中国人ならだれもが知っている英雄ベチューン(2)2008年02月03日

 カナダにいたころのベチューンは、医学界で胸部外科の分野で高い評価を得た医者であり、トロント大学で教鞭を執っていたこともある教育者であり、外科手術用の器具を発明して成功をおさめた発明者でもあった。しかし、その複雑な性格と過激な言動ゆえに個人的な生活は不幸だった。

 ベチューンはやがて、共産主義に共鳴し、カナダ共産党に入党、1936年スペインの内乱が起こるとスペインに赴き独自の発想で「カナダ輸血班」を組織してスペイン全土の反ファシスト組織に血液を供給する活動を立ち上げ大成功を収めた。しかしながら、人間関係で躓き、大きな問題となったので、カナダ共産党は彼を資金集めの講演旅行を理由にカナダに連れ戻した。この時、ベチューンは歓呼の声で民衆に迎えられた。

 その後カナダとアメリカを講演旅行して回っていたベチューンは、1937年に日中戦争が勃発したことを知ると、すぐさま医療チームを探し、自ら結成に関わり、資金を募って、アメリカ人医師チャールズ・H・パーソンズ(到着後ベチューンと衝突して間もなく帰国)とカナダ人看護婦ジーン・イーウェンと共に中国に入った。ベチューンは延安を経由して抗日戦争の最前線「晋察冀(山西・チャハール・河北)」軍区の病院、或いは戦場のそばへ積極的に移動して、傷病者の治療に従事、医師や看護者の教育、医療設備の整備等に尽力した。帰国して資金を募る計画を立てていた矢先、手術中の感染で敗血症となり、1939年逝去した。ベチューンが中国にいたのは2年足らず、その間毛沢東と一度会い、手紙を何回も送っていた(毛沢東によれば一度返事をした)ことから、毛沢東はベチューンの逝去に際し、哀悼の意を表した文章「記念白求恩」(ベチューンを記念する)を発表した。そして中華人民共和国成立後、ベチューンは中国革命の第一級の英雄の列に名を連ねたのである。

 一方、故国カナダではベチューン評価は長い間行われなかった。テレビのドキュメンタリーや映画が作られて一定の評価を得たことがあったが、共産主義を警戒するアメリカの抗議によって、すぐさま放送や放映ができなくなった。ベチューン評価がカナダで公に行われるようになったのは中国とカナダの国交が回復した1973年秋以降のことである。カナダのトゥルードー首相が国交回復の為に訪中した際、その日程にはノーマン・ベチューン博士の墓へ詣でる為の石家荘市への旅が含まれていた。更にカナダ政府は帰国後まもなく中部カナダの小都市グレーヴンハーストにあるベチューンの生家を買い入れ、専門家チームが資料収集の為にスペイン・イギリス・アメリカ・中国へ赴いて三年後にはベチューン記念館をオープンさせた。ベチューンの顕彰は、当時のカナダが中国との国交を回復するにあたり、欠かせない政治的配慮であった。

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