中国・清末の歴史教科書と日本2008年07月01日

 今回紹介したいのは、『普通新歴史』(上海・商務印書館、光緒32年・1906年)である。
 この本の凡例によれば、『普通新歴史』は日本の『東洋歴史』(中等学科教授法研究会、明治13年)を青写真に執筆されたとある。幸いにも『東洋歴史』は国会図書館の近代デジタルライブラリーで公開されているので、両書の目次を比較したところ、確かに『普通新歴史』は『東洋歴史』の構成をほぼなぞっていることが分かった。
 唯一、第十章の第四節「近年朝政」は『普通新歴史』のオリジナルで、「宮廷前事」として同治帝の急逝と後継選び及び西太后の15年の垂簾聴政の後見、戊戌変法、その後皇帝が病のため(実際は戊戌の政変により光緒帝を幽閉)西太后による垂簾聴政が行われていることが簡単に記述され、当時の政治状況を反映している。
 しかしながら、その部分を除いても、『普通新歴史』は所謂翻訳教科書ではない。『東洋歴史』はあくまでも「青写真」なのである。だから、よく見てみると、東洋史の中国以外の部分は省かれて、中国的な視点を盛り込んだ中国史に再編集されている。中でも『普通新歴史』の発行は清朝末期であるから、清朝部分の記述は構成も内容も『東洋歴史』とは異なる。『東洋歴史』では「第八章 清朝時代」として一つにまとめられているが、『普通新歴史』ではこれを「第八章 国初」「第九章 嘉道咸同間」「第十章 近年時事」の三章に分けている。わざわざ別に章をたてて述べようとした内容は、嘉慶帝在位以降におきた各地の反乱や外国の干渉と戦争についてである。
 気になる日本に関する言及は…第十章第三節「朝日之役」にある。日本による台湾出兵、江華島事件、日清戦争、三国干渉についての経緯が、清朝の視点で述べられている。この、台湾出兵から三国干渉までの経緯は、『東洋歴史』では第八章第五節「清の退守下」にある「日・清の衝突」(164~169頁)、『普通新歴史』では第十章第三節「朝日之役」(60~64頁)で述べられている。冒頭の日本の台湾出兵の部分について内容を比べてみよう。

『東洋歴史』第八章 清朝時代、第五節 清の退守下  より
日・清の衝突
 輓近日・清の衝突は一は台湾事件に関し、一は朝鮮事件に関して起これり。台湾は康煕帝の時より既に清に属したりしが、其東岸の住民は所謂生蕃にして、未だ清の治に浴せず、性猛悪にして往々害を日本人に加へしかば、日本政府は使を北京に派して之を詰問せしめたり。然るに清国政府は生蕃を称して化外の民とし、巧に其交渉を避けしかば、日本政府は遂に意を決して兵を発し、西郷従道を将として悉く生蕃の地を討平せしめたり。
然るに清国政府は台湾を失はんことを恐れ、急に前言を食みて異議を日本に通じ、速に其兵を撤せんことを要求せり。然れども日本政府は其前言に違へるを責めて敢て兵を撤せず、大久保利通を清廷に遣して蕃地の所属を論難せしめしかば、清廷遂に之に屈して償金50万両を出せり。時に西紀1875年にして、我明治八年に当れり。

『普通新歴史』第十章第三節 朝日之役 より(訳は筆者)
日侵台湾
 日本は本朝と国交がなく、同治十年、条約を結び、同治11年日本の琉球藩人が航海中風に流されて台湾に漂着したところを生蕃に害され、翌年も日本人が其の害に遭い、(これを)日本政府は使いを寄越して問うてきた。朝廷は台湾東部の生蕃は化外の民であると答えた。13年日本は西郷従道を遣わし、兵を率いて、蕃民を殺戮した。朝廷は兵艦を台湾へ遣わし、日本に撤兵を命じた。日本は大久保利通を北京に派遣し、恭親王と諸大臣は話し合ったが久しく決せず、イギリス公使の調停により朝廷は償金50万両を出して事を収めた。    

 こういう文を訳すのはちょっと苦手なので…あまり良い訳でなくてごめんなさい。それはともかく…両者を比べると、例えば日本軍が先住民(タイヤル族)を殺害したことについて、日本の教科書は「討平」、中国の教科書は「殺戮」とある。前者は日本の視点、後者は清朝の視点から書かれていることは明らかである。
 日本と中国の歴史教科書の様々な問題、このあたりが起点かもしれない。

 
参考:
国会図書館近代デジタルライブラリーで『東洋歴史』(中等学科教授法研究会、明治13年)を見ることが出来ます。URL: http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40015007&VOL_NUM=00001&KOMA=1&ITYPE=0
台湾出兵とは?関心がある方は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E5%87%BA%E5%85%B5 (フリー百科事典『ウィキペディア)を参照してください。

ワッフル・わっふる2008年07月02日

 今日は娘のお友達の家に遊びに行くので、張り切ってワッフルを作ってみました。ちょうどパールシュガーをお願いしたのが手に入ったところだったので。いつもは卵白を泡立ててつくっているのですが、今日はパールシュガーを入れるレシピをネットで探して、ホームベーカリーを利用してつくりました。ところが…シンプルなのはよかったのですが、抹茶の方はドライイーストを入れるのを忘れてしまい…クッキーみたいになっています。それはそれで香ばしくて美味しいけど。でもふわふわの抹茶ワッフル、また挑戦しますっ!

清朝の学部・編訳図書局がつくった『初等小学国文教科書』2008年07月03日

 国家が教科書に関わるようになったのは、1903年(光緒29年)の奏定学堂章程(中国での通称は癸卯学制)公布以降であり、中国初の教科書検定は清朝政府が光緒31年・1905年11月設立した「学部」に1906年「編訳図書局」が設置されたことに始まる。これが中国で最初の教科書検定機関になった。この編訳図書局は教科書を検定するばかりでなく、教科書の編纂も行っていたようだ。資料集によれば、学部・編訳図書局は、多くの教科書を編集し、当時は商務印書館などの出版社が販売していたが、現在ではごく僅かしか残っていないという。

 その貴重な学部・編訳図書局がつくった教科書を資料集で見つけた。『初等小学国文教科書』(宣統2年・1910年12月、編集・印刷・発行は学部編訳図書局)である。「凡例」には、この教科書が全8冊であること、初等小学4年間(毎年二学期あり毎学期一冊を教授するため)で使用する旨、記されている。ちなみに値段は「定価銀元一角」である。
資料集に採られているのは第一冊と第五冊の冒頭の数課のみである。私が特に興味を持ったのは第五冊の方で、清朝ならではの教材が載っている。

 第一課は「長白山」である。地図も載っている。長白山は清朝にとって特別の意味がある。課文にも「この山は我が朝発祥の地である。」とある。清朝を打ち立てた愛新覚羅氏は建州女真族の一部族であり、元来は吉林省が根拠地で、北京を首都にする前は盛京(現在の瀋陽)を首都としていた。

 第二課は「振興武備」。清朝開国時の武功を誇る内容である。「我が朝開国の初めは、八旗の精鋭部隊が天下に雄を唱えた。太祖、太宗は常に自ら隊列の中にあって、方略を指示し、故に戦いに勝利し、攻略した。武功の素晴らしさは、過去を遙かに超えたものだった。今は皇帝陛下が陸海軍大元帥を親任しており、親政前は暫時監国摂政王が代理を務めている。その後、国威は日ごとに増し、国勢は日ごとに強くなっていった。開国の鴻規があってこそ、今日があるのである。」というようなことが書いてある。(と思う^^;)「太祖」はヌルハチ、「太宗」はホンタイジ、「監国摂政王」は醇親王載灃=清朝第12代で最後の皇帝宣統帝とその弟・溥傑の実父のこと。「鴻規」は「猶言根本大法」の意。祖宗の法、祖先が築いた基礎をさしているのだろう。

 ところで、この時期の教科書は、全体的に「抬頭」が見られる。「抬頭」というのは、敬意を表現する書式のことで、改行の上、皇太后とか祖宗なら三文字持ち上げ、皇帝や皇帝に関わる言葉などの場合、二文字持ち上げて書く。皇帝の付属物(京師、国家など)は一文字持ち上げる。

 以前に紹介した教科書には、例えば「皇上」の前に二文字の空白をつくってはいても改行はしていないものもあったが、この教科書はさすがに学部・編訳図書局の編集によるものだけあって、抬頭の書式がしっかり守られて、「太祖」「太宗」は三文字、「皇上」は二文字、「朝」(清朝の意)「監国摂政王」は一文字持ち上げられている。

 学部・編訳図書局の教科書が残らなかった理由、考えてみれば内容も書式もこれほどに清朝時代に対応しているからこそ、中華民国になったときに処分されてしまったのだろう。


参考:『小学教科書発展史』(国立編訳館、2005)

トマトって奥深い…2008年07月05日

 我が家の家庭菜園(!?)のプチトマトに実がなった。ビー玉くらいの大きさの緑色の実が20個はある。植物を枯らすのが得意な私としては快挙である。どうかこのまま無事に大きくなってね~、と日々眺めているのだが…
 トマトの栽培法を調べていて、つい別のことが気になって寄り道…トマト、実に奥深い。
 トマトの呼び方もいろいろあることを今更ながら知った。日本では「トマト」の他に「赤茄子(あかなす)」「小金瓜(こがねうり)」「蕃茄(ばんか)」ともいうらしい。
 そういえば、中国語では「西紅柿」「蕃茄」「洋柿子」はよく聞く言い方だし、俗称は山ほど…「六月柿」「狼桃」「番李子」「金橘」「洋海椒」「毛臘果」「西番柿「番柿」「火柿子」「酸茄果」「洋茄」等々…。以前「狼桃」のジュースというとっても美味しい「トマトジュース」のを飲んだことがあります。こちらは「狼桃」という病気も寄せ付けないとっても強い野生派トマトの名前のようだが…そのあたりから命名したものかも?
 歴史を繙けば(付け焼き刃の知識でごめんなさい~)トマトといえば、メキシコからコルテスが1519年ヨーロッパへ持ち帰ったのが有名だが…中国ではその200年も前に本にその存在が記されている。元朝の王楨は『農書』(完成は1313年)で「又一種白花青色稍匾﹐一種白而匾者﹐皆謂之番茄﹐甘脆不澀﹐生熟可食。」と書いているそうだ。「甘くて歯触りがよく、渋くなく、生でも煮ても食べられる」とは、中国では早くから「蕃茄」として食べ物として認識され食されていたわけだ。一方、ヨーロッパでは当初、トマトは「ベラドンナ」と似ていることから毒があると思われて専ら観賞用であり、食用に供されるようになったのは18世紀になってからだったという。
 王楨の『農書』が1313年、スペイン人のコルテスがメキシコから持ち帰ったのが1519年、ちなみに日本には江戸時代の寛文年間に長崎に伝わったものの、真っ赤な色が敬遠されて、「唐柿」と呼ばれ長らく観賞用であった。日本で食用に利用されるようになるのは明治以降、広く食されるようになったのは昭和に入ってからだそうだ。

南極の氷の音を聞く2008年07月07日

南極の氷です!
 この週末、母子で南極の氷の音を聞いてきた。ビーカーの中の南極の氷…耳をそばだてると、融けるときの音が聞こえる。パチパチパチッと気泡のはじける音。南極の氷は降り積もった雪に押しつぶされてできたもの。数万年も前の空気が閉じこめられているという。

 この氷、調べると数万年前~数十万年前の地球の気象変動が詳細に分かるらしい。氷のサンプル=氷床コアを調べる研究では日本も先端をいっている国の一つ。例えば、1990年-1996年にかけて南極ドームふじで掘削された深さ2503メートルの氷床コア(およびボストーク氷床コア)の研究では、10万年周期の氷期-間氷期サイクルが、北半球高緯度の夏期日射量の変動をきっかけとして起きていたことを、東北大学、国立極研究所、及び米、仏、英の共同研究チームがつきとめている。

 2006年に南極ドームふじで採取に成功した深さ3025.52メートルの氷床コア、研究成果がでるのを密かに楽しみにしている。

参考:
南極観測のホームページ http://www.nipr.ac.jp/jare/ 南極の不思議がたくさんつまっているページ。とってもおすすめです。

舞子の思い出2008年07月08日

 粘土でつくったお花、昨日完成しました。小さいけれど花の上で飛び跳ねている白黒の元気な猫は舞子のつもりです。舞子は私が拾って家族みんなで可愛がって育てた子。妹の家で舞子が天国に旅立って、もうすぐ四年になります。あと一週間、7月15日が舞子(猫)の四回忌です。

 舞子は家の子になったとき、栄養失調状態でした。大きくなっても小柄な方で、風邪もよくひいていたし、傷などは治りにくい体質でした。元気は人一倍(猫一倍?)だったので、子供の頃の栄養失調等が原因で、体質が弱い方なのだと思いこんでいました。

 ある日、家のおじさん猫オリバーが白血病であることが判明し、舞子を白血病の予防接種に連れて行って、血液検査をしました。そして、原因が判明しました。舞子は猫エイズだったのです。体に免疫不全の大病を抱えていたのです。せめてもの救いになったのは、猫エイズはほとんど発症しないし、人にもうつらない、と教えて貰ったことでした。いずれにせよ、猫エイズの子は白血病の予防接種ができないため、そのまま連れて帰りました。

 舞子の病気に私は大変驚き、衝撃を受けました。お医者さんは、恐らく生まれつきだろう、と言いました。そのあたりの真実は分かりません。舞子が実の親からもらったものかもしれないし、他の原因で移った可能性もあります。この小さな体に住み着いた恐ろしい病気を憎みました。

 年老いて、病気になったとき、舞子の体は思うように回復しませんでした。歯が悪くなり、食べることがままならなくなり、みるみる衰弱し、痩せていったのです。2004年6月、レントゲンを撮ったところ、肝臓の横に腫瘍ができていることが分かりました。お医者さんにも猫エイズがあるので手術しても回復するかどうか微妙だといわれました。母は私に言いました。「手術しても舞子には辛いだけだから、苦しまないようにして、そしていっぱい甘えさせてあげましょう」一週間に一度ほど、両親が舞子を病院へ連れて行ってくれました。それは痛む歯を抜いたり、レーザーや薬で痛みを抑えたり、という治療で、体を根本的に治す治療ではありませんでしたが、病院へ行くと、舞子の体調は少し良くなりました。今振り返って良かったと思えるのは、舞子は猫だったので、一生この病気のことを怖がることもなく、それまでと同じように、ありのままに生きることが出来たことです。

 残された時間、それは思ったよりも短い時間になりました。舞子の人生の最後を家族の愛情で包んだのは、私ではなくて、舞子のために旧い家をリフォームして移り住んでくれた妹一家でした。

中国・清末、英文併記の字書『絵図増註華英五千字文』2008年07月09日

『絵図増註華英五千字文』1頁
 いま日本はもとより中国でも子供の英語教育が盛んである。時は遡って百年前、清末の中国人も中国語と英語を子供に同時に学ばせたい、と考えたようだ。光緒32年・1906年発行の『絵図増註華英五千字文』は清末にもそんなニーズがあったことを思わせる字書である。

 一頁目は天、星、日、月、風、霜、雨、雪、霧、露、雲、霞……計24文字。天空、気象現象など、関連のある字ごとに、四文字ずつ区切られ、右側に英語、真ん中に漢字、左側に文字の音、意味、四声(平声・上声・去声・入声)が並ぶ。例えば一番目の「天」なら「sky/天/音腆、天地也、平声」という具合である。更にページの下方には「天」の字に合わせ「地球」のイラストも載っている。こんな調子で五千文字が収録されているわけである。

 ちなみにこの『絵図増註華英五千字文』は私塾で使われていた教材を、「秀水居主人」が声調の間違いを正し、英文対照とし、更に文字の理解を助ける為にイラストを入れて、上梓したものであるという。一頁目に「四明 補拙居士」編集、「四明 姜岳孝夔」注釈とあるが、奥付がなく、発行者等は不明である。

 ところで『絵図増註華英五千字文』も元本も初学の教科書としての役割を果たしていた。序文には「学び初めて一、二年ほどですべて暗唱できるようになり、文字の意味もスラスラといえるようになる」とある。かつての中国における文字学習のスピードは現代を遙かに超えている。
 
参考:『小学教科書発展史』国立編訳館主編
四声=中国音韻学では平声(ひょうしょう)・上声(じょうしょう)・去声(きょしょう)・入声(にっしょう)といいます。

星空シミュレータで思い出の流星群を再現-『超かんたん星空シミュレータで遊ぼう』2008年07月10日

 最近、プラネタリウムに月一回くらいのペースで足を運んでいる。星座早見盤もあるが…大都市の夜空では見えない星ばかり…そこで日常的に星空に親しむのに「いいもの」を探していたところ、科学館の売店で『超かんたん星空シミュレータで遊ぼう』(アスキームック、CD-ROM付、2005)を見つけた。

 簡易・星空シミュレータである。簡易、とはいっても結構いろいろ出来る。今日の星空そして日本・世界各地の星空を200年分再現できるし、日蝕や月食もアニメーションで見ることが出来る。月や惑星、星雲の映像もなかなかリアルである。

 プラネタリウムには放映内容がかわるたびに娘と出かけて、季節の星座の話や宇宙の最新事情を聞くのを楽しみにしている。でも、せっかく教えて貰った星座や星雲の知識も、月一回行くだけでは忘れてしまう。

 その点この星空シミュレータはありがたい。いつでもパソコンで星の位置を確認できるし、星座もわかる。本格的な星空シミュレータにはもちろん及ばないのだろうが、それでも普通の星好き・初心者には十分な内容だ。一番面白かったのは、以前友人と一緒に夜中に外で寝ころんで見た流星群を再現したり、見逃した皆既日食を再現したりできたこと。もちろん、本物を見ることが出来ればそれが一番素晴らしい。本物をみるときに必要な知識、星空への興味を養うのにぴったりな本&CD-ROMだと思う。

民国初期、革命を啓蒙する教科書『新漢三字経』2008年07月11日

『新漢三字経』
 中華民国建国直後に発行された『新漢三字経』を見ている。「三字経」といえば「人之初、性本善…」で始まる初学の教科書であるが、『新漢三字経』は三字経を真似て語呂よく創作された、いわば革命啓蒙書、革命宣伝書ともいうべき啓蒙教科書である。

 最初の12句を見ると「清之初 唔係善 由至近 殺到遠 苟不服 殺左先 服之道 要長辮 想滿奴 唔過處 殺漢人 血流杵」(清は初め暴虐でどこまでも遠征して戦をしかけた。降伏しなければ殺し、降伏したことを示す為には弁髪にして満人の奴隷に甘んじるしかなかった。過失が無くても漢人を殺し、血を流した)である。つまり、清朝開国の頃、清軍が中原で暴虐の限りを尽くしたことを子供に教える内容に始まるのである。

 歴史上の著名人の名前が多く登場するのも特徴の一つである。例えば摂政王ドルゴンに降って平西王に封ぜられ清に尽力し後に三藩の乱を起こした「呉三桂」は「是漢奸」(漢奸である)と罵られ、一方摂政王ドルゴンに揚州を囲まれ投降を拒んで清軍入城後自刎した「史可法」は「称忠烈」(忠誠を貫いた烈士)と讃えられ(ただし、揚州は降参しなかったために清軍により大虐殺が行われた。80万人が虐殺されたとも。これを「揚州十日」とよぶ。)、台湾で復明を唱えた「鄭成功」は「真有志 守台湾」(志をもって台湾を守った)、と讃えられている。また、清末に太平天国を鎮圧した曽国藩は「唔知醜」(恥知らず)と罵られている。
 辛亥革命の立役者・孫文については…揚州十日などの清軍の残虐行為を取り上げた後に「孫逸仙 想報仇 行革命 滅満州 数十年 不変志 以三民 為主義」(孫文は仇を討つ為に革命を起こし、満州を滅ぼした。数十年、志を変えず、三民主義を唱えた)として褒め称えられている。

 即ち、明朝の復興を唱えた者や忠義を貫いた者、清に刃向かう者、革命に従事した者は讃えられ、清朝側にいる者は非難され罵られているのである。明らかに、漢民族のナショナリズム的視点で、清朝を徹底的に否定する内容である。

 ちなみにこの教科書、『新漢三字経』『新漢四字経』『新漢五字経』の三冊セット中の一冊、資料集の解説によれば、海外の広東、華僑の子弟を対象にしたものであるらしい。本文にも広東語がずいぶん入っている。この教科書を所蔵していたのは、かつて孫文の秘書をつとめた朱伯元の子弟だそうだ。


参考:『小学教科書発展史』(国立編訳館、2005)

中国で撮られた初めての映画の物語――『西洋鏡-映画の夜明け』2008年07月12日

 中国・北京の泰豊照像館(写真館)で中国人による中国初の映画が撮られたのは1905年のこと。監督は任泰豊、撮影は劉仲倫、出演は当時の京劇の人気役者・譚鑫培、映画になったのは譚の十八番「定軍山」(三国志演義から)である。この中国初の映画『定軍山』誕生を素材に1999年に中国で撮られた映画『西洋鏡-映画の夜明け』をDVDで見た。

 『西洋鏡-映画の夜明け』(Shadow Magic、1999)は、いかにも当時の映像らしくつくった街の人々や万里の長城のフィルムを各所に折り込んで、20世紀初頭の中国・北京の様子と西洋文化に触れた中国人の反応をリアルに再現している。

 ストーリーは、泰豊照像館(写真館)にカメラマンとして勤める若者・劉が、イギリス人のレイモンドが持ち込んだ活動写真、つまり映画に興味を持ち、レイモンドの映画館に協力しながら、投影と撮影の技術を習得し、様々なトラブルを乗り越えて、ついに勤め先のボスの理解を得て、中国で初めての映画を撮るまでを描いている。そのなかで、寡婦との結婚を親や雇い主に押しつけられそうになったり、京劇関係者に商売敵と見られたり、京劇の人気役者・譚の娘に恋をしたり、写真館をくびになったり、西太后の70歳の誕辰の宴によばれて火事を起こしレイモンドが国外追放になったり…と次から次へと展開してハラハラしたり、ドキドキしたり…夢を持つ青年の話だけになかなか楽しく、後味もとってもさわやかだ。

 ただ…『西洋鏡』のプロローグの部分で史実に基づいているようにナレーションが入り、映画の紹介にも「史実に基づいている」とあるにもかかわらず、調べてみると、史実に基づく部分が意外に少ないのが気になる。映画なので、普通であれば史実に基づいているかどうかはそれほど問題にならないだろうが、素材が素材なので、史実をどの程度取り入れているかは重要である。また、どこまでが史実で、どこからが虚構なのか、最後に簡単な解説でも入れて明示して欲しかった。20世紀初頭の北京を彷彿とさせる再現映像はとても好くできており、物語も楽しくさわやかで映画そのものは大好きなだけに、ちょっと残念である。