大阪府大正区の沖縄2011年06月23日

今日は沖縄慰霊の日である。太平洋戦争末期の沖縄戦から今年で66年、戦没者追悼式で少女が自作の詩を朗読した。とても胸に迫る詩だった。

 先週土曜日、国際交流協会の子供向けのイベントに母娘で参加し、大阪府大正区へでかけた。現地で案内してくれたのは、金城宗和さんである。当日のコースは区役所から昭和山、渡し船で西成区へ渡り、紡績工場跡を左に見ながら歩いて、もう一つの渡し場から大正区へ戻って、平尾の商店街で沖縄そばをいただく、というものだった。

金城さんは、最初に、沖縄が琉球王国という国だったことから説明してくれた。明治政府が琉球王国の首里城に軍隊を派遣して王を追放し、沖縄県設置を宣言した1879年を、沖縄の人は「ひとはなく」と覚えるそうだ。また、沖縄の姓を日本風に変えた経緯や理由、沖縄の家族を養うために女工として稼ぎに出たお母様のこと、就職先を探していたお父様が「朝鮮人、琉球人お断り」の張り紙に象徴される様々な差別を受けたこと、ご自身の少年時代に感じた沖縄人に対する偏見や差別のことなど、様々な体験を分かりやすく話してくださった。

次に昭和山に登った。大阪万博の残土や建築廃材を埋め立てて作った人口の山で、元は貯木場だった(と言っていた気がする)そうだ。大正区のこの辺りは江戸時代からの埋め立て地で、海よりも低いゼロメートル地帯で災害が絶えなかったらしい。今は昭和山も、沖縄の植物デイゴやソテツが植えられるなど、きれいに整備され、当時の面影はない。

山を下りた後は渡し船に乗った。道路と同じ扱いのため渡船は無料というのに驚いた。地元の自転車の人と一緒に乗って川を渡った。渡った先は西成区、明治時代以降、紡績工場や製材所や貯木場などが沢山作られ、働き先を求めて全国各地から多くの人が出稼ぎにやってきた。この辺りはいまも工場が沢山ある。かつては紡績工場が主流で、ここに沖縄の人達が職工や女工として働きに来た。紡績工場では、過酷な労働と寂しさに耐えかねて逃げる人が多かったという話、強制的にやらされたバレーボールの話などを聞いた。当初は出稼ぎに来たつもりだった人々が多く定住して、やがて沖縄人集住地区が形成されたという。

最後に歩いた平尾の商店街には沖縄料理店や沖縄食材店があった。通りには子供エイサー教室のようなものも見た。今や時代が変わり、沖縄は芸能人が沢山いて、青い海が美しいリゾート地…というイメージで、若者には憧れの地の一つとなっている。金城さんのお子さんも沖縄にルーツを持っているのを誇らしそうに語るという。そんなとき、金城さんは嬉しいけれども、少し複雑な思いもあるそうだ。沖縄出身の家庭であることを恥ずかしくて言えなかった、偏見や差別のあった少年時代が脳裏に浮かぶのだろう。

 沖縄が日本本土に復帰したのは1972年、いまも基地問題は解決していないし、相変わらず日本における沖縄の歴史への認識は低いままだ。差別や偏見が無くなりつつあるのは喜ばしいことだが、歴史は語り継ぐべきだろう。その意味でも金城さんのような地道な活動こそ貴重である。私も娘と共に貴重な体験をさせてもらって感謝している。