小学館版学習まんがスペシャル『ナイチンゲール』、宮本百合子「ナイチンゲールの生涯」を読む2009年08月02日

『ナイチンゲール』小学館版学習まんがスペシャル
 最近、娘は小学館の学習漫画の偉人伝がお気に入りである。今読んでいるのは『ナイチンゲール』、これは、私が小学校のころに読んだ偉人伝のような「戦場の天使」「聖人」的なイメージに偏らず、近代女性としての活動的なナイチンゲールを描こうとしているところがいい。ナイチンゲールの光の面を描いているという部分では、同シリーズの他の人物伝と共通しているが、子供向けであり、漫画という表現手段を用いているゆえの限界かもしれない。

 これを読みながら、ふと、私自身が『ナイチンゲール』を初めて読んだときのことを思い出した。母が私のために選んでくれた本だったと思う。だから、ナイチンゲールを知ったのは、今の娘と同じ歳くらいだったはずだ。なぜ、ナイチンゲールの偉人伝が印象に残っているかといえば、何度も繰り返し読む中で、そこに描かれる聖女的なナイチンゲール像に感動しつつも、僅かに違和感を覚えたからである。その頃は、自分の中に芽生えた違和感を上手く説明できず、また疑問を分析する力も追求する術も持たず、そのままになっていた。

 それが先日、宮本百合子「フロレンス・ナイチンゲールの生涯」をインターネット上の青空文庫で見つけた。宮本百合子といえば、「貧しき人々の群」などの作品で有名な作家だ。

 宮本は「フロレンス・ナイチンゲールの永い現実の生活は、はたしてそんな慈悲の香炉から立ちのぼる匂いのようなものであったろうか。人間のために何事かをなし得た人々は、今も昔もきわめて人間らしさの激しくきつい人々、その情熱も智力も意志もひとしおつよい人々ではなかったのだろうか」と疑問を投げかける。そして宮本の鋭い目は、ナイチンゲールの日記や著書、その他の史料をもとに(史料名は明記されていないものもあるが)、ナイチンゲールが、上流階級の淑女であるという縛りを受けつつも、何かを成し遂げたい、という情熱に突き動かされ、大いなる目的を持って行動した一人の近代女性であることを看破している。

 宮本百合子「フロレンス・ナイチンゲールの生涯」は、1940年の文章だが、少しも古びていない。そして長年、私がこの種の伝記に抱いてきた違和感を払拭してくれた文章だった。

 繰り返すが、宮本百合子が看破したように、「人間のために何事かをなし得た人々は、今も昔もきわめて人間らしさの激しくきつい人々、その情熱も智力も意志もひとしおつよい人々」なのだ。世の中を変えるのは大変なエネルギーが要る。マザー・テレサもナイチンゲールも…彼女たちが成し遂げたのは、従来の伝記に描かれてきたような、穏やかで控えめで慈悲の心に満ちあふれた天使のような女性というだけでは、到底近づくこともかなわない過酷な仕事なのである。表面的には穏やかに見えたとしても、彼女たちの内側は、強い意志の力に支えられ、目的を成し遂げずにはいられぬ、溢れんばかりの情熱が沸き立っていたに違いないのだ。

読んだ本:小学館版学習まんがスペシャル『ナイチンゲール』
参考:宮本百合子「フロレンス・ナイチンゲールの生涯」(青空文庫)http://www.aozora.gr.jp/cards/000311/files/3110_10703.html

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中国の天文史と西欧の接点2009年08月05日

 今年は世界天文年、ガリレオ・ガリレイが望遠鏡で月を観察してから、400年である。中国の天文学の歴史を調べていて、興味深いことを見つけた。ガリレオと知り合いで、ケプラーとも親交があったジョアン・テレンス(Jean Terrenz、中国名:鄧玉函)という医学者が、イエズス会の宣教師として中国へ渡り、西洋天文学のエンサイクロペディアである『崇禎暦書』の編纂に携わっていたのである。

 中国にいる間も、ドイツ他の天文学者と文通を続けており、それもあって、明末に編纂されたこの暦書はドイツの暦算学の大きな影響を受けているという。ヨーロッパの天文学が飛躍的に発展したこの時期に、ガリレオを直接知る人物が、極東の中国北京で新しい暦書を編纂していたのだ。天文学に造詣が深く、武器などにも明るく、中国語をマスターする意欲もある…といった人物は、ヨーロッパ広しといえども、非常に限られていたはずだ。それほどの人材を次々に中国に送り込んだイエズス会の本気が感じられる。

 1600年代といえば、日本は江戸時代に入ったばかり、当の中国も明から清へ…国が大混乱している時期である。その混乱の中に多くの宣教師が中国で過ごしながら、宣教の機会を待っていたというのもすごいことのような気がする。

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中国・日中戦争期、戦時児童保育会の児童の生活と教育2009年08月08日

 戦時児童保育会の活動全体で、初期の救助活動が落ち着いた後、重要な位置を占めたのは生活と教育である。生活に必要な用品、衣類や靴、学用品等は全て規定に基づいて支給され、食事も年齢ごとに必要なカロリーを計算して与えられていた。

一日のスケジュールは大体以下のようなものだったらしい。
6:00―7:00  起床、洗面
7:00―7:30  旗掲揚、体操
7:30―8:30  朝食
8:30―12:00 一般小学課程活動(各学年の担任教師が責任をもつ)
12:00―2:00 昼食と休憩時間・自由活動
2:00―4:00  一般小学課程活動(各学年の担任教師が責任をもつ)
4:00―6:00  各種個別および団体活動
6:00―6:30  夕食
6:30―7:30  沐浴、自修
7:30―8:00  就寝準備

 生活全体の中で、特に大きな割合を占めているのが「一般小学課程活動」である。保育院では入院時に学力・智力試験を行い、成績と年齢に基づいて、学力別にクラス分けをしていたようである。科目には公民、国語、常識(社会、自然)、筆算、珠算、美術、音楽、体育、労作訓練、職業訓練、などがあった。授業は一時限30分から40分と決まっていた。

 成績がいい児童については進学を促し援助していた。1938年から1946年までに26名(男23、女3)が大学へ、78名(男68、女10)が専科学校へ、246名(男176、女70)が師範学校へ進学を果たしている。一方、勉強をしたことがない児童や成績が良くない児童は、手に職を得て早く自立できるよう「職業班」を設置し職業訓練(園芸・畜産、木工、簡易機械工芸、簿記・会計等)を行っていた。他にも、問題児が20名以上いるときは「特殊班」をつくって、別のカリキュラムで教育をおこなっていた。

生活用品にしても、教育上の配慮にしても、当時収容した児童の現状に合った、きめ細やかな対応が取られているように思われる。 ただ、各院の院長とスタッフにより、生活水準や教育内容には相当差があったようである。院長が良心的なところは、規定に基づいた生活と教育が行われ、アットホームな雰囲気も生まれていたようだ。財政困難で規定の水準を守るのが難しいときも、スタッフが児童と艱難を共にすることで、信頼関係が深まったという。しかし、中には児童を搾取するひどい院もあったらしい。全てが規定通り、理想通りではなかった。それでも、本部は調査員を送ったり、表彰制度を導入して、質の向上に努めていたことは書き添えておこう。

参考:林佳樺『「戦時児童保育会」之研究』(台湾・国立中央大学歴史研究所・修士論文、2005) 

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テレビドラマ「アンネの日記」と小学館版学習まんが人物館『アンネ・フランク』2009年08月09日

『アンネ・フランク―戦争の中で生きる希望を書き続けた少女
 今年はアンネ・フランク生誕80周年だそうだ。「フルハウス」を見ようとしてテレビをつけたら、テレビドラマ「アンネの日記」をやっていた。タイトルを娘に読んで聞かせたところ、娘に「せいたん80しゅうねんって?」と聞かれた。「アンネが生きていたら80歳のおばあちゃんになっていたということよ」と答えて、自分の答えに驚いた。そうだ、アンネが生きていたら、今頃80歳なのだ。娘もドラマを見たいと言ったので、二人で第2回から第5回まで見た。

 ドラマでは、本物のアンネの写真によく似た女優さんがアンネの役を上手に演じている。ドラマに登場するアンネは思春期を迎えた、13歳から15歳の多感な少女である。小学校二年生の娘にアンネが分かるだろうか…とは思ったが、熱心に見ていた。分からないところもあるに違いないが、日記そのものは、隠れ家での日常とアンネの思いを描いているもので、特別に恐ろしい映像があるわけではなかった。ドラマの最後に隠れ家を密告されゲシュタポに踏み込まれて、銃を突きつけられる場面以外は。

 このドラマを見ることになったのは、娘が偶然、小学館版学習まんが人物館『アンネ・フランク』を読んだばかりだったからである。私も読んでみて、この本はなかなかよく考えて執筆されていると感じた。アンネがドイツで過ごした幼年時代、オランダでの幼稚園時代、小学校時代、そして隠れ家での生活、逮捕後のホロコーストでの悲劇…戦争、ナチスのユダヤ人迫害という難しいテーマを、明るく可愛らしい少女アンネの成長の経過と、戦争とユダヤ人迫害という時代の影を一緒に描き、比較的上手に、迫害の理不尽さと残酷さ、迫害される側の心理が、子供にも分かるように工夫されている。

 正直なところ、私自身が『アンネの日記』を初めて読んだのが、小学校高学年の頃だったこともあって、小学校二年生の娘に『アンネの日記』は早すぎると思っていた。でも、さきにこの小学館版学習まんが人物館『アンネ・フランク』を読んだ上でなら、ある程度は『アンネの日記』に共感できると思う。思春期の少女についての理解は、もっと先のことだと思うが。

 ところで…逮捕後、アンネは半年後に命を散らした。姉と共に、最後に行き着いたドイツのベルゲン・ベルゼン強制収容所は、ガス室はなかったが、収容者に食事を与えず、餓死させる方法を採っていた。不潔で病気が蔓延しており、アンネと姉のマルゴーはチフスで死んだと言われている。アンネの死亡日とされているのは、1945年3月31日である。これには異論があり、2月末、3月初めとの説もあるが…イギリス軍によってこの収容所が解放されたのは同年4月15日だったそうだ。人間はなぜ人間にこうも残酷になれるのだろう。同じ悲劇が繰り返されないために、私にも何かできることはないだろうか。

見たテレビドラマ:『アンネの日記』全5話(再放送は9月19日14:30~17:00 五話連続放送 http://www9.nhk.or.jp/kaigai/anne/index.html )
読んだ本:小学館版学習まんが人物館『アンネ・フランク―戦争の中で生きる希望を書き続けた少女―』(小学館、1996)

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時間によって克服される距離――藪内清『中国の天文暦法』を読む2009年08月11日

 最近、藪内清『中国の天文暦法』という本を少しずつ読んでいる。それで知ったのだが、中国天文学は、独自の発展もさることながら、外国からの影響が少なくなかったらしい。
 
 漢代にギリシア、唐代にインドの天文学の影響を受けながら発達し、元代には世祖の時代にペルシアを支配したイルハーン国を通じてイスラム系の西方天文学が大量に伝わり、そして明朝の末から清朝の初めにかけてヨーロッパ天文学がイエズス会の宣教師を通じて伝わった。

 遙かなるギリシア、インド、ペルシア、ヨーロッパから中国へ、通信手段も交通手段も限られた時代、知識や情報や様々な品々が、いろいろな人々を経て、時間をかけて、途方もない距離を旅して伝わっていったのだと思うと、感慨深い。

読んでいる本:藪内清『中国の天文暦法』(平凡社、1990) 

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中国・明末、宣教師マテオ・リッチの北京までの遍歴――平川祐弘『マッテオ・リッチ伝』を読む2009年08月14日

 16世紀から17世紀にかけて、ヨーロッパと中国という二つの世界を繋いだイエズス会と明代の中国に関心があって、いま、平川祐弘『マッテオ・リッチ伝』(全三冊)を読んでいる。この本の見所は、個人的には二つある。一つは、著者が英語・フランス語・ドイツ語・イタリア語に通じる語学の達人であり、プロの研究者であって(中国語文献については漢文で読解?)、中国、イタリア、フランス等の貴重な史料(書簡なども)を駆使して、マテオ・リッチの生涯を追っているところ、もう一つは、マテオ・リッチを通して明代末期の中国事情を知ることができるところ、である。

 それにしても、この時期に中国に入った宣教師は、アヘン戦争以降の宣教師とは全く違う。まず、中国に融け込むための地道な努力をしているところが違う。

 例えば服装等外見の工夫。最初は日本でのイエズス会の伝道方法を参考に、仏教の僧服で中国に入っている。ところがしばらくして、中国では僧侶の社会的地位は必ずしも高くないことに気づく。このとき、中国の友人のアドバイスを得て儒官の服に換え、身分の高い人に会うための絹の服を作り、会の許可を得て髭と髪を伸ばすなど、外見を変えている。

 次に贈り物の工夫。彼らは当地の風俗に従って、贈り物には十分な返礼をし、また高官等に挨拶に出向く際には珍しい贈り物をするよう心がけている。贈り物の内容は、ヨーロッパの自然科学の知識を生かした、世界地図や地球儀、日時計や砂時計等、時にはリッチ自らが西洋の思想を紹介した本を手作りしてもいる。しかもこの世界地図には中国を中心に描くなど、細かい心配り(もちろんそればかりではないが)もしていた。

 実際にマテオ・リッチが中国人に認められたきっかけは、ヨーロッパの数学や天文学などの自然科学の知識や記憶術、西洋思想の紹介等であったにせよ、彼らの外見や中国人の習慣にしたがった贈り物などが果たした役割は大きい。リッチが北京在住を許されたのも、もとはといえば、贈り物リストに時計があったことを、政務嫌いの万暦帝が思い出して召し出したおかげなのだから。

 長い歳月をかけて、地道に一歩一歩中国人に受け入れられ、中国に融け込んでいった努力、一緒に中国へ入った仲間が次々に病気で亡くなって一人になっても孤独に耐えながら、目的遂げるまで奮闘を続けた精神力は並大抵ではない。それを支えたのは、やはりキリスト教を布教する足場を中国に作るという信念であったのだろう。

読んでいる本:平川祐弘『マッテオ・リッチ伝』(東洋文庫、1969)

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手作り自動販売機であそぶ――夏休みの工作2009年08月15日

手作り自動販売機を上から覗くと…
 いま、娘の中でブームなのが「自動販売機」ごっこ、である。夏休みに入ったばかりのころ、夫と娘二人で作った自動販売機が徐々に進化を遂げながら大活躍である。この工作、設計は夫、作業は難しいところを夫が、画用紙を切るなど簡単なところは娘が担当した。

 材料は紙だが、夫が真剣に考えて作ったものだから、よくできている。カードを差し込んで引き下ろすと、品物が出てくるシンプルな仕掛けである。入れられる品物は二個までで、続けて遊ぶには、後ろで補充する必要がある。

 今回の工作はなかなか難しかったので、娘の出番は少なかったが、むしろ娘の本領は完成後の工夫の部分で発揮された。ビー玉を入れたり、可愛い絵を入れたり、楽しい工夫をして、「自動販売機」ごっこ、なる新しい遊びを始めたのである。

  「自動販売機」の前に立つと「いらっしゃいませ」と言って品物を補充、その後「カードを入れてください」と言って、カードを差し込ませる。まるで、最近の話す自動販売機そっくりである。これがお気に入りで、一日中、暇さえあれば「あそぼう。自動販売機であそぼう」と誘いに来る。

 最近は、私のアイデアで「おみくじ」販売機にもなり、娘手作りのコインでの販売も始まるなど、少しずつ進化を遂げている。私としては、これが、どんな遊びに変化していくのか、さりげなく注目している。これでお友達と遊んでくれたら、もっとありがたいのだが…、もしかしたら、こんなふうに親を遊びに誘うのもいまのうちだけかもしれないと思うと、今を大事にしようとも思うのである。

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手が痛いので2009年08月19日

 最近、朝起きると手がこわばって痛い。キーボードの打ちすぎで手を痛めてしまったのか、それとも…。手指をしばらく休めて様子を見ようとおもっている。ブログの更新は気にかかるし、書きたいこともたまっているのだが、しばらくはペースダウンすることになりそうだ。

ミニ気象台で「はれるん」に会いましたーー大阪市立科学館2009年08月19日

「はれるん」かわいいでしょ。気象庁のイメージキャラクターです
 今日は友人に誘ってもらって、大阪市立科学館へ行きました。8/26まで展示場を無料開放しているのもあって、大変な盛況でした。今日のお目当ては「夏休みミニ気象台2009」というイベントです。

 会場は地下1F、入り口では気象庁のイメージキャラクター「はれるん」が出迎えてくれます。はれるんは、頭は太陽、胸のところが雲で、服は雨。娘達は一緒に写真をとったり、握手をしてもらったり、大はしゃぎでした。

 ミニ気象台では、気象庁の方達が、地震や雷、竜巻などの自然現象について、手作りの実験装置で詳しく教えてくれました。中には、夏休みの自由研究のヒントにもなりそうなものも。他にも、地震の音を聞くコーナーや大雨の危険性と天気予報について知るコーナー、工作コーナー(地球儀をつくる)、紫外線ビーズでブレスレットをつくるコーナーなどがあり、楽しめました。

 ミニ気象台を楽しんだ後は、プラネタリウムを見て、展示場を回って…思う存分楽しみました。私としては…以前から関心を持っていたガリレオ・ガリレイの「天文対話」初版本など、珍しい本の展示を見ることができたのも収穫でした。友人一家のおかげでとっても楽しい一日を過ごすことができました。

参考:大阪市立科学館 http://www.sci-museum.jp/ ミニ気象台は20日まで
はれるんランド http://www.jma.go.jp/jma/kids/index.html 子供向けに天気予報や気象のことを分かりやすく教えてくれます。ゲームコーナーやプレゼントコーナーも

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ガリレオ・ガリレイと望遠鏡2009年08月23日

 最近、天文学の父・ガリレオのことが、気になっている。ガリレオが自作の10倍の望遠鏡を天体に向けたのは、1609年である。ガリレオの望遠鏡が大変名高いので、私は最近まで、ガリレオ・ガリレイが望遠鏡の発明者で天体に望遠鏡を向けた最初の人だと思い込んでいた。

 本当のところ、望遠鏡を発明したのは、イタリア・ナポリ出身の博学者、ジャンバッティスタ・デッラ・ポルタという人物で、1580年頃であるらしい。また3倍の実用的な望遠鏡を発明したことで知られるのは、オランダの眼鏡職人ハンス・リッペルスハイである。1609年4月にはフランスで流行したといい、ガリレオが望遠鏡の存在を知ったという1609年5月にはすでに多くの人が望遠鏡を知っていたらしい。

 天体観測についても、イギリス・オックスフォードの科学者トーマス・ハリオットは、1609年7月には月を観察して表明の凸凹を発見してスケッチしており、更に太陽の黒点も発見していたといい、ガリレオよりも数ヶ月早かった。それというのも、ガリレオの新発見は1610年1月から始まっているからである。

 同じ時代に望遠鏡を手にして、ガリレオよりも先に天文観測に成功した人もいたのに、なぜガリレオが天文学の父と呼ばれるようになったのだろう、とふと思った。周知のことかも知れないが、図書館で関連書を探し読んでみた。

 ガリレオは1609年5月に望遠鏡のことを知ると、一日で10倍の望遠鏡を作り上げ、更に数ヶ月をかけて30倍まで倍率を高めたという。彼にとって望遠鏡は長年胸に秘めてきた多くの疑問を確認する手段であった。そして自ら改良した望遠鏡を天文に向け、1610年1月以降、新発見を重ねていく。月の表面の凸凹を発見したり、木星の4つの月を発見したり、金星の満ち欠けについて観察したり、太陽の黒点を発見したり…それらを慎重に考察した報告『星界の報告』を1610年3月に出版するのである。

 実は、ガリレオは1597年5月の同僚宛の手紙、8月のケプラー宛の手紙で地動説を信じていると記している。それでも公言は控えていた。ローマ・カトリック教会の熱心な信者でもあったガリレオはこの時点では慎重であった。地動説を証明するに足る証拠がなかったためだろう。様々な方法を模索していたらしいことは、ケプラー宛の書信にも見えるが、具体的に何をしていたのかは記されていない。ただ、望遠鏡を手にしたガリレオが、すぐさま改良にとりかかり、天体観測を行い、その報告を当時としては異例の早さでまとめ上げたところを見れば、胸に成竹あり(事前に十分なアイデアや方向性、考え方が定まっていること)であったことは確かだろう。地動説に論及するようになるのは、『星界の報告』以降のことだ。実験、観察を行って真理を追究することを貫いたガリレオらしい。

 新しい発見や発明には時に運命的な競合がある場合が少なくない。同じ時期に同じことを別個に考えている人物がいる偶然である。この勝負の分かれ目は、そのアイデアや発見をどのように生かし育てるか、にかかっている。望遠鏡もまさに同じ状況にあった。多くの人が同じ時期に手にした望遠鏡を、ガリレオが改良を加え、それを最も有効に上手く使いこなし、価値ある存在に育て上げたのだ。そして望遠鏡によって得られた観測結果を数学的に解析するという科学的手法を開拓し、天文学上の重要な多くの発見と考察によって地動説を証明し、哲学や宗教から科学を引き離すことに寄与した。ガリレオが、天文学の父、近代科学の父とよばれるにふさわしい業績をあげたことが私にもようやく納得できた。 

 しかし、優れた自然観察者であったガリレオも、教会とアリストテレス学派に対する人間観察の方は予測が外れたようだ。彼は信仰と科学は切り離せるものだと思っていたようだが、結局2回目の裁判(いろいろ説はあるようだが)を経て異端とされ、地動説を否定させられ、軟禁生活を強いられて、1642年その生涯を終えた。ローマ・カトリック教会によるガリレオの名誉回復は、死後350年後、1992年のことであった。

参考:ガリレオ・ガリレイ(Wikipedia) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%AC%E3%82%A4
渡部潤一『ガリレオがひらいた宇宙のとびら』(旬報社、2008)
青木靖三『ガリレオ・ガリレイ』(岩波新書、1965)


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