中国で撮られた初めての映画の物語2――新版『定軍山』2008年07月13日

中国映画100年を記念する切手
 『西洋鏡-映画の夜明け』を調べる過程で、映画・新版『定軍山』を知った。新版『定軍山』は中国映画100周年を記念してつくられた2005年配給の映画で、『西洋鏡』と同じく、中国初の映画の誕生のエピソードを描いた映画である。これは幸いにもインターネットの無料映画館で見ることができた。

 新版『定軍山』は紫禁城で慶親王が西太后に、北京の街角で人気を博している映画の鑑賞を勧めるところから始まる。西太后の映画鑑賞の白羽の矢が立ったのが、任泰豊が経営し劉仲倫がカメラマンを務める泰豊影像館であった。紫禁城で上映会を行ったときに火事を引き起こし両名は「刺客」として捉えられるが、日頃より親交のあった京劇の人気役者・譚鑫培の口添えで釈放になる。任泰豊は試行錯誤の末、撮影機と蓄音機で譚鑫培の京劇を撮ることを思いつき、譚鑫培の協力を得て中国初の映画の撮影の運びになる。この史実を元にした話の中に…逃婚(結婚を拒んで逃げること)中の慶親王の令嬢・雅绮格格とカメラマンの劉のラブストーリーが折り込まれている。どこまでが史実でどこからが虚構なのか、解説はない。脚本を書いた姜薇によれば新版『定軍山』7割が史実に基づき、3割が虚構だそうだ。

 調べた感触としては、歴史に忠実なのは新版『定軍山』の方らしい。この映画の脚本家・姜薇は譚派の京劇役者の話を聞いたのがきっかけで資料を調べはじめ、関係者へのインタビューを重ね、史実に基づいて、この脚本を書いたという。譚孝増によれば、譚家は文革中に家宅捜索にあって貴重な史料のほとんどは持ち去られ散佚してしまったが、偶然残っていた解放前の古い雑誌に「定軍山」の写真が残っていた。ちなみに譚鑫培が『定軍山』で着た服は中国から流出し今は「東京博物館」にあるそうだ。

 映画『西洋鏡』と新版『定軍山』の2篇の映画、『歴史』8上冊の補助教材として清末の風俗、歴史を理解する為に使われている。

参考:免費在線電影 「定軍山」http://www.77y8.com/play/6211.html

トトロの花かご2008年07月15日

トトロの花かご
 もうすぐ娘のピアノの発表会。「となりのトトロ」を弾きます。ピアノを始めてから10ヶ月、初めての発表会です。当日はぬいぐるみのトトロを舞台において、弾くことになっています。
 それで…記念に何かつくりたくて作ったのがこの「トトロの花かご」トトロも粘土です。娘がトトロの胸の部分の模様を担当しました。私から娘へのプレゼント。思い出に残る素敵な発表会になりますように(^^)

蒋介石が自ら審査・修正した教科書2008年07月16日

蒋介石の親筆
 台湾の本を見ていて興味深い教科書の写真を見つけた。テキストの一部が修正、加筆されている、1960年代の台湾・社会科教科書の写真である。これは蒋介石が自ら教科書を審査・修正したものである。

 解説によれば…民国56年(1967年)6月27日、総統 蒋公は国民への訓示で「我々は耕者有田政策(土地改革)推進の成功に続き、九年義務教育計画推進をより一層進めなくてはならない」と述べ、九年義務教育の実施目標と内容にも詳しく指示を出し、更に民国57年(1968年)秋、自ら小学教科書の審査にのぞんだ。これは、国立編訳館編纂の小学「社会課本」(1967年8月修訂版)で、審査は国立編訳館で行われた…とある。

 蒋介石が審査した教科書は第一冊(小学三年生第一学期)の第十三課「国父孫中山先生」と第十五課「国旗和国歌」(国旗と国歌)である。台湾の1960年代における教科書の位置、学校教育を考えるとき、非常に参考になるエピソード&証拠であるといえるだろう。

参考:司琦『児童読物研究』(台湾商務印書館、1993)

「歴史上の英雄たち」――『講談社中日辞典』附録2008年07月17日

 1998年に発行された『講談社中日辞典』で附録というかコラム「歴史上の英雄たち」を担当させていただいたことがある。救国の英雄や国のリーダー、そして戦闘で犠牲になった烈士、新中国の模範英雄などを紹介したものである。この辞書、第二版が2002年に出て以来6年ぶりに、このたび大幅な改訂をする、との連絡があった。その際、新語の大幅増補や類義語、成語・慣用語の拡充などが図られるようだ。

 改訂は喜ばしいことながら…残念ながら「歴史上の英雄たち」は内容を縮小するようにとのことだった。確かに最近の教科書からは以前のような英雄の逸話は少なくなったし、特に現代の英雄の存在感は以前と比べると格段に小さくなっているから、時代には合っているかも知れない。量的には減らしても、時代にあった新しい情報、例えば有人ロケットの成功で誕生した宇宙英雄あたりを載せて、内容的にはバージョンアップできたら、と思っている。

 自分が関わったから言うわけではなく…相原茂先生の本や辞書は先生独特のセンスもあって工夫が沢山ある。さりげなく載っている雑学的知識も他の辞典とはひと味違って楽しく、なんというか「やるな、おぬし」と思わず言いたくなるちょっと「内行」(玄人)なところが、とっても魅力的で大好きなので、今回もどんな改訂になるのか、ファンとしても楽しみにしている。

モッフル・もっふる――誕生秘話と作り方2008年07月18日

今日の朝食-チーズとチョコのモッフル
 いま、ちまたで静かに流行している「モッフル」、友達のブログで見つけて作り方を聞いて作ってみたら、なかなか美味しい。バリエーションを探してレシピを調べていたら、モッフル誕生秘話を見つけた。ある日、三栄コーポレーションのスタッフが、ビタントニオのワッフルメーカーを実演販売していたところ、お客さんの一人が「餅も焼ければ幅が広がるんだけど」と言ったのがそもそもの始まりだそうだ。素晴らしいのは、このスタッフがお客さんのその言葉を実行したことである。餅をワッフルメーカーに入れて試しに焼いてみると、はじめの内は餅が厚くて蓋が閉まらなかったが、すぐに餅が軟らかくなり、閉めて暫く焼くと、新食感の焼き餅ができあがった。「お客さんのさりげない一言+それを試そうと思える好奇心を持ち合わせたスタッフ=モッフル誕生」というわけである。三栄コーポレーションさんはいいスタッフを持っていて幸せですね~。

 さて、モッフルの作り方は本当に簡単である。ホットサンドメーカーに半分にスライスしたお餅をのせて5分焼くだけ、という手軽さ。加えてふわふわ・さくさくの食感が素敵で、我が家の定番メニューになった。急いでいるときの朝ご飯としても手軽だし、おやつにもなる。
 ちなみに今日の朝食は、二種類のモッフルとホットケーキ、ヨーグルトと果物。モッフルは…四分の一にスライスした餅にチーズを挟んだモッフルはチーズが少し焼けて香ばしく、チョコレートシロップにローストしたアーモンドスライスを載せたのも美味しかった。調べたら他にもアイスクリームや明太子など、アレンジし放題!なので、徐々に試してみようと思っている。

参考:男の料理 「モッフルはこうして誕生した!」http://allabout.co.jp/gourmet/cookingmen/closeup/CU20071111A/index2.htm

小学校・初めての夏休み――最近の通知表&夏休み宿題事情2008年07月19日

 娘が小学生になって初めての夏休み。昨日は「のびゆく こども」と宿題、課題を持って帰ってきた。「のびゆく ごども」というのは通知表或いは通信簿のことである。一年生の「のびゆく こども」はちょっと独特で、一学期は「がくしゅうとせいかつのねらい」と題し、以下の8項目があり、「よろしい」と「がんばりましょう」の二段階で評価されている。

1,ともだちとなかよくあそぶ
2,したことやおもったことなどをはなす
3,せんせいやともだちのはなしをきく
4,たのしんでうたったり、えをかいたり、ものをつくったりする
5,ひらがなをよんだりかいたりする
6,10までのかずがわかる
7,つかったどうぐのあとしまつをする
8,かかりやとうばんのしごとをする

なんとも微笑ましい内容ではないか。他に、先生のコメントを書く欄もある。たった六行しかないので、各学期2行ずつというところ。娘の普段の感想をたった二行で表現するのは担任の先生も難しかっただろうと思う。
 夏休みの宿題の方は…先輩ママさんたちに聞いていたよりずっと多かった。絵日記二枚と国語のプリント15枚、算数のプリント5枚(10までの足し算・引き算)、読書の木(読んだ本の冊数のリンゴを色塗りし、書名を記録する)これを多いと思うか少ないと思うかは個人差があるだろう。それにしても、宿題の分量を決めるのも、用意するのも、先生方の間でいろいろ相談して決めているのだろうから、本当に小学校の先生は大変だ。
 さあ、これからながーい夏休み。楽しい夏休みになりますように。

紅花染め&藍の葉叩き染め体験2008年07月22日

今日の作品
 母子でサマークラスに参加した。メニューは染色。紅花でシルクのスカーフを染めるのと…藍の葉でオーガニックコットンのTシャツと普通の綿のハンカチを染める体験である。先生が山形から取り寄せた紅花…生花と、そして先生のご友人がご自宅で栽培されている藍の葉っぱを朝摘みした、両方とも天然の染料を使う、とても贅沢な染め物体験である。
 先生によれば、紅花は二色の色素があり、一つは水に溶け、もう一つはアルカリに融けるのだという。まずは、その黄色い色素でシルクのスカーフを染める。棉はタンパク処理をしなければ染まらない。黄色の色素を出し切った後はアルカリ溶液(炭酸カルシウム)に入れ、赤い色素を引き出す。こちらは、シルクはもちろん、棉も染まる。
 紅花、初めて本物を身近で見て触った。紅花畑はオレンジ色で美しいが、そばで見る紅花はアザミかイバラのように全身トゲトゲだ。危ないので、大人がハサミを手にトゲをよけながら花の部分を切り取るのを担当した。注意していてもトゲが指に刺さって痛い。一部花と共に入ってしまったトゲ付きの萼は、子ども達がそっと取り除いてくれた。それを不織布の袋に入れ、子ども達がすりこぎで黄色い色素を水に揉み出した。黄色の色素が無くなるまでよくもみだす。手で揉み出そうとしたら取り除きそびれたトゲが手に刺さったので、専らすりこぎが活躍。その後、媒染済みのシルクを黄色い染液に入れて染めた。
 次に黄色を出し切った花びらを、アルカリ溶液の中に入れて揉み出し、赤の色素を取り出す。水につけておいたシルクを軽く絞り、広げて赤い染液につけて染めた。
 植物染めはとても不思議。最初の黄染めでは綺麗な黄色に染まったが、私は薄い黄色、娘のは少しオレンジの入った黄色。次の紅染めはアルカリ溶液が危険なので大人のみが挑戦したのだが、こちらも、私のは華やかなオレンジ色、他の方のはピンク色だったり、私のとも違うオレンジ色だったり…ちなみに綿のハンカチを試したが、こちらは綺麗な薄いピンクに染まった。
 更に…藍の葉っぱの叩き染めにも挑戦した。葉っぱを布と布の間に挟んで、瓶の後ろで細かく叩く。なかなか根気が要る仕事だが、子ども達もがんばっていた。私がつくったのは葉っぱを組み合わせたチョウチョ柄他。子供以上に真剣に取り組んで楽しませて戴いた。

中国・清末の成熟した国語教科書『蒙学読本全書』2008年07月23日

中国・清末の国語教科書『蒙学読本全書』第一課
 資料集をめくっていたら、清末の面白い教科書にまた出会えた。『蒙学読本全書』(江蘇 無錫三等公学堂、光緒28年・1902年初版/光緒32年・1906年16版)、全7編である。解説によれば、全7編中、第1編から第5編までが尋常小学堂程度、第6、7編が高等小学堂程度であるらしい。
 この『蒙学読本全書』の第1編のテキストを見て、今まで見てきた教科書とはちょっと違う感じをもった。つまり…初めから難しい文字や文章を学ばせたり、また、簡単な字だけを羅列したり、中英対照だったり、といったこの時期特有の匂いが少ないのである。

 例えば、第一課は「我生大清国。我為大清民。」(私は大清国に生まれた。私は大清の民である。)。当時の中国、清国の版図が挿絵として入り、分かりやすくなっている。第二課は「我拝孔子像。我従孔子教。」(私は孔子像を拝する。私は孔子の教えに従う。)で孔子像がイラストとして挿入されている。この際、いずれも、初学の学生に合わせ、使用している文字も少なく、従って学ぶ文字も少なく、文章も分かりやすく工夫されている。

 また、日常生活を教材に簡単な言葉を使って、道徳教育が行われているのも特徴の一つである。第三課は「父母生我。父母養我。」(父母が私を生んだ。父母が私を育てた。)、第四課は「哥哥比我大。弟弟比我小。」(兄は私よりも大きい。弟は私よりも小さい。)と、長幼の序を教え、第七課は「先生教我書。先生教我字。先生坐於上。学生坐於下。」(先生は私に勉強を教える。先生は私に字を教える。先生は上に座る。学生は下に座る)のように、師弟のあり方を教えることも怠らない。

 こうした儒教的道徳教育の内容は民国の教科書に共通しているようである。また、「一編約旨」によれば、日本の国語教科書は「白話」(口語)を採用していることを挙げつつも、後に作文をする際に話し言葉と文章語が混ざって混乱することを避ける為敢えて「文言」を採用したと言及されている。このあたりからも、試行錯誤の途上ではありながらも、中国独自の教科書編集のあり方が、この時期有る程度固まってきたことが感じられるのである。

参考:『小学教科書発展史』(国立編訳館、2005)

全国統一教科書の編纂出版を担う人民教育出版社の創設2008年07月24日

 中華人民共和国成立から現在に至るまで、教科書は大衆教育と政治教育の観点から、常に政権の関心事である。政府は当初より教科書が国民に与える影響の大きさを認識しており、国営にすることで、党の意向に合った内容と低コストの発行を実現出来るとした。そこで、大衆教育を目指す、社会主義体制に合った教科書作りのために、1950年9月に開かれた第一回全国出版会議で全国統一教科書の編集・出版を担う機関として創設されることになったのが、人民教育出版社である。

 人民教育出版社の「大事記」によれば、同社は1950年12月1日に正式に設立された。初代社長は葉聖陶(=葉紹鈞)である。(出版総署の副署長も兼任していた。)そしてこの時から、華北、華東地区の1951年春季小中学校教材の編集にとりかかった。

 以降、1986年に検定制に移行するまで、建国直後と文化大革命の混乱期を除けば、基本的には人民教育出版社が編纂出版する全国統一教科書が使われた。

参考:人民教育出版社HP 大事記(1950) http://www.pep.com.cn/rjjt/rjgl/rjls/dsj/200703/t20070302_279418.htm

和嘉公主府から京師大学堂、そして人民教育出版社へ2008年07月25日

 中国で全国統一教科書の編纂出版を行ってきた(1986年検定制に移行)人民教育出版社は、2005年8月まで景山公園の東側、景山45号にあった。資料収集で何度か通ったこともあるココに、明代は「馬神廟」、そして清代は乾隆帝の四女・和嘉公主、いわば皇女の結婚後の邸宅・和嘉公主府、俗称:四公主府があったことを最近知った。更にそれから100年後には中国初の国立大学・京師大学堂(北京大学の前身)が建設され、そのまま辛亥革命後の北京大学に引き継がれたことも。1918年に北京大学の本部が沙灘紅楼へ移転したときに文系学科も移転したが、理系学科(理学院)はそのまま残った。その後中華人民共和国建国後の1951年に北京大学は現在の所在地・燕園に移転、跡地が人民教育出版社になったという。その人民教育出版社は、3年前の2005年9月、沙灘後街55号(景山公園の東側、元・景山45号)から海淀区中関村南大街17号A座に引っ越した。

 当地には今も僅かながら、清代の遺構「公主大殿」(京師大学堂時代は講堂として使われていた)、北京大学時代の「数学系小楼」が残っているという。

 ちなみに和嘉公主府の主人たる和嘉公主と一歳年下の夫・福隆安(1746-1784)は夫婦仲も良く、子宝にも恵まれたが、和嘉公主は23歳、福隆安は39歳でこの世を去った。福隆安は兵部尚書、軍機大臣を歴任した人物であり、大学士で一等忠勇公の傅恒(戦功もさることながら『四庫全書』に大きな貢献をした人物)の次男である。また傅恒は孝賢純皇后の実弟であるから、福隆安は孝賢純皇后の甥にあたることになる。和嘉公主府は、福隆安の一族が一等忠勇公府へ移ったとき(すでに和嘉公主はこの世の人ではなかった)、内務府の管轄下に戻り、100年後に京師大学堂として歴史の表舞台に登場することになったのである。

参考:人民教育出版社HP 
http://www.pep.com.cn/rjjt/rjgl/rjls/rjzl/200703/t20070302_279370.htm
北京胡同
http://www.hottoo.com/Article/wf/200712/10056.html