中華民国初期、教育改革停滞の背景2010年03月02日

 いま少しずつ、中華民国の学制についてまとめているので、覚え書きを。

 中華民国成立後、「壬子癸丑学制」が、一九一二年から一九一三年にかけて公布された。一九一二年の中央臨時教育会議では、初代教育総長・蔡元培が清末以来の日本式学制の再検討と、欧米学制を参考にすべきことを提唱したが、ほとんど反響が無かった。(なお、蔡元培は袁世凱の独裁が明白になったことから、7月14日に教育総長を辞任、ドイツへ留学)そのため、「壬子癸丑学制」は、臨時学制の新しい部分を除けば、日本の学制を模倣した清朝の学制に若干修正を加えただけで、大枠に変更はなかった。以降、初等教育は七年(初等小学校四年、高等小学校三年)と高等小学校段階における実業教育の二本立てのまま、基本的変更なく約十年が過ぎることになる。当時は列強の侵略、軍閥割拠、内乱等で国内事情が極めて不安定であったから、教育改革は後回しにならざるを得なかった。