論文・王耀徳「日本統治期台湾人入学制限のメカニズム」を読む2009年11月20日

 届いたばかりの『天理臺灣學報』(第18号、天理台湾学会)に面白い論文を見つけた。王耀徳「日本統治期台湾人入学制限のメカニズム」である。王耀徳氏のこの論文は「台湾人進学を抑圧する仕組みにおいて、一定の入学比率制限が存在していることは広く認知されていたものの、その具体的な状況に関する検討はあまりにもなされてこなかった」という研究状況を踏まえ、「戦前台南における台南州立台南第一中学校と第二中学校の比較、さらには台湾総督府台南高等工業学校の実態を通して、台湾人入学制限のメカニズムや論理を検討」した研究である。

 以前から、日本統治時代の教育面の台湾人差別の実態について、客観的なデータをみたいと思っていた。その意味でとても興味深い論文だったので、覚え書きを残しておこうと思う。

 台湾人入学制限のメカニズムについて、1919年の台湾教育令は日台分離、即ち日本人と台湾人が別の学校に就学するという教育制度であった。教育の質や水準は日本の学校と比べて低くても、台湾人の教育を受ける機会は守られていた。(このあからさまな愚民政策は強い反発を招いたと思うが…)同論文が主題としているのは、1922年の新台湾教育令の方である。この法令は一視同仁、平等教学というスローガンを掲げており、中等教育以上の学校で日台共学制度を実施したもので、制度上は台湾人も日本人も同程度の中等教育機関に受け入れられる体制が整えられた。

 ところが教育制度同化は、実際には台湾人の中等・高等専門教育機関への進学機会を奪うものとなった。同論文で言及されている理由で一番気になるのは、総督府当局の学校運営への干渉と圧力、及び学校上層部の自主的な作為による、台湾人入学者の人数制限である。同論文のデータから日本人と台湾人入学者の比率を見ると、台南一中は日本人9:台湾人1、台南高工は初年度が5:5であった他は日本人8:台湾人2から日本人9:台湾人1である。法令上の差別はないのだから、言葉の壁や教育環境の不利はあったにせよ、この割合は不自然である。「裏で厳密に操作」したのだという見方は妥当だろう。論者は「形式的な試験制度の裏には台湾人の入学者数の比率を制限する規定があったことは疑いの余地がない」としている。

 但し、これは多くの台湾人の証言と入学比率のデータの考察に基づいているが、いわば状況証拠による結論である。データは興味深いけれど、総督府当局が「裏で厳密に操作」したと断じるのは、少々論拠が弱い感じを受ける。台湾人の入学者数の比率を制限する規定を盛り込んだ台湾総督府学務部の内部文書や当時の上層部の人物の証言などの直接的な証拠が見つかれば、もっと説得力が増すと思う。このあたりの日本側の史料の発掘はどうなっているのだろう。まだ見つかっていないのだろうか?

 この論文を読んでいて、ふと、台湾で戦中から戦後にかけて活動した文学サークル・銀鈴会の同人の方々にインタビューしたときのことを思い出した。台湾人の公学校と日本人が通う小学校との年限の違い、台湾人には狭き門の中等学校の激烈な受験戦争、台湾人に認められた高学歴の職業が教師、医師や薬剤師くらいしかなかったことなど…、言葉の端々から日本統治時代の被差別体験が、彼らの心に傷を残したことをうかがわせた。

読んだ論文:王耀徳「日本統治期台湾人入学制限のメカニズム」『天理臺灣學報』(第18号、天理台湾学会、2009)


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