲得したのは、光緒33年(1907年)、奏定女子学堂章程が公布され、女子小学堂と女子師範の設置が規定されたことによる。これは奏定学堂章程(光緒29年・1903年)施行の二年後(光緒31年・1905年)に学部が成立し、教育政策の強化が図られたことによるものであった。但し、いわば先に公布された奏定小学堂章程が男子校用、奏定女子小学堂章程が女子校用ということであって、女子教育は男子教育と明確に分離していた。
女子学堂設立でもっとも重要視されたのは、徳育であるが、これは伝統的儒教に基づいた「三従」「四徳」を主とするもので、女子の性質と将来の生計の多くが男子と大きく異なる(第1章第4節6)ことが、学制に明記され、女子小学堂と男子小学堂との合体を固く戒めている。(第1章第2節)また、学習内容と時間も男子学堂よりも負担が少なく設定されている。その一方で、伝統的思想にはない新しい部分も盛り込まれた。身体の発育を重視し、その発育を阻害するとして纏足の禁止を明記したことである。 実際に女子小学堂用の教科書を見ると、男子学生向けの教科書とは内容と教学水準に大きな違いがある。男子学生向けの教科書には伝統的な儒学知識に加え、欧米の学問知識が取り入れられた内容であるのに対し、女性向けの教科書はまずは纏足の解放、良妻賢母になるための教育、そして限定された思想の解放が主となっていた。
『読む中国語世界』4月号 ― 2008年04月06日
昨日は娘の入学式でした。雨の降りしきる中ではありましたが、本人は早速前の席の女の子とお友達になった、と嬉しそうでした。もっとも、大変緊張したようで、親子でフラフラに。。とくに私は寒かったのに薄着だったので風邪気味かも(^^;)ブログ更新が滞っていることが気になっているので、今回は読書日記を。
『読む中国語世界』というのがあると知って買ってみました。2008年4月号--創刊10周年で、月刊化の第一号。「現代女性作家の粋」として張愛玲(映画「ラスト・コーション」の原作も)、王安憶の小説を取り上げ、張芸謀のインタビューを掲載しています。張芸謀のインタビューは「あの子を探して」以来関心を持っていたので、彼の文革時代、映画監督への道筋が本人の言葉で語られていてとても面白かったです。しかもそれらの記事にはいずれもピンインと日訳、言葉についての解説がついているのが、ちょっと不思議な感じではありましたが。あくまでも初級から中級の方向けの学習雑誌なのですが、特集以外にも面白い記事もちらほら。見開きにはロープで川を渡って学校に通う話が載っていましたし、文法のコラムもあって、これが日本人(私も)が間違いやすいところなどをよく説明してあり、あとは春節の雪害の記事など、なかなか充実していました。また見かけたら見てみようかな~。
中国人創立の初めての女子校「経正女学」 ― 2008年04月09日
4月1日の内容について、間違った記述があったことに気がつきましたので、冒頭部分を訂正しました。 なお、中国人創立の初めての女学校である経正女学の詳細について以下のように補足しておきます。
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中国の婦女解放運動の先鞭をつけたのは維新派であった。康有為は1883年に「戒纏足会」(不纏足の会)を組織して不纏足運動を始め、(宣教師の夫人達も同じ頃、天足=自然足運動を始めている)、また梁啓超は1896年から1897年にかけて『時務報』で「変法通議」という論文を発表し、富国強兵のためには女性への教育が必要であり、また児童教育のためには母親教育が必要であり母親教育のためには夫人教育が必要である、とする婦女解放論を展開した。
こうした状況の中で、維新派の人々は女学校の創設を提唱する。1898年、上海に中国人創立の初めての女子校「経正女学」(中国女学会書塾・中国女学堂とも)が、当時の上海の代表的な実業家で社会慈善家の経元善主導の元に開設され、光緒24年4月12日(1898年5月31日)に開校した。開設当初は8歳から15歳までの生徒が16名、夏休み後には40名に増えたらしい。カリキュラムには「中文」科(『女孝経』『女四書』唐詩、古文等)、「西文」科(英語、算数や地理、図画、体操等)、「女紅」科(裁縫や琴学等)、「医学」科という4つの課目があった。伝統的な良妻賢母的教育が行われる一方で、欧米の近代科学教育が課目に取り入れられていたのは興味深い。教室には外国で出版された地図が掲げられ、四人一部屋の宿舎も備えるなど、備品や設備も充実していたという。しかし、まもなく起こったクーデターで変法運動が失敗するとすぐさま閉鎖されてしまったのであった。
参考: 中華全国婦女連合会編著『中国女性運動史1919-1949』、小野和子『中国女性史』他
初期の婦女解放運動 ― 2008年04月14日
中国の婦女解放運動の先鞭をつけたのは維新派であった。康有為は1883年に「戒纏足会」(不纏足の会)を組織して不纏足運動を始め、(宣教師の夫人達も同じ頃、天足=自然足運動を始めている)、また梁啓超は1896年から1897年にかけて『時務報』で「変法通議」という論文を発表し、富国強兵のためには女性への教育が必要であり、「才能がないのが女性の徳である」とする中国の伝統的な考え方を批判し、また「児童教育のためには母親教育が必要であり、母親教育のためには夫人教育が必要である」とする婦女解放論を展開した。維新派の婦女解放論は、女性の見識を高め、身体を自由にし、労働力として或いは子供を産む機械としての女性の質を高めることが、富国強兵に繋がるという論理であって、明らかに女性が本来持つべき権利に根ざしたものではない。それでも、女学校の開設など、女性を社会に引き出すという意味で大きな役割を果たした。
参考:中華全国婦女連合会編著『中国女性運動史1919-1949』、小野和子『中国女性史』他
映画より怖い本当の暗殺未遂事件 ― 2008年04月20日
映画「ラスト・コーション」の原作、張愛玲の『色、戒』の主人公・王佳芝と易にはモデルがいた。王佳芝のモデルは女スパイ鄭蘋如、易のモデルは丁黙村、実際に中統の女スパイによる暗殺未遂事件が1939年に起きたのである。
王佳芝のモデル鄭蘋如は、日中のハーフで、父親は鄭英伯、母親は木村花子(中国定住後は鄭花君と改名)という。父親の鄭英伯は日本の法政大学留学中に革命運動に参加、辛亥革命は復旦大学教授になるが、上海陥落後は重慶の国民党の中統(CCとも)責任者の片腕として地下抗日活動に従事していた。母親は日本人ではあるが、日本亡命中の孫文の講演に感銘を受け革命活動に参加した人物である。鄭蘋如は19歳の時にはすでに中統の指示のもと、母親から学んだ流暢な日本語と画報『良友画報』の表紙モデルとなったほどの美しい容姿、そして巧みな社交術で、汪兆銘政権の特権階級の社交界に潜り込んで情報収集活動をしていたという。一方、丁黙村は国民党の特務出身で汪政権の特務機関の主任として、抗日活動や反政府運動、及び中国共産党の弾圧を手がけ、恐れられていた。丁は、国民党特務の手の内を知り尽くしていた。その丁黙村を暗殺するために、美人局が計画され、選ばれたのが鄭蘋如である。丁黙村はかつて名光中学校長であり、この頃鄭蘋如はその中学に通っていたから、一応師弟関係で顔見知りでもあった。まもなく計画通り丁黙村は鄭蘋如にのめり込んだ。
1939年12月21日、鄭蘋如は組織との打ち合わせ通り、丁黙村に毛皮を買ってくれるようねだり、毛皮店に誘い込んだ。しかし、丁は通行人の不信な行動から危険を察知して、店を飛び出し、通りに待たせてあった防弾仕様の車に乗って逃げてしまう。鄭蘋如は失敗を諦めきれず丁黙村に会いに行き、丁の部下に捕らえられ、投獄、厳しい尋問を受けることになる。丁黙村は鄭蘋如を殺す命令を出すことが出来ずにいたが、妻が部下に命じて監獄から出させて銃殺させるのである。死刑後、鄭蘋如が丁を愛してしまった為、死刑直前に逃がしたという噂が流れた。
張愛玲『色、戒』を映画化したアン・リー監督は「張愛玲が書く小説の題材は全てほかの人物や物事だが、この作品だけは自分を題材にしている」と述べている。小説の舞台は汪兆銘政府時代の上海、張愛玲は汪兆銘政権で宣伝部常務副部長や法制局長をつとめた胡蘭成(作家・思想家)と1944年に結婚していた。しばらくの幸せな生活の後、1947年に離婚している。この作品からはいろいろな張愛玲が見えるようだ。張愛玲が香港で大学時代を過ごし香港陥落で上海へ戻るのは王佳芝と重なるし、政権幹部夫人として易夫人や馬夫人等とも重なり、汪兆銘政権幹部等の危機感は夫を通じて身近で感じていたはずであり、また悲しいことであるが易夫人と同じく信頼していた夫に裏切られていた。だから作品には、虚構ではない、本物のピンと張りつめた空気が感じられるのだろう。
女性は暗殺に向いている?--愛国女学 ― 2008年04月20日
アン・リー(李安監督)の話題の映画「ラスト・コーション」、原作は張愛玲の『色、戒』という短編小説である。これを初めて読んだとき違和感があったのが、女学生が「美人局」というか「美人計」で暗殺計画の中心的役割を果たす設定である。「暗殺」と「女学生」が長年の間私の中では結びつかなかった。
ようやく「女学生」が「暗殺」計画の中核を担うという設定に納得がいったのは「愛国学社」「愛国女学」の存在を知ったことからである。
「愛国学社」「愛国女学」は経元善(上海の事業家、中国人による初の女学校である経正女学も設立)の呼びかけで蔡元培等が発起人になって1902年に設立された学校である。蔡元培は、国難に際し、革命の道は暴動と暗殺しかない、と考えて、男子の「愛国学社」では軍事訓練を行って暴動の種をまき、女子の「愛国女学」では女子は暗殺に適しているということで暗殺の種をまこうとした。授業ではフランス革命やロシア虚無党史が講ぜられ、爆弾製造のために理科も重要視するなど、単なる愛国主義の教育ではなく、革命の為の実践的な特殊教育を施そうとしたという。
伝統教育を脱して、新たな時代の女性に求められたものが、自己犠牲的愛国主義であるという、過激でとてつもなく恐ろしい現実に、当時の中国の切実さを感じずにはいられない。
『絵図女学修身教科書』で学ぶ良妻賢母への道 ― 2008年04月27日
初期の女子小学堂の「修身」科で使われた教科書『絵図女学修身教科書』の一部を資料集で見た。絵図と称するだけあり、挿絵がページの上三分の一ほどを占める。後は本文、そして本文の下に注釈が小さくついている。挿絵は女性が掃除をしたり、刺繍をしたり、女性客をもてなしたりする絵柄である。光緒28年(1902年)10月出版だそうである。
本文には「女児経」が採られている。(他に「女誠」「女論語」も)伝統的な女の子向けの処世訓で、韻を踏んでいて読みやすく覚えやすい。内容は、日が昇ったら起きて、掃除して、身支度をしたら、刺繍をせよ。噂話には耳を貸さず、夜歩きや大笑いや大声は慎まねばならない…といった女性としての身の処し方を教え、また、11歳ともなれば大人であり炊事万端怠りなく空いている時間は刺繍に励み――14、5から20歳になれば娘として家に居られる時間も少ないので嫁になることを学ばなくてはならない――等々、学問に関わる内容は一切なく、ただただ、年齢に応じてより厳しく心身を律し、家に閉じこもって家事に勤しみ、孝行を尽くし、なお家の為に嫁いで、良い嫁になるよう諄々と説かれるのである。
「教科書」と称しても、教えられるのはこうした「女児経」「女誠」「女論語」であった。女子教育が始まった清末、女子に求められるのは相変わらず「四徳」「三従」であり、伝統的な儒教思想そのものを学校教育に持ち込んだものにすぎなかった。
参考:国立編訳館主編『小学教科書発展史』
娘がもらった国語教科書 ― 2008年04月27日
娘が小学校に入学した日、教科書をもらってきた。国語は「あたらしいこくご」一年(上)、出版社は東京書籍、全100頁(含付録)である。
早速ページをめくってみた。可愛いイラストと大きいひらがなが印象的である。最初の「うれしいひ」は「おや なにかな」の台詞の後は、ほぼ動物が沢山出てくるカラフルなイラストのみで物語が表現される。子供の想像力を引き出す教材であるらしい。あいさつ、あいうえお、ことばあそび、話す練習などが続く。一冊に収録されているお話は、もりやまみやこ「てがみ」、トルストイ再話「おおきなかぶ」の二篇である。「てがみ」は主人公のきつねくんが、けがをして休んでいるねずみさんに書くほのぼのとして心温まるお話、「おおきなかぶ」は次々と家族やいぬやねこ、ねずみも加わって、おおきなかぶをひっこぬくだけのストーリーで、台詞は「うんとこしょ、どっこいしょ」のかけ声だけ、なのが面白いお話。考えてみれば「おおきなかぶ」はロシア民話の再話だから、これを一年生が国語として学ぶことに対しては、不思議な感じもあるが、うちだりさこさんの訳「うんとこしょ、どっこいしょ」のかけごえの繰り返しが何とも絶妙だから、選ばれたのだろう。その後は絵本の紹介あり、絵日記の書き方あり…そして「かんじのはなし」で漢字のなりたちなどについて学び、更に「かぞえうた」で漢数字を学ぶ。上冊で学ぶ漢字は「山」「川」「木」「口」「目」「上」「下」「日」「月」「手」「耳」の11文字及び漢数字「一」「二」「三」「四」「五」「六」「七」「八」「九」「十」10文字の合計21文字である。
東京書籍のHPにあった「平成17年度版『新編 新しい国語』年間指導計画(一年)によれば、1学期はひらがなの練習が主で、2学期9月になってようやく漢字の勉強が始まる。上冊はここまで。一年生で習う漢字は80字だから、下冊で59字学ぶわけだ。ちなみに現在の学習指導要領では、小学校の6年間で学ぶ漢字の数は1006字である。
裏表紙に「この教科書は、これからの日本を担う皆さんへの期待をこめ、国民の税金によって無償で支給されています。大切に使いましょう」とあった。どうぞ、大切に使ってくださいね。
参考:「あたらしいこくご」一年(上)、平成16年検定済み、平成20年発行、東京書籍 「平成17年度版『新編 新しい国語』年間指導計画(一年)」東京書籍 http://www.tokyo-shoseki.co.jp/
中国の小学一年生の国語(語文)教科書 ― 2008年04月28日
素質教育への流れ、教学大綱から課程標凖への移行、義務教育法の改正など、中国教育の近年における変化は教科書にはどのように反映されているのだろうか。
日本の国語にあたる「語文」教科書について見てみよう。現在の中国で実際に使われている北京師範大学出版社の義務教育課程標準実験教科書「語文」一年級上冊(2006年6月出版)は、全109頁、カラフルで可愛いイラストが散りばめられている。
全体的に学習量が多く、内容も濃い。一年生が学ぶ一冊目の教科書ながら、5首の古詩(漢詩)が教材として選ばれており、しかもこれらの古詩を含め暗唱を要求される課文(詩)が19篇もある。無論、詩には相当難しい漢字も使用されている。ピンインの学習は教科書の中程から始まるが、それまでにも使われているから、すでにピンインは理解していることが前提となっていると思われる。巻末の「認字表」(認字=読んで理解出来る字)には328字、「写字表」(写字=書ける字)には136字が載っている。
実は中国の現行の語文課程標凖では、一年生と二年生の間に50篇の詩文を暗唱し、1600~1800字の常用漢字を理解でき、そのうち800~1000字は書けることが要求されている。日本の学習要領で定められている、一年生が学ぶ漢字の数は80文字、二年生は160文字である。中国は漢字の国だから、単純には比べられないが、中国の小学生に科せられている学習要求は相当高いと言えるだろう。
一方、以前使われていた教材は「カラス水を飲む」「小さな船」「雪の中の小さな画家」くらいで、後は…以前は必ずあった党のリーダーや英雄、烈士の逸話は見あたらない。但し、さりげなく詩や歌詞のなかに「大きくなったら人民のために大きな功労をたてます」(上学歌)や「我々は祖国の花、祖国は我々の家」(家)といった詩句がある。教案によれば「国家盛衰、匹夫有責」(国家の盛衰は、国民一人一人に責任がある)の観念を浸透させることがのぞまれており、依然として国語教科書による愛国教育は健在である。しかし、以前より明確でなくなり、目立たなくなっているようにみえる。
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