中国・日中戦争期、戦時児童保育会の解散と子供達2009年09月16日

 戦時児童保育会は抗日戦争の終結によって、その使命を終えた。気になるのは子供達のことである。

 1945年9月3日、104回目の常務理事会が招集され、本部を南京に移すこと、四川省重慶市には事務所を設置して任務完了まで分会の監督をすること、が決められた。

 その後半年間をかけて、様々な「復員」作業が行われた。重要な作業は、人を派遣して子供達を家に送らせることだったが、簡単ではなかった。一連の調査によれば、家族や親戚などの引き取り手があったのは全体の60%である。後の40%は、帰る家も頼る人もいない身寄りのない子供達であった。最初から身よりのないままで収容された子供もいたが、預けられている間に家族を失った子供も相当数いたはずだ。

 戦時児童保育会は、養父母を募るなど、子供達を一般家庭で養育する努力もしているが、1946年時点で人数にして12640名の身寄りのない子供達が、全国26箇所の「育幼院」「育嬰院」「託児所」で収容されることとなり、そこが彼らの生活の場となった。

 1946年3月、理事長・宋美齢は戦時児童保育会の8周年の記念会において、「今後六ヶ月以内で会の仕事を終える」宣言をした。戦時児童保育会の活動はこうして終結したのであった。

参考:林佳樺『「戦時児童保育会」之研究』(台湾・国立中央大学歴史研究所・修士論文、2005)


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