言語を超えた世代の台湾詩人・錦連さん2010年12月08日

台湾の詩人・錦連さんより全集が届いた。中国語の詩が4冊、日本語の詩が4冊、翻訳が2冊、小説が1冊、散文(1949年の日記も)が1冊、資料が1冊の合計13冊である。

全集に収められた詩の内、日本語の創作が半分を占め、翻訳もあるのは、錦連さんが台湾で「言語を超えた世代」に属する詩人だからである。1928年12月に日本統治下の台湾で生まれた錦連さんにとって、日本語は中国語よりも先に獲得した創作言語であり、中国語は戦後に苦労して習得した創作言語であった。

 錦連さんは戦前戦後にかけて台湾中部で活動していた銀鈴会の同人で、中国語一色となった戦後の台湾文壇においても言語の壁を克服し中国語で作品を発表していた笠詩社の発起人のおひとりでもある。同世代の詩人と比べ少し異色なのは、台湾の彰化駅の電信室に長年お勤めだったことだ。

 二つの言語の狭間で、繊細な感受性と鋭い観察力で綴られた詩、日記、雑文…
全集には、錦連さんの半世紀以上の歴史と心がぎっしり詰まっている。この機会に丁寧に時間をかけて読んでみたいと思う。




コメント

_ 三田裕次 ― 2011年03月17日 18時38分55秒

ダブリ投稿になっているかも知れませんが;
関係書籍は全て広島大学図書館に過房させたので、記憶に基づいて。
1946年の台湾の公用語が北京語一本になったことは色んな人が論じていますが、
1947年?医学界の業界用語が「日本語&ドイツ語」が「北京語&英語」になったことは誰か「聞き取り」でもやっていますかね。独和辞典を台湾に送るなど、色々と撒き餌はやったのですが。

_ ゆうみ→三田さん ― 2011年03月18日 07時13分12秒

台湾の医学界の業界用語が1947年から「北京語+英語」に変更になったのは知りませんでした。本省人医師は相当困ったでしょうね。締め出しに近い感じがしますね。そのあたりのことをやっていらっしゃる方を私は知りませんが、つつけばいろいろ出てきそうですね~。

_ 三田裕次 ― 2011年03月18日 17時58分14秒

台湾人医師は基本的には英語も少しはできますし、民間の診療所が全て「北京語&英語」になった訳ではありません。ただ、公的機関の医師は大変だったと思います。とんでもない「笑い話」もあったでしょう。

ドイツ語由来の「学生俗語」は台湾では完全に「死語」になっているでしょうね。日本でもほとんど使われなくなっているようですし。例如;
ゲルピン、バックシャン、ドッペル・・・・・。

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