冲方丁『天地明察』を読む2010年05月11日

最近本屋大賞をとって話題の冲方丁(うぶかたとう)『天地明察』、日本独自の暦を作った渋川春海を描いた小説だという。以前暦を調べたときに渋川春海という人物に興味も持ったのを思い出し、早速読んでみた。474ページもの大部の著作であるが、読み応えがあり、面白かった。渋川春海が生きた江戸時代初期という時代、彼を取り巻く人間達、暦にかける情熱など、読んでいて爽快だった。江戸時代、こんな人達がいたのだと、とても嬉しかった。数学を楽しんでいる人達が作り出す、何とも言えない幸せな空間と時間を感じ気持ちが良かった。

 

但し、小説としては面白いが、記述されている天文学や数学、暦の知識には残念ながら作家の理解不足が感じられる。

 

私が知っている限りでも…授時暦は天下の名暦であるが、実際のところ、中国の暦ではマテオ・リッチの後輩のイエズス会の宣教師(アダム・シャール等)が中心となって明朝末期に編纂が開始され清朝初期に頒布された「時憲暦」以前、「食」を分秒単位で当てることはできなかった。それを可能にしたのは西洋天文学である。本書にも僅かに『天経或問』を入手して西洋の視点を取り入れた記載があるが、その重要さには言及していない。大和暦が宣明暦と授時暦と食予報で優位に立てたのは、マテオ・リッチが中国で紹介した西洋天文学の知識を渋川春海が取り入れたのが大きいと思う。

 

とはいえ、天文学や数学等に相当通暁した専門家でもなければ、この本に書かれた内容の全てを完全に正しく書くのは困難であろうし、専門家がこの爽快な人間模様を描き出せるとも思えない。むしろこの難しいジャンルに挑戦した作家の勇気を称えたい。

 

読んだ本:冲方丁『天地明察』(角川書店、2009)

 

天地明察




日食予測-確率の世界だった頃2010年05月11日

日食は今や一秒以内の誤差で正確に予測できると聞いて驚いた。確かに生まれてこのかた、「日食の確率は○%」というのは聞いたことがない。天気予報は「雨の確率は10%」、地震予報は「30年の間に大地震が起こる確率は70%」、まだまだ確率の世界であるが、日食は食計算で食の始まりから終わりまで、分秒単位で予測することができる。現在のところ、未来の地球の現象をこれほど正確に予測できるのは、天文学だけの特権ではないだろうか。天気予報や地震予報も、食計算並みに予測出来るようになったら、どんなに素晴らしいだろう。

 実際のところ、日食予測も昔は確率の世界だった。日食の予測が重視された中国には、古くから天文観測や時間の管理を行い、暦日の吉凶や国家の安危を占う役所があった。ここに奉職する天文官は、食計算で日食の日時をはじきだし、皇帝に奏上するのが決まりだったが、時々外れた。予測を外した天文官は処罰されるのが通例だったようだ。『尚書』には紀元前2137年10月22日と推定される夏の仲康日食の際、天文官が泥酔して空の観測と日食の予報を怠り斬首された記録がある。これほど重い処罰は例外としても、暦法は国家の大典という意識がある中国においては、予測を誤った天文官が処罰されるのは珍しいことではなかった。ここで問題なのは、日食予測の誤りの原因が、暦法自体にあったことだ。

歴史的に見て、中国で日食予報の方法が、知られるようになるのは、『漢書』「律暦志」にある「三統暦」からである。これは食周期を利用したものであったから、十分な予報は行えなかった。数学的に食予報が行われるのは、楊偉の撰による「景初暦」(三国時代237-451)が最初である。その後、食計算法は、隋から唐にかけて進歩を遂げる。隋代には太陽の位置の計算と日食の太陽視差が考慮されるようになり、唐代の仏僧・一行の編纂による「大衍暦」(唐729-761)では計算に食の地域的時間差が導入され、徐昴が編纂した「宣明暦」(唐822-892)で更に改良整備された。宣明暦を含む古代・中世の食計算では日食が起こることは予測できても、特定の場所で起こることまでは確定できなかったが、従来の食計算と比べれば格段の進歩だった。但し、中国暦における食計算はこの唐代でほぼ極点に達し、その後はさしたる進歩はなかったのである。その後も中国暦は改暦を重ねるが、古今の良暦と称された元代の「授時暦」(郭守敬や王恂、許衡の編纂、1281年施行)も、それを少々改訂した明一代の暦「大統暦」も食計算では唐代に及ばなかった。

確率の世界だった日食予測は、それを担当する天文官にとっては当たれば無事に任務を遂行できたことになり、外れれば処罰が待っている、いわばロシアンルーレットのようなものであった。

 

参考:

ウィキペディア

藤井旭『日食観測ガイド』学研

平川祐弘『マッテオ・リッチ伝』1-3巻 東洋文庫

ブーヴェ著 後藤末雄 矢沢利彦校注『康煕帝伝』東洋文庫

後藤末雄著 矢沢利彦校訂『中国思想のフランス東漸』1-2巻 東洋文庫

藪内清『増補改訂 中国の天文暦法』

宮崎市定『中国文明の歴史 9清帝国の繁栄』

閻祟年『正統清朝十二帝』(中文)




日食予測-確率の世界からの脱却2010年05月11日

東アジアの場合、日食予測に大変革が起きたのは16世紀末、明代末期である。当時、中国暦法よりも優位にあった西洋暦法が、イエズス会宣教師マテオ・リッチ等によってもたらされたことによる。しかし、これが中国に根付くためには、宣教師等の献身的な努力が必要だった。

リッチは、中国でカトリックを宣教するために、西洋の天文学や数学の知識が有用と悟り、徐光啓や李之藻等信徒で官僚でもある優秀な人物の協力を得て、西洋の自然科学書の漢訳に取り組んだ。この努力が功を奏して、次第に西洋自然科学、西洋の暦算の優秀性が知られるようになる。

『明史』によれば、西洋暦法が改暦に採用されたきっかけは次のようなものだった。崇禎帝が日食予測を外した天文官を、慣例に則って処罰しようとしたとき、徐光啓が「天文官は郭守敬の暦法で予測したのです。元代においても日食があるべき時に日食にならないことがありました。天文官が誤るのも無理のないことです。暦法が長く使われて誤差が生じていると聞いております。暦法を修正するべきです」と改暦を進言したのである。改暦の決め手は1629年(崇禎2年)5月に大統、回回、西洋の三種の暦法で競われた日食予測競争で、西洋暦法のみが予測を適中させたことだった。当初予測を外した天文官は日食予測競争に負けたとはいえ、徐光啓のおかげで処罰を免れたのだから、感謝したことだろう。同年7月、当時は礼部左侍郎だった徐光啓に暦法改修の勅命が下る。

徐光啓は暦法改修については「彼方の材質を鎔して、大統の型模に入れん」、要するに、西洋天文学の成果を伝統的な中国暦法の枠内に取り入れる、という考えで臨んだ。参画したイエズス会士は、リッチ没後の中国布教総監督ニコラス・ロンゴバルディ、スイス出身でガリレオやケプラーとも親交があった医学者で天文学にも造詣が深かったジョアン・テレンス、ジャック・ロー、ドイツ出身のアダム・シャール、このときイエズス会士が採用したのは、天動説と地動説との折衷ともいえるティコ・ブラーエの宇宙体系であった

『崇禎暦書』の編纂事業は、当初順調に進んだ。徐光啓がイエズス会士により訳編された暦書に目を通し、文章を訂正するという実質的な仕事に加え、徐々に高まる保守派勢力を完全に押さえ込んだからである。しかし暦法改修は大規模で長期間に渡ったため、多くの仲間が志し半ばで死去することになる。特に徐光啓の死去は大打撃となった。保守派は勢いを盛り返し、シャールが独力で抵抗する事態となってしまう。


 

参考:

ウィキペディア

藤井旭『日食観測ガイド』学研

平川祐弘『マッテオ・リッチ伝』1-3巻 東洋文庫

ブーヴェ著 後藤末雄 矢沢利彦校注『康煕帝伝』東洋文庫

後藤末雄著 矢沢利彦校訂『中国思想のフランス東漸』1-2巻 東洋文庫

藪内清『増補改訂 中国の天文暦法』

宮崎市定『中国文明の歴史 9清帝国の繁栄』

閻祟年『正統清朝十二帝』(中文)



日食予測-王朝交代の激動と『時憲暦』の施行2010年05月11日

 折しも李自成の反乱軍が北京に乱入、崇禎帝は自害を遂げ、明朝滅亡、その後、李自成軍を鎮圧した清軍が北京に入城する。王朝交代の激動は、果たして新暦施行には有利に働いた。

 清軍は北京を占領すると、内城の中国人をすべて外城に強制移住させ、その後に譜代の八旗兵を家族と共に移住させた。このとき唯一移動を免れたのが宣武門内のイエズス会の天主堂(南堂)である。シャールが上書して天文儀器や蔵書の移動の不利を申し立て、思いがけなく許可が下りたのだった。

 新暦施行にも、チャンスが訪れる。順治元年8月初1日の日食に際し、大統、回回、西洋の三種の暦法による日食推算競争が行われ、このときも西洋暦法だけが予測を適中させたのである。これを受けて、1644年(順治元年)、シャールは暦の編纂や天文観測、時報等を司る重要な役所・欽天監のトップ・監正に任命される。中国史上初めて、西洋人宣教師に欽天監が任されることになったのである。

 シャールは早速、『崇禎暦書』を再編、『西洋新法暦書』と改称し、1644年(順治2年)11月にこれを奏進、清朝の最高実力者・摂政王ドルゴンにより『時憲暦』と命名され、施行された。西洋暦法による新暦施行の快挙は、天主堂と貴重な天文儀器・書籍を守った気骨ある振る舞い、新しい権力者に信頼される誠実な人柄、そして日食を正確に予測した天文学者としての知識など、シャール個人の努力と資質に負うところが大きかったようである。


参考:

ウィキペディア

藤井旭『日食観測ガイド』学研

平川祐弘『マッテオ・リッチ伝』1-3巻 東洋文庫

ブーヴェ著 後藤末雄 矢沢利彦校注『康煕帝伝』東洋文庫

後藤末雄著 矢沢利彦校訂『中国思想のフランス東漸』1-2巻 東洋文庫

藪内清『増補改訂 中国の天文暦法』

宮崎市定『中国文明の歴史 9清帝国の繁栄』

閻祟年『正統清朝十二帝』(中文)

 




日食予測-皇帝の寵愛と凋落と西洋暦法の勝利2010年05月11日

清朝・順治帝の時代、シャールと中国全土の宣教師達は安穏な日々を送った。これはシャールが最初は摂政王・ドルゴン、後に順治帝とその実母・孝荘太后の絶大なる信頼を勝ち得たことが大きい。改暦は実質上摂政王ドルゴンの治世下で行われたが、1650年(順治7年)に13歳で親政した順治帝は、シャールを師と仰ぎ、親しみやすい人柄と深い教養を愛した。その寵愛ゆえに、シャールは数多くの爵位、「通玄教師」という号を授けられ、西洋暦法もその恩恵に浴した。

ところが、1661年(順治18年)、順治帝が崩御し、第三子・玄燁(8歳)が康煕帝として即位すると、保守的な大臣が摂政となり、宣教師達に対する風当たりがにわかに強くなった。康煕3年、中国人で中国古来の暦法の研究家と称する楊光先が、暦の些細な問題を指摘し、更に順治11年に逝去した栄親王の葬儀の日取りがたまたま凶に当たっていたのを申し立て、シャール以下の宣教師等が投獄された。ベルギー出身のイエズス会士、フェルディナント・フェルビーストは、中風で言葉が上手く話せないシャールに代わって弁明に努めたが、審議を担当する官僚には科学的知識がなく、カトリックを邪教と見る保守派の集まりだったから、ほぼ徒労に終わった。康煕4年3月、シャールは死刑の中でも最も重い凌遅斬刑、他の宣教師は杖刑の判決を受ける。

この危急の際、彼らを救ったのは翌月北京で起きた大地震だった。中国の伝統的な考え方に照らせば、天災は天の怒りである。大赦が行われ宣教師は釈放、また判決に怒って大臣を叱りつけた孝荘太后のおかげで、シャールは死刑を免じられ、教宅で軟禁生活を送り、75歳で失意の内に病死した。

シャール等の失脚によって、欽天監の実権は楊光先等保守派が握るところとなる。しかし、時がたつと、楊等の暦算による予測が実際の天文現象と合致しないことが明らかとなった。

 康煕帝が親政すると、フェルビーストは楊光先の暦の計算が間違っている旨を上書する。康煕帝は両者の言い分を確かめた上で、1669年(康煕8年)正月に起こるはずの日食についてその時刻を計算させ、当日宮廷に官吏を集めて日食を待った。果たして、フェルビーストが予測した時刻通りに日食が始まった。西洋暦法が勝利した瞬間であった。まもなく、シャールも名誉回復された。

中国で日食予測が確率の世界だった時代は、これで終わりを告げた。時憲暦の地位はその後ゆらぐことはなかった。なお、民間では今でも、時憲暦の置閏法に基づいた暦が「農暦」の名称で使用されている。

 

参考:

ウィキペディア

藤井旭『日食観測ガイド』学研

平川祐弘『マッテオ・リッチ伝』1-3巻 東洋文庫

ブーヴェ著 後藤末雄 矢沢利彦校注『康煕帝伝』東洋文庫

後藤末雄著 矢沢利彦校訂『中国思想のフランス東漸』1-2巻 東洋文庫

藪内清『増補改訂 中国の天文暦法』

宮崎市定『中国文明の歴史 9清帝国の繁栄』

閻祟年『正統清朝十二帝』(中文)